ハイキングコース
とじる
2017-07-21: 内容をよりくわしくしました。

 百合小ができるずうっと前のことです。  当時(とうじ)の「小田原急行電鉄」(おだわらきゅうこうでんてつ;小田急電鉄(おだきゅうでんてつ)の昔の名前)が、 ハイキングのパンフレットを出していました。

 ハイキングコースを紹介(しょうかい)して、たくさんのお客(きゃく)さんに小田急線(おだきゅうせん)にのってもらおうというものです。  第2次世界大戦(だいにじせかいたいせん)よりも前(まえ)の1939年(S.14)のことです。  そのパンフレットには、次のようなコースがのっていました。

●「新宿」駅(小田急)→ 「西生田」駅(あるき)→
   弘法の松(あるき)→桝形山城址(あるき)→
     「稲田登戸」駅(小田急)→「新宿」駅

●あるき 9キロメートル 2時間半
   新宿からの往復切符(おうふくきっぷ)は、
   おとな 60銭、こども 30銭


桝形山城址(ますがたやまじょうし)は、現在(げんざい)の生田緑地(いくたりょくち)の中にある昔(むかし)の城跡(しろあと)です。  今はエレベーター付きの大きくりっぱな展望台(てんぼうだい)がありますが、私が小学生のころには二階(にかい)だての家(いえ)くらいの高さの鉄骨(てっこつ)でできたかんたんな展望台だけがありました。

(せん)は円(えん)より小さいお金の単位(たんい)で、100銭で1円になります。  アメリカ合衆国(がっしゅうこく)のお金の 100セントが1ドルになるのににています。

ちなみに、1930年(S.5)の東京の山手線(やまてせん)の初乗り運賃(はつのりうんちん)(最も低い運賃)は5銭だったそうです。 (2017年では現金(げんきん)で140円。ICカードだと133円)

「西生田」(にしいくた)
 →今の「読売ランド前」(よみうりらんどまえ)

「稲田登戸」(いなだのぼりと)
 →今の「向ヶ丘遊園」(むこうがおかゆうえん)

今の「登戸」は当時は「稲田多摩川」(いなだたまがわ)という名前でした。

このころは「百合ヶ丘」と「新百合ヶ丘」の2つの駅はなく、百合小のあるところは田畑(たはた)でした。

 「弘法の松」(こうぼうのまつ)は、かつて存在していた巨大な松の木です。 標高(ひょうこう)100mほどの丘の上に高さ30mの松があったということです。  弘法大師(空海)(こうぼうだいし くうかい)にまつわる伝説(でんせつ)が残っています。

 しかし、松は1956年(S.31)に火事にあい、その後枯(か)れてしまいました。  現在は周囲が「弘法松公園」(こうぼうのまつこうえん)になっています。  今では地元(じもと)の人くらいしか知(し)らない「弘法の松」です。  それが戦前(せんぜん)にはハイキングコースに入っていて、広く宣伝(せんでん)されていたのです。
参考: → 弘法松公園

 私が小学生のころには弘法の松交差点(こうさてん)には和菓子屋(わがしや)があり、「弘法の松最中」(こうぼうのまつもなか)というおみやげ品(ひん)をうっていました。  少しだけ観光地(かんこうち)としての面影(おもかげ)を残(のこ)していたのです。

 枡形山城址(ますがたやまじょうし)は弘法の松からかなりはなれていますが、十分に歩いて行けるし、いい運動になりそうです。  ちなみに、現在は最も短い歩きコースで2つの場所の間は約5.3kmあります。 周囲が里山と田畑ばかりだった当時はもう少し遠回りだったかも。

 さらにパンフレットには、「桝形山(ますがたやま)から向ヶ丘遊園地や初山の池(はつやまのいけ)に寄(よ)るのも楽しいでしょう」とも書いてあります。


♦ パンフレットは、リンク集にもある「向ヶ丘遊園メモリアル」のページで見せてもらいました。 感謝。
(「パンフレット」 →「昭和14年(1939)」

【向ヶ丘遊園
[むこうがおかゆうえんち]

 小田急線が開業(かいぎょう)した1927年(S.2) に、小田急が作った公園(こうえん)で、1939年(S.14) 当時(とうじ)は入園(にゅうえん)はタダでした。  その後(ご)、遊ぶ施設(しせつ)もふえてゆき、入園も有料(ゆうりょう)になりました。  「向ヶ丘遊園」は、「向ヶ丘遊園」(むこうがおかゆうえん)と名前(なまえ)が変(か)わり、いろいろな乗り物(のりもの)や遊び場がある遊園地になりました。

 しかし、時がたつにつれて遊びに来る人がだんだんと少なくなり、ついに 2002年(H.14) に閉園(へいえん)しました。

【初山の池】
[はつやまのいけ]

