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第6章 双 頭 の 竜 五期主計雲南始末記 ●第五十六師団〔竜兵団〕 久留米編成の師団で満州事変に次い でビルマに行き、昭和17年、ビルマか ら雲南を破竹の勢いで進攻し、怒江の 対岸に重慶軍を追い払い、騰越と拉孟 を双つ頭とし胴体長く、尾はビルマの センウイに達する双頭の竜と言った格 好で、填緬公路に沿い、占領駐留して いた。 すなわち歩兵第 148連隊は騰越[頭] に、歩兵第 113連隊は拉孟[頭]に、 竜陵[喉]、芒市[胸]平戞に、歩兵 第 146連隊は椀町[臍]に駐留してい た。 なお補給体制として五つの野戦倉庫 を騰越、竜陵、芒市、椀町、センウイ に置いていた。 私は師団経理部の主計科にあって予 算統制、物価対策[軍が売る塩の値段 の決定]などの主計業務に従事してい た。時にビルマのメイミョーにある軍 司令部にトラック2台で軍票受理に行 った。メイミョーの軍通信の主計であ った慶応大の同級生でもあった黒田雄 三と再会した。慶応在校時、クラス対 抗野球の折、主審であった私は彼に三 振アウトを宣告した。彼は憤然と抗議 して退場してしまった。以来、口を聞くこともなく卒業した。 彼を訪ねるとあんなことを忘れて歓談した。両側が崖の1本道の填緬公路の往復は敵機が来れば退 避場所なく、敵機に任すの外なかったが、幸い往復とも飛来はなかった。 芒市に帰り軍会報で彼の爆死を知った。血の気の多い彼の死を悼む。 椀町野戦倉庫内に擬似コレラが発生し、倉庫が閉鎖になった。私は倉庫の隣に臨時交付所を開設し た。マスクをし、白衣を着て長靴で倉庫内を歩く私を見て、憮然としておる宮川中尉が思い出される。 この度の補給へのかかわりは復員する迄ずっと補給に携わる契機となった。 ●竜陵野戦倉庫 私は竜陵野戦倉庫長・柴田大尉入院のため倉庫長代理を命ぜられ、深夜、私は亡市から竜陵野戦倉 庫に急行し、柴田大尉から軍票と出納簿を収納する金貴〔金庫〕を引き継いで補給業務に就いた。 芒市の経理部にいた時、竜陵から来て誰彼なく大声で怒鳴るので口の悪い大尉と思っていたが、案外、 人情味ある人と後日を通じて分かった。 山地の竜陵は竜の双頭に当る騰越と拉孟とを結ぶ対角の三角点にある補給の要衝でした。 師団にある野戦倉庫の中で、ここ竜陵が一番、大きく、重要倉庫になっていた。 のち私は倉庫長になり、柴田大尉退院後も引き継いで、柴田大尉の下で野戦倉庫勤務になった。 深夜、自動車隊〔寺岡部隊〕の進入ともなれば、卸下、格納、入れかわり立代りの自動車の進入・ 退出、俄然、戦闘さながら殺気立つ活況となる。空があけ染める頃、皆、へなへなと尻をつき、誰ひ とり口をきくものはいない。唯、うつろな目で最後の自動車隊を見送っている。 ゴルカ30名、ムッソルマン30名の印度兵捕虜はへっぴり腰で、べたつく50キロの砂糖袋の担ぎ に閉口している。種族の違うゴルカとムッソルマンとでは起居は別、食べ物も違い、喧嘩が絶えない。 牛と豚の屠殺に先立ち、お祈りの長いこと、宗教の違いから片や豚を不浄とし、片や牛を聖なるもの とし、屠殺を忌み嫌い、牛と豚を食べ違う。 師団には五つの野戦倉庫があるが、ここ竜陵が最も現地自活に力を入れている。 抑々、濁流逆巻く 怒 江 対岸に敵を敗走させた雲南作戦の目的は中国大陸奥深く追い詰められた 重慶軍がその補給を填緬公路によりビルマから、レッド公路により印度から求むべく作った両公路の 遮断にあった。