百合小のはじまり
ゆりしょうのはじまり
❉ 新しい町 百合丘に小学校ができた


とじる ✖︎




西生田小学校分校
にしいくたしょうがっこうぶんこう

古い話は記憶(きおく) にたよっているので、まちがっているところがあるかもしれません。  実際(じっさい) とちがうところがあったら、ごかんべんください。

1963年(S.38)の2月に川崎市生田(かわさきしいくた;今の麻生区東百合丘(あさおくひがしゆりがおか) )にひっこしてきた私は、 その4月に西生田小(にしいくたしょう) に入学しました。  百合小はまだ校舎(こうしゃ) を作っているところでした。  そして、翌年(よくねん) の1964年(S.39)に百合小の校舎が使えるようになりました。

その年の10月(がつ) には、東京オリンピックが開(ひら) かれています。

2月に引っこしてきたので、私は幼稚園(ようちえん) を卒園(そつえん) していません。  幼稚園中退(ようちえんちゅうたい)です。  その幼稚園は東京都新宿区四谷にありましたが、現在も新しい園舎(えんしゃ) で続いています。  なんか、うれしい。

おぼえているところによると、私が西生田小の2年生(ねんせい) になってしばらくしてから、百合小の校舎に移(うつ) りました。  そのときの西生田小の1年生から3年生の中で、新しい百合小の学区(がっく) の児童(じどう) が、百合小にうつることになりました。

しらべて見ると、1964年(S.39)の4月に百合小の校舎(こうしゃ) の北側(きたがわ) の一部(いちぶ) が完成(かんせい)していました。  そして、同じ年の5月12日(火)にこの校舎を使って西生田小学校の分校(ぶんこう) が開校(かいこう)しています。

この「校舎」は2012年7月に完成した校舎の1つ前の鉄筋(てっきん) コンクリート3階建(かいだて) の旧校舎のことです。



できたばかりの校舎へは、こどもたちが鼓笛隊(こてきたい) を先頭(せんとう) にして、西生田小から津久井道(つくいみち) を行進(こうしん)してやってきました。  新しい校舎完成と引越しのお祝(いわ) いのパレードです。

津久井道(百合ヶ丘駅すぐ北側の世田谷通り)は、今ではたくさんの自動車(じどうしゃ) が走(はし) っている道路です。

ここを、行進してきたって?  信じられませんが、私の記憶(きおく) によると行進してきたのです。 わたしもクラスのみんなと津久井道をあるきました。  下のコラムをごらんください。

次の年、1965年の4月1日(木)に、百合丘小学校が西生田小学校から独立(どくりつ) して開校(かいこう) しています。 

私たちは、1964年(S.39)に西生田小の分校(ぶんこう)にやってきて、 1965年(S.40) の4月に1年生から3年生の3学年だけで、百合丘小学校がはじまったことになります。

西生田小からすべての学年(がくねん) の百合小学区内(ゆりしょうがっくない) の児童(じどう) が移(うつ) らなかったのは、たぶん教室(きょうしつ) が足(た) りなかったからではないでしょうか。

そして、高学年(こうがくねん) のこどもは、少し遠(とお) くても西生田小に通(かよ) い続(つづ) けるのに、低学年(ていがくねん) のこどもほどたいへんではありませんし。

分校時代(ぶんこうじだい) もかぞえて、百合小がはじまってから3年めでやっと1年生から6年生までがそろうことになります。


✚百合丘ができたころの津久井道


1961年(S.36)の航空写真を見ると、津久井道にはあまり自動車が見られません。  百合丘団地内の道路も同じです。 (写真ではいまひとつはっきりしませんが)

この時代(じだい) には自家用車(じかようしゃ) を持っている人はとても少なかったのです。  コンビニに商品(しょうひん) を届ける車もはしっていませんし、宅配便(たくはいびん) のトラックもありませんでした。

百合ヶ丘駅の北側(地図の上側)、小田急線とならんではしる道が津久井道です。

また、同じころに百合丘団地をロケ地にして撮影(さつえい) された映画「喜劇 駅前団地」(きげき えきまえだんち) の西生田駅前のシーンを見ても、津久井道はがらがらで、たまに自動車が通るくらいの混(こ) み具合でした。

❖ 西生田駅(にしいくたえき) は、その後名前が変わって、今の読売ランド前駅(よみうりらんどまええき)です。

こんなようすだったので、1964年に津久井道を行進(こうしん)するなんていうことができたのでしょう。 

私には歩いた記憶(きおく) はありますが、どのように歩いたかまではおぼえていません。  たぶん、少ないとはいえ車がとおりすぎる中、道路の端(はし)を注意しながら歩いたのだと思います。


