小田急線 おだきゅうせん
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とじる |
百合ヶ丘駅は百合丘団地の造成(ぞうせい)とともに小田急線の新しい駅として作られ、1960年3月(S.35)に開業(かいぎょう)しました。 その年、 すぐに百合丘第一団地の入居(にゅうきょ)が始まっています。 百合小の校舎はその後に建設(けんせつ)されました。 地元が百合ヶ丘駅を作って欲(ほ)しいという希望(きぼう)は、百合丘団地の建設計画(けんせつけいかく)よりも前からあり、駅を作る計画も団地より前から進んでいたということです。 新しく百合丘の住人(じゅうにん)になった人たちは、百合ヶ丘駅前で日常(にちじょう)の買い物をし、少し遠出(とおで)をするときは百合ヶ丘駅から新宿などのおおきな町に行っていました。 いろいろな場所にショッピングセンターがあり、車で自由にどこにでも行ける現在とちがい、何をするときも駅を中心として生活していたといえるでしょう。 仕事で東京方面の会社に通う人が多く、新宿まではそれほど遠くはないのですが、百合ヶ丘は東京から離(はな)れたいなかという感じがする町でした。 駅からちょっと歩くと、まだまだ田んぼや畑や林がたくさんあったのです。 駅にはまだ切符の自動販売機(じどうはんばいき)はなく、窓口(まどぐち)で駅員(えきいん)さんが1枚(まい)づつ切符を売っていました。 客が行き先を告げると、目の前にあるたくさんの種類(しゅるい)の切符が並べてある棚(たな)から素早く1枚を探しだし、日付のスタンプを押す機械にこれまた素早く切符を通します。 そしてお金を受け取りおつりを出すのもびっくりするほどはやかったとおぼえています。 駅員1人で自動販売機何台分もの働きをしていました。 切符は1まいづつの「硬券」(こうけん)で、駅員さんがいる改札口(かいさつぐち)を通るときに専用のはさみでパンチを入れます。 このパンチの切り込みの形が駅ごとに異なり、不正乗車(ふせいじょうしゃ)の確認(かくにん)に使われていたようです。 もっとも、切符にも「どこどこ駅から」とは印刷してありましたが。 現在の自動販売機の切符は厚紙(あつがみ)よりはやわらかい紙でできています。 これは客が行き先の料金(りょうきん)のボタンを押したときに、 長いロール(スーパーのレジのレシートの紙と似た巻紙(まきがみ))になった紙に料金などをその場で印刷します。 そして、切符の長さに切られて受け取り口に出てきます。 切符には磁気(じき)で情報(じょうほう;のった駅や時刻、料金など)が記録(きろく)してあり、自動改札機が読みとるようになっています。 その後… 2015年では切符を買うのではなく、PASMO(ぱすも)やSuica(すいか)などのICカードが使われることが多くなったみたいです。 |
百合ヶ丘駅前に時計(とけい)がある植え込み(うえこみ)があります。 すくなくとも1960年代にはここは無料(むりょう)の駐車場(ちゅうしゃじょう)になっていて、 だれでも自動車(じどうしゃ)をとめることができました。 自家用車(じかようしゃ)の数(かず)がとても少なかったので、それでもだいじょうぶだったようです。 駐車場は百合丘団地の中にも少(すこ)ししかありませんでした。 百合ヶ丘駅にならんで、線路(せんろ)をまたぐ橋(はし)があります。 「百合ヶ丘橋」ではなく、「高石橋」(たかいしばし)という名前です。 完成(かんせい)したのが1959年(S.34)2月で、百合ヶ丘駅ができる1年ほど前(まえ)でした。 新百合ヶ丘駅はまだなく、百合ヶ丘の次は柿生(かきお)でした。 百合ヶ丘を出た下りの電車(でんしゃ)は、今の新百合ヶ丘駅手前(てまえ)のフィットネスクラブのあたりで右にカーブして、 津久井道(つくいみち)にそって走ってゆきました。 新百合ヶ丘駅のあるところは当時(とうじ)は草木(くさき)がはえた小山で、 線路はその山の右側(みぎがわ)を大きく回って柿生に向かっていったのです。 1961年の百合ヶ丘駅のまわり 国土地理院地図閲覧(ちずえつらん)サービス 私がこの町に来たとき(1963年(S.38))には、不動産屋(ふどうさんや)さんが、 「やがて百合ヶ丘にも急行(きゅうこう)が止まるようになる」といっていました。 