春をたずねて はるをたずねて
とじる

 毎年(まいねん)、春(はる)になると「春をたずねて」という行事(ぎょうじ)がありました。

 百合小のまわりには、まだまだ自然(しぜん)がたくさん残(のこ)っていました。 里山(さとやま)、谷戸(やと)、田畑(たはた)や林、川、池(いけ)がありました。  カブトムシ、クワガタや、カエル、ドジョウ、メダカなども身近(みぢか)にいました。  そして、タガメ、ゲンゴロウなどの水にすむ昆虫(こんちゅう)を見つけることもできました。  また、道端(みちばた)や里山の林ではいろいろな草木を見ることができました。

 そこで、冬(ふゆ)がおわってあたたかくなりだしたころ(何月だったかはっきりおぼえていません)に、 クラスごと(だったとおもいます)に学校を出て生田(いくた)、王禅寺(おうぜんじ)などの野山(のやま)を歩いて自然観察(しぜんかんさつ)をしてまわったのです。  ちょっとした遠足(えんそく)でした。 でも、そんなに遠(とお)くまで行くわけではなく、児童(じどう)によっては自分の家の前をとおることもありました。

 百合丘とそのまわりは里山や谷戸をきりひらいて作った町です。 当時(とうじ)でもなかなか出会(であ)うことはありませんでしたが、 まわりにはタヌキやイタチ、ヘビのアオダイショウなどの野生動物(やせいどうぶつ)もいました。

おどろいたことに、2010年になってもタヌキは町(まち)のどこかに住(す)んでいます。  私もここ何年(なんねん)かの間に、王禅寺、東百合丘、白山(はくさん)、三田(みた)で朝早くや夕方に、 車も通る舗装道路(ほそうどうろ)をタヌキが歩いているのを見たことがあります。  昔よりかくれるところが少なくなって目につくようになったのかもしれません。

【里山】[さとやま] 農村(のうそん)や山村(さんそん)などで人々の家(いえ)の近くにある低(ひく)い山や丘(おか)で、人が手入れをしているところ。

 生活(せいかつ)に必要(ひつよう)なたきぎ(炊事(すいじ)や暖房(だんぼう)のためにもやす木)を取(と)ったり、キノコやたけのこをとったりもします。

【谷戸】[やと] 水の流れによって長い間に作られた3つの方向(ほうこう)が低い丘になっていて、 奥(おく)に行くほど細(ほそ)くなっている地形(ちけい)

なんとか谷戸という地名(ちめい)が神奈川県(かながわけん)の東部(とうぶ)や多摩丘陵(たまきゅうりょう)におおい。  切りひらいて水田(すいでん=たんぼ)になっていることがおおいようだ。

 現在(げんざい)も平尾(ひらお)に「平尾谷戸通り」という名前があったり、 宮前区初山(みやまえく はつやま)には、こどもがあそんだり学習(がくしゅう)したりできるように手入れされた「とんもり谷戸」[飛森谷戸]がある。 (生田緑地(いくたりょくち)ゴルフ場(じょう)の南西(なんせい)にとなりあわせにある)

とんもり谷戸のホームページ: http://tonmori.216.jp/

現在(げんざい)の原店前(はらみせまえ)バス停(てい)から長沢中学校(ながさわちゅうがっこう)方面(ほうめん)に 50m(メートル)ほど坂道(さかみち)を下(くだ)った場所(ばしょ)から、長沢(ながさわ)方向(ほうこう)を写(うつ)した写真です。

 宅地(たくち;いえをたてるとち)になっているところ以外(いがい)は、 里山(さとやま)と林(はやし)、田畑(たはた)ばかりです。

 自然(しぜん)の植物(しょくぶつ)、動物(どうぶつ)もたくさんのこっていました。 「春をたずねて」で、このへんを歩くこともありました。

 長沢小学校や西長沢浄水場もまだできていません。  写真の中の餅坂(もちざか)バス停の文字の左側にはわらぶき屋根の農家(のうか)も見えます。

 新しい住宅地に見える2本の電柱(でんちゅう)は、コンクリートではなく丸太(まるた)でできています。

さつえい:1962年11月8日(S.37)

バス停(てい)「団地坂上」(だんちさかうえ)と「原店前」(はらみせまえ)の間(あいだ)の尾根道(おねみち)の風景(ふうけい)です。

 尾根道は馬の背(うまのせ)ともよばれていました。 まだ、バスはここまできていなくて、当時の「公団坂上」(こうだんさかうえ)現在(げんざい)の「百合ヶ丘三丁目」(ゆりがおかさんちょうめ))が終点(しゅうてん)でした。

1964年には、バスは現在の「団地坂上」まで届いて、「百合ヶ丘三丁目」もできていたかもしれません。  それでも、まだ馬の背まではきていません。

 まわりは畑(はたけ)と松林(まつばやし)です。 ここに見える畑では麦(むぎ)や菜種(なたね=なのはな)などを作っていました。  芝生(しばふ)として庭(にわ)や公園(こうえん)などで使われる「芝」(しば)を育(そだ)てる畑(っていうのかな?)もありました。

 尾根道の向こうに見える百合丘も、まだ町が大きくなるとちゅうです。  百合丘団地と同じ時期(じき)にできた住宅地(じゅうたくち)にもまだ家は少なく、第二団地の121号棟から129号棟の頭が見えています。

 百合丘第二団地121号棟(ごうとう)の屋上(おくじょう)には、2つの給水塔(きゅうすいとう)が見えます。  1970年ころになって、やっと百合ヶ丘配水塔(はいすいとう)の大きなタンクができあがります。

 右下(みぎした)に見える石垣(いしがき)の右上(みぎうえ)のほうには、できたばかりの百合丘さくら幼稚園(ようちえん)があります。

 この写真は、時期(じき)はちがいますが、上の長沢方面(ながさわほうめん)の写真(しゃしん)とほとんどおなじ場所(ばしょ)から ふり返(かえ)った方向(ほうこう)の風景(ふうけい)をみたものです。

 現在(げんざい)は、畑(はたけ)のある場所にはすべて家(いえ)がたち、尾根道(おねみち)はかくれてしまいました。  今は、わずかに残る畑や、公園が春をたずねに行く場所になるのでしょうか。  多摩区(たまく)の生田緑地(いくたりょくち)まで行けば、まだまだ自然(しぜん)がたくさん残っています。  もっとも、近代化(きんだいか)された街並み(まちなみ)の植え込み(うえこみ)にも春はきてくれます。

さつえい:1964年4月(S.39)

馬の背のあたりは、この周辺ではもっとも高い場所です。 馬の背の北東から南東にかけての地域には昔から「塔之越」(とうのこし)(「塔ノ越」とも)という地名がついています。  「塔之越」は「高いところを越える」という意味でしょうか。

東西南北(とうざいなんぼく)どちらに向かっても下り坂で、ここに住む人が外出したら帰りは必ず坂道(さかみち)を登(のぼ)らないといけません。  すごく健康的。(けんこうてき)

馬の背尾根道の標高は地図によると約113mです。 1960年代には北西側と南東側は大きく開け、とても景色の良いところでした。  現在は南東側には家が立ち並んでいますが、北西側には畑が残り、遠くまで見わたせます。

1972年(S.47)にはジャコビニ流星雨(りゅうせいう)が見られるというので、多くの人が集まり、馬の背に並んで 開けた北西側の空を見つめていたのを思い出します。 結局(けっきょく)、流星雨は天文台(てんもんだい)の発表(はっぴょう)の様(よう)な「雨」(あめ)にはならず、 わずかしか見られませんでした。

馬の背から北西側を見た景色です。 2013年撮影。