「片腕を一晩、貸してやってもいい。」
 とデス・ザ・キッドは言った。そして左腕を肩からはずすと、それを右手に持って俺の膝においた。
 声が満足に出なかった。俺は膝を見た。キッドの左腕のあたたかさが膝に伝わる。生きた腕の体温だ。ぞわりとした感覚が背をはいのぼった。
「指輪は、はめたままにしておこう。俺の腕だと言うしるしにな。」
「…………」
「これは父上から賜ったものなんだ」
 聞いてもいないことをとうとうと一人喋り出す。
「親離れできないやつだと取られるだろうが、それでもいいと思って、はめているんだ。」とキッドは言った。「いったんこうして指につけると、はずすのは、父上と離れてしまうようで」
 寂しいんだ、という語尾はちいさく、掠れるように消えた。
「ああ。肘や腕の関節がまがらないと、突っ張ったままでは、義手みたいで味気ないだろうか。……動くようにしておこう。」そう言うと、俺の手から自分の左腕を取って、肘に軽く唇をつけた。指のふしぶしにも軽く唇をあてた。
「これで動く。」
 我にかえる。その優雅な仕草に、見蕩れていたのだと気付いた。
 頭が混乱していた。
 俺の手のなかにはキッドの左腕がある。
 いつか彼の肩口から切り離された腕。さっきまで、元のとおり彼の肩におさまっていたはずの左腕。
「この腕、……」
 喋んのか、と口がひとりでに動いた。聞きたいことは、そんな事じゃあないはずだ。
「腕は腕だけのことしか出来んだろう。」
 内心の狼狽と、奇妙に凪いだ精神との狭間で混乱する俺のことなどには、気付いた様子もなくキッドは静かに笑った。
「もし腕がものを言うようになったら、返してもらった後で俺が怖いだろうが。……しかし、試してみたらいい。やさしくしてやってくれれば、話を聞くぐらいのことは、できるかもしれん。」
 行ってこい、とキッドは心を移すように、俺が持った左腕に右手の指を触れた。
「一晩だが、ソウルのものとなるんだ。」
 言って、俺を見たキッドの目が、蠱惑的な色をたたえていた。
「もしも、望むなら。俺の左腕を、おまえの左腕と、つけ替えてみるようなことを……」とキッドは言った。「やってみてもいいぞ。」








 キッドの左腕をジャケットの内側にかくして、靄のたれこめた夜のデス・シティーを駆けた。どこをどう曲がったのかよく覚えていない。とにかく急いだ。もたもたしていれば怪しまれそうに思えた。車の警笛に怯えたかキッドの腕が、襟首あたりをぎゅっと掴む。この腕には確かに意思があった。からだを離された腕がもし泣いたり、声を出したりしたらとんでもない騒ぎになる、などとぼんやり考えた。身体のバランスが取れなくて、走りながらなんどもよろめいた。アパートメントの入り口まで帰りついた時、左のポケットに入っている筈の鍵を取り出そうとして、自分の左腕がない事に気が付いた。かわりに俺の右手には、キッドの左腕がある。

