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原理の補足説明

原理の捉え方

基本原理

中心と対象

霊人体とは

祝福とは

人が完成するという意味

試験期間と霊人体完成後の堕落

堕落とは

原罪について


原理の捉え方

原理というのは、簡単に言えば、「仕組み」のようなものです。科学においては、基本法則という意味であり、これによって、物理的な運動の予測が、ほぼ正確にできてしまいます。

しかし、人の行動は、そのようにはなりません。何故なら、人は堕落し、原理軌道から外れているうえ、自由行動が許されているからです。そのため、原理原本では、人の堕落によって、原理は完成していないため、各自が神様につながり、原理を完成させなければならないとしています。

つまり、ここで言う原理というのは、人の行動によって左右されるものであり、まだ未完成であるため、私たちが探し求めていかなければならない理想を論じたものです。もちろん、人の行動に左右されない科学的な原理もありますので、原理原本では、宗教的な原理と科学的な原理の共通点を探し出して、それらを一つにすべきだとしています。

もし、全ての原理が、最初から完成していて、定まったものだという思い込みがあれば、「原理を完成させなければならない」というフレーズに対し、違和感を覚えたかも知れません。また、「堕落原理」というタイトルを見て、そんなはずは無いと思ったかも知れません。「堕落原理」は、「堕落する仕組み」と捉えるのが良いと思います。

たとえ宗教的な原理を知ったとしても、それを自分自身で実行しなければ、原理が完成したとは言えないという事になります。それは、設計図をもらって置いて、作らない事と一緒です。仮に設計図を見て作ったとしても、それが設計図通りになっていなければ、完成したとは言えません。人が関係すると、設計図通りに作ろうとしても、神様でさえ、なかなかうまくいかないという事です。それが、科学的な原理との違いだと思います。


基本原理

基本原理とは、中心的存在と相対的存在が一つになるための法則です。科学において、この原理は、整然としたものであると言えます。しかし、人においては、そうではありません。この原理を完成させるためには、相当の努力が必要となります。

中心的存在と言えば、格が上の存在を連想すると思います。例えば、親や先生や上司などです。しかし、同格の間でも、自分から相手を見れば、自分が中心的存在となり、相手は相対的存在となります。相対というのは、単に相手という意味でもあります。つまり、中心的存在と相対的存在の関係というのは、格差がある場合と、同格の場合があります。

今までは、男性が主体で、女性が対象だと考えてきたかも知れません。しかし、原理原本には、そのような概念はなく、そもそも「主体」という言葉さえありません。

原理原本では、中心的存在は、相対的存在を定め、その存在に、授受することのできる対象となることを望む、ということになっています。男女関係では、互いに相手を決めれば、男性は相手の女性が妻となることを望み、女性は相手の男性が夫となることを望みます。この場合は、互いが中心的存在であり、また相対的存在でもあります。そして、結婚すれば、互いが、授受することのできる対象となります。神様と人の関係では、神様が中心的存在であり、人は相対的存在となります。そして、人が成長すれば、神様と授受することのできる対象となります。

中心的存在とその対象が、愛と美を授受すれば、原力が生じます。原力とは、存続するための力です。このような授受を継続することによって、中心的存在とその対象は、一つになっていきます。


中心と対象

一般的には、「主体と客体」という言い方をしますが、この「主体と客体」という二者の間には、大きな格差があります。例えば、人と物、主人と(しもべ)という関係であり、「従わせる者」と「従う者」という意味もあります。しかし、原理原本では、客体という立場は変化します。例えば、神様に対して、人が未完成であれば、人は客体であると言えるかも知れませんが、人が完成すれば、神様の分身という立場になり、完全に自由となるため、客体という立場から外れます。これに関して、原理原本では、神様の圏内に入っていても、未完成である場合は、「相対的」であると表現し、完成段階に入った存在を「対象」と表現しています。

以上のように考えれば、主体という立場も変化するということになります。つまり、相手が未完成であれば、主体として、相手を従わせる立場であっても、後に相手が完成段階に入れば、主体という立場から離れていかなければなりません。これは、親子関係や師弟関係などでも言えるのではないでしょうか。原理講論では、「主体と対象」となっていますので、相手が完成段階に入り、対象となっても、主体は主体のままですので、二者の主従関係は変わらないものと捉えることができます。