たしかに百合ヶ丘から多摩線(たません)が伸(の)びるという計画(けいかく)もあったそうです。 しかし、百合ヶ丘駅にあたらしくホームをつくる場所(ばしょ)がないとか、いろいろな理由(りゆう)で、 結局(けっきょく)は、あたらしく新百合ヶ丘駅ができることになりました。 百合小ができる前(まえ)は、現在(げんざい)の「読売ランド前」(よみうりらんどまえ)駅(えき)は 「西生田」(にしいくた)、現在(げんざい)の「生田」は「東生田」(ひがしいくた)という名前でした。 百合小ができるちょっと前、遊園地(ゆうえんち)の読売ランドができ、 それにあわせて2つの駅(えき)の名前が同時(どうじ)に現在の名前に変わりました。 |
【硬券】[こうけん] | ボール紙(がみ)でつくられた、かたい切符(きっぷ) このころの小田急線の切符の大きさはよこ 5.8センチ、たて 2.6センチ。 おとなとこどものちがいや金額(きんがく)が異(こと)なる行き先の駅ごとに、 別々の切符が何十種類(しゅるい)(100種類以上?)も用意(ようい)されていた。 切符は種類ごとに何十枚かが1つのホルダーにセットされ、そのホルダーが棚(たな)にたくさん縦横(たてよこ)にならべて取り付けてあった。 「出札棚」(しゅっさつだな)とか「乗車券箱」(じょうしゃけんばこ)というらしい。価値(かち)がある乗車券がいっぱいはいっているので、棚にはシャッターがついていて鍵(かぎ)がかけられるようになっていた。 切符をかうとき、駅員(えきいん)さんが、多くの種類の切符がある棚から1つをえらびだすはやさは職人芸(しょくにんげい)だった。 書いていて思い出したのですが、かつてはデパートの地下食堂(ちかしょくどう)の食券(しょっけん)もこの硬券で、売り場には「出札棚」がありました。 たとえば、祖母(そぼ)によくつれて行ってもらった新宿(しんじゅく)の伊勢丹(いせたん)の地下食堂で硬券が使われていました。 ❖ 今はめったに見ることもない「硬券」 ❖ でも、現在も硬券を印刷している会社がありました。 ➜ 関東交通印刷 |
40年前(ねんまえ)の小田急線の硬券切符(こうけん きっぷ)
おもての左側(ひだりがわ)に日付(ひづけ)のスタンプ(45-10-4)が見(み)えます。
向ヶ丘遊園駅のパンチがはいっています。
私は生田と百合ヶ丘のあいだは通学定期券(つうがくていきけん)を持(も)っていたので、
たぶん向ヶ丘遊園から生田までの切符を買(か)ったのだとおもいます。
中学生のころは、うらにある4桁(けた)の数字(すうじ)を使ってともだちと加減乗除(かげんじょうじょ;たす/ひく/かける/わる)の組み合わせで 10 を作るあそびをしたりしました。 この切符裏側(うらがわ)の4桁の数字は、切符の通し番号(1枚目からじゅんばんにつけられたばんごう)だと思います。 さつえい:2010年6月(H.22) |
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切符を売る窓口には、切符にその日の日付を印字(いんじ)する機械(きかい)がありました。 どこかで「ダッチングマシン」というと聞いたので、私はそれは読みまちがいで、本当は「デーティングマシン」が正しいとずっと思い込んでいました。 ところが、今回、調(しら)べてみて本当に「ダッチングマシン」と呼ばれていたことを知りました。 英語で「日付を付ける機械」は "Dating machine" (デーティングマシン)です。 でもローマ字ふうに読むと「ダッチングマシン」とも読めそうです。
この機械はそもそも英語を使う国から入ってきたものではなく、日本で考案(こうあん)されたものだそうです。
もしかしたら、"Dating machine" という名前にしようと決めた時、どこかのおっちょこちょいが「ダッチングマシン」と読みまちがえて、
それがそのまま正式(せいしき)な名前になってしまったのでしょうか。 |
柿生駅の待避線(たいひせん) | ||||||
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