 夜の靄を抜けてきた、髪が少ししめっていた。キッドの腕をとり落とさぬよう慎重に、不自由な右手でポケットを探りながら考える。つけ替えてみてもいい。そう言ったキッドに、俺はなんと答えたのだったか。俺の左腕に、キッドの右腕がふれた。そのひやりとした指先を思い出したとき、ようやっと指先に固い金属の感触を探り当てた。
鍵と鍵穴がかちかちと音をたてる。気が急くとなお手先がふるえて、それが犯罪のおののきに似ている気がした。なにもかもが異常だった。けれど俺の焦りはそういう、状況的なところにあるのではなかった。この腕を、早く、――――早く。どうしたいというのか。
 たれこめた靄が耳にまではいって、無数のみみずが遠くに這うような不愉快な音がする、気がする。湿気で狂ってしまうのはきっと、時計だけじゃあない。
「なにか、こわがっているのか。」とキッドの腕が言ったようだった。「だれかいるのか?」
「いねーよ、誰も。」
 重い音がして扉が閉まる。誰か起きているかもしれない、ということをなぜか俺は考えなかった。そして俺の言ったとおり、アパートには誰の気配も存在しなかった。あかりを点けないまま自室まで辿りついた。真っ暗だったところでどこになにがあるのかは、日々のなじみでわかっている。ドアノブを押し下げ、足で扉をひらくと、「俺に明かりをつけさせてくれ。」キッドの腕が思いがけないことを言った。「はじめて訪れた部屋だからな。」
「そりゃあ、ありがたいね。」
 俺はキッドの片腕を持ちあげて、手先が扉の横のスイッチに届くようにした。部屋の電燈がいち時についた。俺の部屋の電燈はこれほどに明るかっただろうかと、目を眇めながら俺は思った。

「窓があいている。」とキッドの片腕が言った。正確には窓ではなくカーテンがあいていた。
「なにかがのぞくのか?」
「ここ何階だと思ってんだよ。」
「人間がのぞいても、俺のことは見えない。」受け流した俺に、キッドの腕が言う。
「のぞき見するものがあるとしたら、それはお前自身だろう。」
「俺?」
 俺とはなんだ。俺とはどこにあるものだ。ふと哲学的な命題が心に浮かんだ。
「自分は遠くにあるものだ。」キッドの片腕はなぐさめの歌のように、「遠くの自分をもとめて、人は歩いてゆくものだ。」
「どういう意味だ?」
「自分は遠くにあるんだ。」キッドの腕はくりかえした。


 カーテンを引き振り向くと、ベッドに寝かせたキッドの片腕が、「きれいにしているな。」と言った。整頓されていると言いたいのだろう。彼は以前このアパートに来たときにも、同じことを言った。それがすこし可笑しくて、笑おうとしてふと俺は、この片腕とその母体であるキッドとが無限の遠さにあるかのように感じた。片腕はいま俺の部屋に来ているが、彼はこの部屋へは足を踏み入れたことがない。
 キッドの片腕が俺を信じて安らかなように、母体のキッドも俺を信じてもう安らかに眠っているころだろうか。左腕のなくなったための違和はないだろうか。
 そとの靄はなお濃くなっているらしく、カーテンをひいていても室内の空気までしめらせて来るようだった。たちの悪い湿気で木の枝が濡れ、小鳥のつばさや足も濡れ、すべり落ちた小鳥を通りをゆく車が轢くのではないか。
この世に起きている人はひとりもないような気配だった。こんな夜に起きているのはおそろしいことのようだ。

「寝よう。」俺は湿った衣服を脱ぎすてようとして、失った左腕の不自由を感じた。もたもたと寝間着がわりのシャツに着替えるあいだ、キッドの片腕は俺を見ていた。俺は見られているはにかみを僅かに感じた。
小雨のような音がまばらに聞こえた。もやが雨に変わったのではなく、もやがしずくになって落ちるのか、かすかな音だった。
 電燈のスイッチを切り、闇の中を俺はベッドへ戻って横たわった。キッドの片腕を胸の横に添い寝させ、腕の眠るのをまつように、じっとだまっていた。
 キッドの手をそっと握ってみる。あたたかさの違いが胸にしみた。むし熱いようで底冷たいような夜に、ひんやりとしたキッドの腕の肌ざわりはこころよかった。手の中のものの少しの冷たさは、そのもののいとしさを俺に伝えてくるようでもある。
 自らの火照りが彼の腕に移らないことを俺はねがった。キッドの腕は彼の静かな体温のままであってほしかった。