原理原本では、「中心と対象」となっています。ここでいう中心は、単に主体の別表現であるかのように見えますが、主体とは意味が違います。例えば、自分が、既に親から独立し、家庭を持っているとしましょう。それでも自分は親から生まれた立場なので、親は自分にとって中心的立場です。しかし、独立している自分にとって、親は主体的立場ではありませんし、親も自分に対して主体的立場を取ろうとはしません。つまり、親子関係は、いつまでも変わりませんが、子が独立すれば、主従関係ではなくなります。もし親が主体的立場を取り続けるならば、子は、いつまでたっても、独立できないのではないでしょうか。たとえ子が独立しても、親が主体的立場を取ろうとすれば、その親子関係は、いつか壊れざるを得ないのではないでしょうか。


霊人体とは

原理講論では、人は、霊人体(生心+霊体)と肉身(肉心+肉体)から成っており、霊体は、霊形体、生命体、生霊体という成長の三段階を経て完成するとしています。

ところが、原理原本では、少し違います。人は、霊人(生心+霊人体)と肉身(肉心+肉体)から成っており、霊体(霊形体)、生命体、生霊体は、それぞれ別々のものです。つまり、霊人体は、霊体+生命体+生霊体となります。整理すると下図のような構成になります。


この霊人体の構造を理解するためには、原理原本や原理講論には無い天宙に関する知識が必要になります。俗に言うあの世のことを、原理原本では無形世界、原理講論では無形実体世界としていますが、その世界には、大きく分けて幽界、霊界、神界の三段階があります。そして、それぞれの世界で存在するためには、霊体、生命体、生霊体という三種の体が必要になります。整理すると下表のようになります。


表では、原理での呼称と、一般的な呼称が異なっていますが、これは単に、定義の違いによるものです。また、生霊(せいれい)体は、俗に言う生霊(いきりょう)とは異なります。それから、生命体は、一般的には生物を意味しますので、ご注意ください。

幽界の体には、人の顕在意識(理性と心)があります。その体(霊体)は、肉体と共に成長し、完成します。霊界の体には、人の潜在意識(生心)があります。その体(生命体)は、堕落によって未完成だったのですが、原理原本では、イエス様によって、その体(生命体)が完成するようになったとされ、さらに、神界の体(生霊体)は、再臨主によって、人に注入されるとしています。こうして、三種の体が、全て揃うことによって、霊人体が完成し、神様につながります。そして、人が肉身を脱ぎ、霊人のみとなれば、ある期間は幽界で過ごします。さらに、次の段階では、霊体を脱いで、霊界に入ります。最後に、生命体を脱ぐと、生霊体として、神界に入ることができ、神様と一つになることができます。このように、神界に入るためには、そこで存在することのできる生霊体が必要であるということになります。


祝福とは

前述したように、再臨主によって、生霊体が与えられるということは、この上もない恵みだと言えます。この生霊体を注入するセレモニーが、子羊の婚宴、即ち、祝福です。また、神界に入るためには、必ずペアになっていなければなりません。その理由は、ここでは長くなりますので割愛します。つまり、祝福を受けることによって、ペアが決定され、生霊体が注入されますので、神界に入る条件が揃います。

既に幽界(聖書でいう楽園)に行ってしまった人たちも、幽界で祝福を受けて、家庭を築くことができます。原理では、あの世を一緒くたにして、無形実体世界と呼んでいますが、幽界というのは、無形ではなく、地上とほとんど変わらない有形です。

ペアで神界に入るということは、創造目的が完成するということですので、もう地上に転生する必要はありません。原理では、輪廻転生について述べられていませんが、人は数え切れないほど、転生を繰り返しています。

ただし、祝福を受けたとしても、自動的に神界に入るのではありません。何故なら、祝福を受ける前も、その後も、試験期間となっているからです。これについては、別途にお話したいと思います。


