空腹を覚えてソウルが目を覚ますと、視界がいやに暗かった。あれ、もうそんな時間か、と一瞬考え、そうではない事にすぐに気が付く。枕として膝を提供してくれている恋人が、どうやら自分の額を机代わりにして分厚い表紙の本を置いているらしい。かかる重圧がさほどでもないことを考えると一応加減はしてくれているのだろうが、それでも随分な扱いではある。 「……重い」 抗議の意を込めて呟くと、ああすまんな、と、さして悪いとも思っていないようなキッドの声がして、すぐに視界は明るく開けた。日は少し傾いてはいるものの、空はまだ明るい。視線を上げると、自分の顔に覆いかぶさっていた本のタイトルが目に入った。魂学の文献か何からしいが、恋人の膝枕で目が覚めて、最初に目にしたいものでないのは確かだな、とうんざりした思いでソウルはその背表紙を眺める。 というか、邪魔だ。 二人の間に立ちふさがる壁のようなその背表紙を、軽く払いのけるように横へやると、読書を強制的に中断されて少しばかりご機嫌斜めな顔をしたキッドが視界に現れる。その金色の瞳に自分の姿を映したことで、ソウルは何かに満足したように口角を上げた。 「何読んでんの」 実際大して興味はないが、一応聞いておくかというその考えが透けて見えたのか、キッドは不機嫌な表情を崩すことなく魂の味についてだ、と短く応えた。空腹感もあいまって少しだけ興味を引かれ、ソウルは身体を起こすと大きく一つ伸びをしてから、味がどうした、とキッドの横に座り、その手元の本を覗き込む。肩に寄りかかる銀髪を迷惑そうに押しのけてから、キッドはソウルに向き直った。 「魂には味はないと、前に言っていただろう」 「あー……うん、味、ってのは、無いようなあるような……何て言うかなぁ」 歯ざわりとか喉越しと表現してみるものの、通常の食事の時の概念とは異なるものなのだと、実際に食することのできない相手にどう伝えたものか悩んで、ソウルは軽く首を捻った。喉を通る瞬間の、魂の奥底にある餓えと渇きが満たされるような感覚がいいんだというソウルの言葉に、そうか、と応えてキッドは顎に指を添え何かを考え込むように黙る。 「喰いたいのかよ?魂」 「馬鹿を言え、俺は魂の管理者だぞ。……いや、少し気にかかる事があってな」 精神状態によって魂の味は変化するのか、と。 それはありそうな話だと、ソウルは以前に受けた課外授業を思い出した。幸福に満たされた女の魂こそが自分の求める至上の味だと、挙式当日の教会を立て続けに襲い花嫁を殺害していた連続殺人鬼を狩ったのが少し前の話だ。 狙われやすい地域を絞り込むのに有効なのではないか。そんなキッドの主張に、ソウルは内心首を傾げる。魂が美味いから喰う、って奴ばかりでもないと思うんだが。まあ一理ないこともないか、どうせ喰うなら美味いほうがいいよなと今までに狩った魂についてぼんやりと思考を巡らせる。お前は甘そうだよなあと何気なく言ったソウルに、隣で読書を再開したキッドは視線を本のページに落としたまま、その言葉の意図するところを否定する。 「……嗜好では味は変わらんそうだぞ」 甘さ、か。そう呟いて、ぺらりと手元の文献をめくり、その一説に目を留めた。 「深く恋をする者ほど、魂が甘くなるという俗説がある」 「へぇ……」 だったら俺なんてもう大分甘いんじゃないのか。まあいくらキッドが甘党だとはいえ、俺の魂をどうぞというわけにもいかないが。そんなことより腹減ったな。そんな風に取り留めのないことを考えるソウルの横顔を、先程まで文献にかかりきりだったキッドの瞳がじっと見つめている。視線に気付き、なんだよと目で問い返したソウルの赤い瞳を、暫く何かを探るように無言で見つめていたキッドは、やがて、ふ、と息をついた。 「そういう意味では、甘いのかもしれんな」 「……へ、え?」 それって、どういう。 問い返そうとしたソウルの唇に何か柔らかいものが押し当てられた。直ぐに離れたそれがキッドの唇だと認識するまでたっぷり十秒はかかったのではないか。ぱたんと本を閉じる音で我に返ると、キッドは既に立ち上がって服についた芝を払い、もう行くぞと校舎へ向かって歩き出していた。 慌てて追いかけようとして二、三歩踏み出したところで立ち止まり、ソウルは口元に手を当てた。反芻される唇の感触に、顔が熱くなっていくのが分かる。ダメだ、今戻るのは非常にまずい。何事もなかったかのように、COOLに振舞える自信など全くない。項垂れたままその場に立ち尽くし、なんであいつはあんなに涼しい顔してんだよと、恨めしげに恋人の背中を見送る。 魂の味はどうだか知らないが、触れたその唇は、確かに甘かった。 |