 やがてキッドの腕は、五本の指を歩かせて俺の胸のうえにのぼって来た。まさか闇が怖いなんてことはないのだろうが。俺はそっと片手でキッドのうでをまさぐった。つけ根の円み、そこから細まって二の腕は少しふくらみ、ひきしまった肘の内側のほのかなくぼみ、そして脈をうつ手首へと。
 掌を俺の胸の傷のあたりにあてている、キッドのその片腕は小さく脈を打っていた。手首は俺の心臓の上にあって、脈は俺の鼓動と響きあった。キッドの腕の脈の方が少しゆっくりだったのが、やがて俺の鼓動とまったく一致して来た。まるで共鳴とおなじよう、俺はひとつの鼓動しか感じなくなった。どちらが早くなったのか、どちらがおそくなったのかはわからない。
 いまなら、つけ替えることもできるのだろうか。手首の脈拍と心臓の鼓動とのこの一致は、今がそのために与えられた短い時だと示しているのかもしれない。いや、ただキッドの腕が寝入ったというしるしだろうか。
 ひとつになった鼓動と脈拍とを意識する。それが一つ打って次のを打つ、そのあいだに、なにかが遠い距離を素早く行ってはもどって来るかと俺には感じられた。そんな風に脈動を聞き続けるにつれて、その距離はいよいよ遠くなりまさるようだ。そしてどこまで遠くに行っても、無限の遠くに行っても、その行く先にはなんにもない。なにかに届いて戻ってくるのではない。次に打つ鼓動がはっとおのれを呼び返すのだ。自分は遠くにあるんだ、とキッドの腕が言った言葉を思い返した。こわいはずだがこわさはなかった。
「かまわないぞ。」
 言葉にしない気持ちを汲んだように腕は言った。
 キッドの腕にはかすかにほほえみが浮かんで、そのほほえみは光のように腕の肌をゆらめき流れた。俺はためらうように、ゆっくりとその肘をまげてみたり、のばしてみたり、くりかえしたあと、俺は肘をまげ動かすのをやめた。のばしたままじっとながめても、キッドの腕にはみずみずさがあった。

 左腕をそっと肩にあてがう。「ああっ。」という小さい叫び声は、キッドの腕だったのか俺の声だったのかわからなかった。ちいさく痙攣が伝わって、俺はキッドの左腕が肩にはまっているのを知った。
 左腕をゆっくりと持ち上げてみた。腕は俺の意志のとおりに動き、けれどこれはまぎれもなくキッドの腕だ。
 俺の肩にもキッドの腕にも、違和感などはなかった。いつのまに、俺の血はキッドの腕に通い、キッドの腕の血が俺のからだに通う。そこには遮断と拒絶は感じられなかった。
 腕とからだの間で混じり合う血液のことを思う。清純な死神の血が俺のからだへと流れるのなら、当然俺のからだからもキッドの腕へと血液が流れるのだ。黒血の汚濁がキッドの腕にはいっては、この片腕がキッドの肩にもどる時、不和がおこるのではないか。もとのようにキッドの肩にはつかなかったら、どうすればいいだろう。
 それはひどい裏切りだと、呟いた俺に「いいんだ。」とキッドの腕はささやいた。神の身体には、そのような心配は無用であったのだろうか。あれは毒を寄せぬものだ。これはその一部だ。
 血が通いいって、流れ合う。左肩をつつんだ俺の掌が、また俺の肩にはまったキッドの左腕が自然にそれを知らせていた。