人が完成するという意味

祝福を受け、霊人体が完成すれば、人は構造的に完成したと言えます。そして、家庭を出発すれば、完成期に入ったという事になりますが、完全に完成したと言えるのは、完成期を通過して、神様直接主管圏に至ったときです。ちなみに、原理原本から読み取ることのできる個性完成というのは、それぞれが持っている特有の能力や創造性を自由に発揮するということです。このように、原理でいう完成というのは、人格云々を言っているのではありません。

ここで、原理講論の内容を見てみましょう。「人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志に従って生活できるように創造されたのであった。人間がこのような位置に立つようになることを個性完成というのである」(P134)とあり、また「個性を完成した人間は、絶対に堕落することができないのである」(P135)とあります。そして、個性完成の次は、子女繁殖となっていますので、祝福を受けて、家庭を出発したということは、個性完成が前提になっているということになります。しかし、本当にそうなっているでしょうか。もし、原理講論に記された通りであれば、誰が祝福を受けられるでしょうか。

原理原本では、祝福が先になります。そうしなければ、人の霊人体が完成しないからです。


試験期間と霊人体完成後の堕落

祝福を受けて、霊人体が完成しても、家庭を出発するまでは、長成期の中にあります。この長成期が、試験期間となっています。つまり、祝福を受けて、霊人体が完成した後でも、すぐに家庭を出発することができず、ある期間、神様のみ意に合っているのかどうか、試されていました。それが、一世の聖別期間であり、任地期間でした。二世には、これらの期間の必要性はありません。

アダムは、元々堕落していませんでしたので、肉身が完成すると同時に、霊人体も完成していました。しかし、堕落してしまいました。それは、アダムが試験期間にあったということを意味します。神様は、アダムが堕落したので、アダムに注入して置いた生霊体を取り上げました。これで、アダムは、神様との関係が切れ、み旨と無関係になりました。


堕落とは

堕落とは、神様から離れ、生霊体を失い、神様のみ旨と無関係になったことです。つまり、堕落しているということは、霊人体が不完全であり、神様のみ旨と無関係であるということです。原理講論では、原理原本と同様に、サタンとエバの淫行によって、人が堕落したということになっていますが、上記のような説明が無いため、「淫行=堕落行為」のように捉えられています。しかし、これは堕落を定義しているのではなく、堕落に至った原因を指しているものです。

淫行が堕落行為であることには間違いありませんが、復帰摂理の中には、淫行が堕落行為ではなく、み旨であることがあります。例えば、イエス様の先祖にあたるタマルやバテシバなどの行為がそうであり、タマルのしゅうとであるユダや、バテシバの夫となったダビデ王などの行為もそうです。

私たちが注意しなければならないことは、善か悪かという二元論的な考えをもっては、物事を正しく判断できないということです。善行に見える行為の中に、原理(正道)と非原理(邪道)があり、悪行(あくぎょう)に見える行為の中にも、原理と非原理があります。つまり、四元論的な見方をする必要があります。


原罪について

原理原本には、アウグスティヌスの説いた原罪という概念は無く、血は信仰によって清められるとしていますが、お父様の後のみ言には、原罪という言葉が出てきます。しかし、それはアウグスティヌスの説いた原罪の意味とは異なります。お父様の言われた原罪とは、生霊(せいれい)体が無いために、人間の霊人体が完全に構成されていない状態を言います。

ところが、お父様は、血統を強調されたために、それを聞いた人たちは、その血統という言葉と、アウグスティヌスの説いた原罪とを、結びつけてしまいました。お父様の言われた血統とは、地上の人間が、神様側なのかサタン側なのかという所属を意味します。原理原本では、この所属が強調されています。

教会では「神様の血統」という表現をよく使いますが、それは、原理原本では「神様の愛する血統」だと表現されています。その血統は、摂理的な女性たちの死を超えた信仰によって、守られてきたものです。それなのに、再臨主に原罪があったのか、無かったのかという論争が、あり得るでしょうか。そのような論争は、アウグスティヌスの説いた原罪を基準とするなら、結局は遺伝子云々の話になり、不毛な論争とならざるを得ないのです。


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