竜兵団は填緬公路遮断へ、菊兵田はレッド公路遮断のためミートキーナへ行き、一応、 目的を達したが、今度は日本軍の補給路が伸びてしまった。填緬公路を一線に細長く、両側は敵性住 民又は便衣隊がおり、いつ遮断されてもおかしくない状況にあり、補給を追走のみに頼れず、現地自 活の要があった。 竜陵では味噌・醤油・皮なめして馬具を作っていた。 倉庫長の柴田大尉は、九州直方駅前にある日若酒造〔株〕の社長で、九州石橋酒造〔株〕の息子で 石橋兵長を責任者として日本酒の醸造を始め、内地の日本酒に劣らない銘酒が出来た。旨い山地の水、 旨い山地の米に負うところ大である。後日ビルマで造った酒は酒とビールをチャンポンにしたような だらしのない酒となったので支那酒の蒸留方式に改め成功した。 竜陵郊外で荒れ果てた小さな工場に60歳位の老人を見つけ、その工場を改築して陶器造りをさせよ うと考え、兵団から陶器製造経験者を集め、のぼり窯を築き、手回しと足けり式のロクロを作って製 造を始めた。次いで、現地人対象に徒弟学校を開設した。因みに竜兵団は陶器製造の多い九州の部隊 です。工場責任者の上等兵は福岡郊外の上野焼きの元祖・家元である。飯茶碗、湯のみ、酒徳利など を造った。日本酒を初め、正油、饅頭、味噌、図嚢、陶器作りのほか色々なものを作っていた。 私が手がけたものに農園と養豚がある。応召前は福岡県農事試験場長だった今村伍長は中国の稲を 研究したいと思い、拉孟の所属部隊から遠く離れた竜陵に稲を求めて放馬(無断で外出区域外にゆく) し、軍律違反は覚悟の上であった。向こうから来る中国服を来た田島大尉を中国人と思い話かけたと ころ、日本人と分かったが、後の祭。放馬の理由を尋問する田島大尉の頭に農場を作る構想が閃いた。 野菜不足の折柄、この構想は実現に向ってドンドン進められた。 兵団から今村・禅院両伍長、他8名の適格者が出向してきた。 野戦倉庫からも見渡せる竜陵北門と東山の間の250ヘクタールを農場とし、種子は日頃野菜を納入 している中国人業者に騰越以北から集めさせるべく、私は軍票を託し、軍の連絡車に乗せて騰越に向 かわせた。労働力は部落長を説いて回り50名を集めることが出来、空家を修理して今村・禅院伍長 以下50名ともども収容し、田圃を畝立て、肥溜を作り、番小屋を建て、倉庫から蒸れた大豆等を肥 料とし、部隊の糞尿運びをインド兵に課し、かく、大々的に農場は始まった。 やがて、期待に背かない野菜が取れるだろうに、竜陵攻防戦が始まり成果を摘み取る機会を失ってし まった。軍隊にはいろいろな職業の者がいて現地自活を策するのに手があるとは面白い。 次は、挫折した養豚について、--- インド兵にとって、豚の飼料集めは監視から開放されて駐 屯地を歩くことが出来る楽しい仕事でしょう。時には、口笛も出ましょう。部隊の残飯、残菜、を二 人一組で三組の印度兵に収集にあたらせたが、辛子の入った野菜は困ります。その識別を辛子好きの インド兵に当らせたとは皮肉です。豚舎一つ囲いに5、6頭とし20囲い分の子豚を集めた、そのう ち一つの囲いから豚コレラが発生し、次第に他の囲いに蔓延して行った。飼料を啄ばむカラスが元凶 です。悲鳴を上げて逃げ回る豚を捕らえて予防注射するのに根負けした。こうなっては手遅れで全滅 は避けられません。全部、部隊に交付してしまった。 昭和17年、怒江対岸に敗走した重慶軍は雲南奪回を準備していた。新京を出で発って、やがて一年 の昭和18年も暮れようとしている。 |