 宮前区初山(みやまえくはつやま)にある池(いけ)。 いまは生田緑地(いくたりょくち)のゴルフ場内(じょうない)にあり、滝沢池(たきざわいけ)とよばれています。

 ゴルフ場ができる前、夏(なつ)には池でおよぐ人もいたそうです。

滝沢池 ー 初山の池

川崎国際生田緑地ゴルフ場(かわさきこくさい いくたりょくちゴルフじょう)の中の 滝沢池(たきざわいけ)が、 かつての 初山の池(はつやまのいけ)です。 写真の池の手前の岸からこちら側が川崎市多摩区枡形7丁目(ますがた)、池を含む向う側が川崎市宮前区初山1丁目(はつやま)です。

ゴルフ場は川崎市が年に何度か市民に開放(かいほう=じゆうにはいれる)しています。 ゴルフをしなくても、元「初山の池」を見に行くことができます。 (ゴルフ場は、元は川崎市の第3セクターが運営していましたが、今は東急リゾートサービスに委託しています)

池のまわりにはいくつかの桜の木をあります。  春の開放日(かいほうび)がうまく満開(まんかい)と重なると、水面のすぐ上に咲くきれいな桜の花を見ることができます。  ゴルフ場内には池のまわり以外にも多くの大きな桜の木があります。

8枚の写真があります。 ダウンロードは、#1はこの右上の画像、#2〜#8は下の画像からできます。
このページの画像を右クリック(Mac: コントロール+クリック/2本指タップ)して「リンク先を保存」 (ブラウザにより表現は異なる)のメニューを使ってください。 画像のサイズは 横 1136 x 800 ピクセルです。
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滝沢池ほとりの道標(みちしるべ)

滝沢池の東の岸近くに、滝沢弁財天(たきざわべんざいてん)の祠(ほこら)があります。  建物は、1994年(H.6)に再建(さいけん)されたものです。  弁財天(べんざいてん:弁才天、弁天とも表記)は、七福神(しちふくじん)の1人であり、水辺に祀(まつ)られることが多い女神です。

祠の傍(かたわら)に、昭和初期に建てられた道標がありました。  道標が建てられた前年に開園したばかりの「向丘遊園地」(むこうがおかゆうえんち)の表記もありました。

道標には、西側の面と南側の面に方向が示されていました。

●西面 「左 押沼、向丘遊園地、登戸 方面」 右 「長沢、柿生村 方面」
●南面 「右 平、神木(しぼく)、溝ノ口(みぞのくち) 方面」(「右」は文字が読めないので推定(すいてい)

向ヶ丘遊園のこのころの名前は「地」がついて「向ヶ丘遊園地」でした。  道標を建てたのが当時(とうじ)の「向丘村」(むかいがおかむら)の人なので、 「向丘遊園地」とまちがえて彫(ほ)ったのではないでしょうか。  遊園地を作った小田原急行鉄道(小田急電鉄の当時の名前)の表記は「向ヶ丘遊園地」です。

現在も宮前区の地域(ちいき)の名称として「向丘」(むかいがおか)が残っています。  2002年に閉園した遊園地以外は「向丘村」の読み方にしたがって、今も「むかいがおか」と読むようです。

「押沼」は現在の「おし沼」のことと思います。 昔は、滝沢池の東側800mほどのところに「鴛鴦沼」(おしぬま)という沼がありました。  南北50m、東西190mくらいの東西に長い沼です。(距離(きょり)や大きさは正確(せいかく)ではありません) 滝沢池より少し大きめの沼です。  現在の場所で言えば市バスの「おし沼」バス停のすぐ北側の、道の両側に「鴛鴦沼」が広がっていたことになります。  古い地形図(ちけいず)によると、「鴛鴦沼」は 1950年代に埋(う)め立てられたようです。

「鴛鴦」は「おしどり」とも読み、水鳥の種類(しゅるい)です。 「おしどり夫婦」(ふうふ)の「おしどり」です。
»  ウェブ上にある「鴛鴦」の画像 

1960年代の地形図を見ると、沼がなくなった後も土地の名前として「鴛鴦沼」が使われていたこともありました。  その後、バス停の名前として「おし沼」がのこっています。  道標に「押沼」と記(しる)されている理由(りゆう)はわかりません。

道標には、1928年(S.3)11月10日の昭和天皇の「御大典記念」(ごたいてんきねん)として建てられた、とあります。  (御大典=即位式:そくいしき) 建てたのは、「向丘村青年団初山支部」(むかいがおかむら せいねんだん はつやましぶ)とあります。

さつえい:2011年4月4日(H.23)、2012年2月19日(H.24)