✚百合丘分校開校の時


siteLocation ←写真1 撮影位置

❖クリック/タップで拡大 ❖説明あり/なし切替あり  さつえい:1964年(S.39)

分校ができた時に、こどもたちが西生田小から鼓笛隊(こてきたい)を先頭に津久井道を行進して百合丘分校に移ってきた、と書きました。  その時の百合丘分校での開校式と思われる画像がありました。 

写真1は、百合ヶ丘駅のほうから今のびわ門をはいったところ。 最初の体育館が作られた場所です。  背景に小田急線の向こう側の斜面が見えます。
「行進のゴール」という確証(かくしょう;たしかなしょうこ)はないのですが、たぶん「その時」です。  背後のおかあさんたちが、ほんとうに嬉しそうなのが印象的です。

この日、たぶん低学年のこどもたちはランドセルをしょってふつうに西生田小学校に登校し、 その後ランドセルを持って百合丘分校に移ってきたのでしょう。 おつかれさまでした。

斜面に「岸内科」の看板(かんばん)が見えます。 左側は「岸歯科」と思われます。  岸歯科医院は現在も高台で診療中です。 岸内科は生田駅近くに移転したようです。 今も岸歯科医院の塀に生田の岸内科の古い看板が残っています。

右の奥の斜面に見える階段は第一導水隧道(だいいちどうすいずいどう)の管理施設(かんりしせつ)のものです。  第一導水隧道は津久井湖などの水源から、長沢浄水場に水を送るための地下トンネルです。
小田急線が走る谷を越えるための「高石伏越し」(たかいしふせこし =逆サイフォン)がここを通っています。  びわ門の橋の下の川のような小さな谷の地下に導水トンネルが走っています。

百合小の西どなりにあるのが、「高石伏越し下流」です。 少し古い住宅地図では「川崎市水道局導水路高石監視所」(ーたかいしかんしじょ)と表示されています。  近年はバス通りに面した部分の地上が有料駐車場になっています。 (川崎市水道局は2010年4月に上下水道局に組織が変わっています)

今は背景の斜面やその向こう側の斜面にも、たくさんの家が建っています。  こちら向きの斜面は、10年くらい前まではわずかながら畑のようのものが見えましたが、2022年の現在は新築の家が並んでいます。

これらの画像は百合丘小学校の同窓生のTSさんからご提供いただいたものです。このページをご覧いただいて、 画像とともにメールでご連絡いただきました。 感謝です。 (2022年9月)

siteLocation ←写真2 撮影位置

❖クリック/タップで拡大 ❖説明あり/なし切替あり  さつえい:1964年(S.39)

写真2は、校庭で分校開校の「式典」(しきてん;ここではおいわいのあつまり)を行ったところでしょうか。 最初の校舎の南側にこどもたちが集まっています。  後ろに並んでいるおとなは父兄のみなさんでしょう。

  ❖ 百合丘分校 1964

みんな、新しい校舎の前で気が張っている顔つきです。(こどもの表情はかくしちゃいましたけど)
校長先生のお話を聞いているのでしょうか。(初代中村校長先生は、この時は分校長?)
校舎は、できたばかりで北側の建物の西側の部分しかありません。
開校時の写真に校舎は写っていませんが、当時の航空写真で見ることができます。(左の写真; 国土地理院の公開写真:クリック・タップで拡大)

百合丘分校の開校が1964年5月12日(火)、上の航空写真の撮影が同じ年の5月16日(土)なので、開校直後ということになります。  土曜日午後の航空写真なので、もう児童は残っていないのかな。 居てもちっちゃくて見えないけど。

左側に背の高い高学年のこどもたち、右側に低学年のこどもたちが見えます。  分校は、たぶん教室が足りないなどの理由だと思いますが、低学年だけから始まっているので左側のこどもたちはこの式典のためだけに西生田小からきてくれたのだと思います。
低学年のこどもだけ数えると、写っているこどもだけですが、155名でした。

「式典」の写真の背景には当時の百合丘のお店などが写っています。 みんなが文房具を買っていた「すみれ堂文具店」も、もうそこにあります。

現在はもうなくなっている花屋、「花増」(はなます)が写っています。  その隣は、昔の地図によると「小嶋菓子店」(こじまかしてん)なのですが、建物には「ビタ明治牛乳」と描かれています。  お菓子屋になる前なのか、お菓子屋で牛乳も販売していたのかな。  同じ並びには名糖牛乳(めいとうぎゅうにゅう)の販売店もありました。