 ふいに、戦慄が俺をつらぬいた。じとりとあたたかく湿ったなにかが、指先にふれていた。
「舌?」
 それは人の舌の感触にとてもよく似ていた。そのものだと言っていい。俺はキッドの左腕を、指先をじっとみつめた。きれいに切り揃えられた爪にはなにもふれてはいない。だのに俺は確かに、濡れたものにふれられるのをはっきりと感じた。
 爪先にふれたそれは、そろそろと輪郭をたしかめるように指をはいのぼってくる。水かきをくすぐるように舐められて、背がぞわりとした。こそばゆい感触に、笑うよりもなにか、えも言い難い背徳感があった。
 つけ替えてみてもいい。
 キッドはそう言った。俺は自分の失われた片腕の事を思った。あれはきっと、いま、キッドのもとにある。
「痛むのか。」キッドの左腕が聞いた。
「いや。」
「苦しかったか。」
「いや、そうじゃない、……」
 人さし指と中指とを、咥えこまれた感触がして、言葉をとぎらせる。ぬるぬると口内へ引き込まれた、指の腹を舌が撫ぜる。窄めるくちびるの柔らかさがわかる。じゅっ、っという唾液を啜る音まで聞こえる気さえした。
 キッドの左腕に、右手でそっと触れてみる。まるで最初から俺のものであったように、その腕には神経が通い、温かな血が流れ、筋が意志のとおりに動く。ひじの内側の肌を、きゅっと軽くつまんで引っ張ってみた。わずかな痛みがあった。
 と同時に、俺は指先に軽く歯をたてられた。キッドの左腕ではない。キッドのもとにある、俺の左腕だ。そうと確信していた。俺の左腕に、歯を立てたのはきっと、キッドなのだ。なぜだか確かにそう思った。
 キッドの見えない歯は、俺の悪戯をとがめるように、指先を結構な力をこめて噛んだ。皮膚を裂くかもしれないという程の痛みがあったが、血は流れなかった。やがて自分が噛んだそこを、癒すように舌が舐めた。口内に指をふくみ、いとおしむように舐める。まるで口淫を思わせるよう、舌はみだらに蠢いた。

 そんなことを繰り返していたキッドのくちびるは、ふいに左腕から離れた。遊びに飽きたか。眠るのだろうか。そんな考えは、長くは続かなかった。指先は、ひやりとつめたいものに触れた。見えなくても、それがキッドの皮膚であるということがわかった。
 掌は彼の首すじにふれていた。細く張りしまった筋肉が微妙な波に息づくのがわかる。なめらかな肌の感触がわかる。皮膚のわずか数ミリ下にある、動脈の拍動がわかる。まるで誘われるかのように、俺はキッドの左腕を持ち上げた。キッドがそうしたように、掌をおのれの首にあてる。血の流れを感じる。あたたかさを感じる。生気を感じる。生きている。確かめるまでもないことを、それでもはっきりと感じとれる。
「お前の生は、お前のものだ。」キッドの片腕が言った。
「死神のものではないのか。」
「そう、望むのか。」
 あざけるようでも、ほほえむようでもある言い方だった。首にあてた掌が、ぴくりと動いた。キッドの腕と、とおくにある俺の腕とは、もはや境目はなくなってしまったようだった。指先がじわじわとくい込んでくる。このまま首を絞めつづければ、気道が閉塞されやがて呼吸がとまるだろう。それが自分の意志なのか、それとも母体であるキッドの意志なのか、わからないままに、喉をしめつける指に身をまかせる。甘美な死へのいざないに、あらがうのは難しかった。それが彼によってもたらされることを、俺が望んだからだ。すうっと暗くなる視界のなかで、理解した。
俺の生は、俺のものであって俺のものではない。きっと彼もそう望んだ。そう思えるそのことこそが、幸福であるのだろうと思えた。













 ふ、と溜息をひとつついて、デス・ザ・キッドは左腕を自分の肩から外した。
「つまらんな。」
 そうかい、とソウルの片腕が言った気がしたのは、感傷の産物でしかなかった。ほんとうは腕はなにもこたえなかった。はずして膝の上に置いた、ソウルの左腕のつめたさが膝に伝わる。死んだものの温度だ。
 彼が失われて久しかった。その魂はもう、キッドのそばにはなかった。
 あの時確かにふれた、生のあかしも、死のよろこびも、すべてたまゆらの幻のようだった。

「俺のものにしておけば、よかったのか。」

 呟きには、深いかなしみと虚しさがあった。膝の上のものいわぬ左腕が、かすかに身じろいだ。