日本・映像の20世紀「三重県」を見て 平成12年3月3日 中村三郎
1.真珠養殖
御木本幸吉氏の活躍。(1858~1954)
核入れした真珠貝を海に播く方法からカゴに入れてイカダにする方式に。
大正15年にフィラデルフィア万国博に真珠満艦飾り五重塔を出品して宣伝。
12,760個もの真珠が使用された。
更に昭和11年には鳥羽で150万個の養殖の貝殻を5メートルも積み上げ、
100人の海女とともに真珠供養をとりおこない宣伝。
養殖は戦後復活し、昭和30年代を経て昭和41年に最盛期を迎えた。
2.四日市港・伊勢遷宮
四日市港は明治32年開港、昭和11年国際貿易港として拡張された。
東洋紡績の綿製品などが輸出された。
昭和15年頃の従業員数男300人に女3,000人の富田工場の様子。
新潟や長野の10代女性が寄宿舎の共同生活で生花や裁縫を習いながら工場
で織工員として働いていた。
昭和16年、四日市市に銅精錬所や海軍製油所が操業開始。
そのためか、戦中は空襲をうける。明野の陸軍飛行学校の様子も。
伊勢神宮は20年に一度、社殿を造り替える神宮式年。
大阪と直接結ばれ、近鉄宇治山田駅完成後は参拝客が年400万人に増加。
3.男は遠洋漁業・女は海女さん
熊野灘沿岸のブリ漁、鰹やマグロの遠洋漁業も盛ん。
昭和16年の記録映画「和具の海女」。志摩町和具には当時500人の海女が
いた。「カチド」と呼ばれる海女さんは白い磯着をまとい海にもぐり天ぐさな
どを採る。立派な海女さんにならないと良いお嫁さんになれないと子供の頃か
ら素潜りの練習に励む女の子達。
名張市で生まれた江戸川乱歩(1894~1965)は造船所退職後も何度も
鳥羽を訪れている。昭和11年にユニークな映画を作る。鳥羽真珠島の海女を
撮影。題名は「大根のはじらい」。海女さんの白い足が何本も恥ずかしそうに
並ぶ。カメラマンの「脱ぐのか…ん?」に海女さん「ワシ恥ずかしいッ!」と、
オッパイ丸出し場面。
若い女性は厳しい海女さんの労働を嫌い都会にあこがれ、後継者不足のなか、
昭和42年のNHK新日本紀行で59才の河村とら子さんの娘さん河村ひろ子
さんほか5人の海女さん後継者の様子が全国に放映された。
ワカメの採集で1日で1,000円の収入が得られるということでした。
4.県南部・県北部の開発
昭和30年代、遅れていた陸の孤島、県南部の開発が始まる。尾鷲~熊野間の
鉄道トンネル工事の様子。紀勢線曽根トンネル2,933メートルが開通。
県北部の伊賀地方中心の上野市の名阪国道開通と工場進出の様子。
5.熊野灘津波・伊勢湾台風
昭和19年に東南海地震で6メートルの津波が熊野灘沿岸を襲う。尾鷲などで
370人以上が犠牲。
昭和34年9月26日伊勢湾台風襲来。県内で1,200人以上の死者。
木曽川と長良川などに挟まれた輪中と呼ばれる長島町一帯は4メートルの高潮
を被けて水没し、収穫まであと2週間だった稲は田んぼが60~70センチも
泥を被り全滅状態。農家の人達は泥の除去と塩害防止の消石灰散布で翌年は平
年の半分の収穫だったが、5年後には元に復活させた。
6.四日市石油コンビナートと公害
戦前の海軍製油所跡に昭和33年四日市石油コンビナート完成。毎年全国から
集団就職の若者が続々とやってきた。
昭和36年頃、磯津地区の海が汚れ、油臭い魚がとれ、昭和40年代に入ると
硫黄酸化物の大気汚染で喘息患者の死亡が相次ぎ、公害反対運動が高まる。
塩浜病院に入院中の藤田一雄さんは裁判長に病院から救助の叫びを録音。昭和
47年起訴から5年目、津地裁四日市支部で原告全面勝訴の判決。
平成2年四日市市に国際環境技術移転センター(ICETT)が設立された。
おわりに
三重県の人々が味わった喜びと苦しみはこれからの人たちに生かされようとし
ている。私も、数千人の女性キーパンチャーを抱える計算センター勤務時代の
社員旅行のちょっとエッチっぽい思い出が富田工場や乱歩の映画と重なって笑
い、京葉工業地帯造成後の大気汚染公害による喘息で亡くなった母の思い出が
四日市公害などと重なり、全面勝訴伝言の瞬間は泣いた。
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