当時は町に牛乳販売店は多く、180mlのガラスびん入り牛乳を毎朝、家の前に取付けてある木製の「牛乳箱」に届けてもらうのが普通でした。 牛乳のサブスクです。


✚津久井道 [つくいみち]


百合ヶ丘駅(ゆりがおかえき) の北側(きたがわ) を、小田急線(おだきゅうせん) とならんで通(とお)っている道。  世田谷通り(せたがやどおり)や世田道(せたみち)などともよばれる。

昔から、神奈川県の産品である生糸(きいと=蚕(かいこ)が作り出す天然の糸) や、現在の柿生付近でさかんに作られた禅寺丸柿(ぜんじまるがき=日本最古の甘柿といわれる) 、黒川の炭などを江戸に運ぶのに使われていた重要な道路。

昭和になってから、百合ヶ丘駅周辺では改良工事が行われ、ルートがより直線的に変化している。  旧道も残っており、昔からの馬頭観音塔が残っていたりする。

正式名称(せいしきめいしょう) は、東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線(とうきょうとどう かながわけんどうさんごう せたがやまちだせん)


できたばかりの百合小の校舎に移って来た頃は、小学校としてあるべきものがそろっていない印象(いんしょう) がのこっています。

1964年(S.39)の百合小(西生田小分校のとき)での最初(さいしょ) の運動会(うんどうかい) では、まだ校歌(こうか)はできていませんでした。

そこで、かわりに運動会の歌『♪きょーぉはー たのーしぃー うんどぉーかい』を歌(うた) ったことをしっかりとおぼえています。

✚運動会の歌

校歌がなかった頃、最初の運動会でうたった歌のタイトルはそのまま「運動会の歌」だったと思います。  しっかりとは覚えていないのですが、次のような歌詞でした。(たぶん1番;部分的に間違いがあると思います)

空ははれたよ 僕らは元気
出そうよ今日こそ 普段の力
走れ力のある限り 伸ばせ天まで両の腕
今日は 楽しい運動会

ウェブを検索したら、同じ歌を紹介していると思われる記事はありましたが、歌の作詞・作曲者と正しい歌詞について述べている記事は見当たりませんでした。


開校前の校庭
かいこうまえのこうてい
開校前の校庭でのルミエール幼稚園の運動会

1963年(S.38)の百合小の校庭(こうてい)の写真(しゃしん)をみつけました。  校舎が完成したのは1964年の4月ですから、まだ西生田小分校が開校する前です。

写っていたのは近くのルミエール幼稚園(ようちえん)の運動会(うんどうかい)でした。

ルミエール幼稚園はこの年にできたばかり。  西生田小分校(百合小)が開校(かいこう)する前に、幼稚園に校庭をかしてあげたみたいです。

校庭は土をならしただけで、雑草(ざっそう) も生えています。  写真では見えませんが、ふりかえれば校舎を建てている真っ最中(まっさいちゅう) でしょう。



ルミエール幼稚園(ようちえん) の秋(あき) の運動会(うんどうかい) の写真(しゃしん) です。  百合小開校前(かいこうまえ) のまわりの様子(ようす) も写(うつ)っています。

1963年(S.38)秋。 ここに写(うつ) っている校庭(こうてい) の反対側(はんたいがわ) では、 北側(きたがわ) の校舎(こうしゃ) の建設(けんせつ) が進(すす) んでいるはずです。

さつえい:1963年秋 (S.38)


校庭南(こうていみなみ) の出口を出たすぐ前(まえ) には外科医院(げかいいん)、星外科(ほしげか)がありました。 現在、医院はなく跡地(あとち) は駐車場(ちゅうしゃじょう) になっています。  写真では、星外科の看板(かんばん) が中央奥(ちゅうおうおく) に見えています。

左奥遠(ひだりおくとお) くの建物(たてもの) は、第一団地(だいいちだんち)の一部(いちぶ)で、 いちばん手前(てまえ) が39号棟(ごうとう) 、奥(おく) に向(むか) かって 40, 41号棟です。



こちらの写真では、校庭(こうてい) の西側(にしがわ) が見えます。

校庭と道路の境(さかい) には、まだ、フェンスもガードレールもありません。 道(みち) のむこうがわには、まだほとんど家(いえ) が建(た)っていません。 この住宅地(じゅうたくち) も百合小と同じ時期(じき) に作られたばかりです。

小学校ができる前は畑だった校庭の地面は土のままで、でこぼこがあり、雑草(ざっそう) が生えているのが見えます。

さつえい:1963年秋 (S.38)