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 放課後、死武専の屋上に足を向けたのは本当に『なんとなく』としか言い様がない偶然で、別に探していたわけでも呼ばれたような気配がした訳でもないんだが、
「……ん、ソウルか」
「よう」
 それでも想い人の姿を見つければ柄にも無く胸は弾むし、何か運命的なものの存在を信じたくもなる。なんて言ったらこの四角四面な神様は、センチメンタルだなと笑うんじゃないだろうか。そんなことを思いながら、キッドの隣に立ち、柵に背を預ける。
「何やってんの」
「別に……何もしていない」
 キッチリカッチリが信条のはずのキッドにしては珍しく、どこか呆けたような答えが返ってくる。柵に肘をつき遠くを見つめる彼の視線の先を辿ってみたが、そこにはいつもと変わりない街並みが広がるだけだ。日差しは柔らかく、時折吹き抜ける風が心地よく頬を撫でる。なべて世は事もなし、か。
「なんかもう、すっかり元通りだな」
「概ね、な」
 俺の言葉を補足したキッドの指差す方向に視線を移す。補修作業が追いついていないのか、立ち並ぶ商店の屋根の一部が欠けているのが目に入り、ああまだ完全に終わったわけじゃあないんだなとそこで初めて気付く。それぐらい、鬼神との戦いの爪痕はほぼ跡形も無くなっていた。
 デス・シティに固定された死神様の魂を、街ごと強引に動かすという無茶をやってのけた、あの阿修羅との戦いはまだ記憶に新しい。阿修羅を倒し、アラクノフォビアを壊滅させたもののその代償は大きく、街にもこれまでにはない規模で被害が出ていた。比較的短期間での復興を可能にしたのは、勿論住民の尽力あってこそなんだろうが、死武専が全面的に指揮を取り支援した事も大きい。俺達もしばらくは復興作業に狩り出された。

  しかしまあ、と街を見下ろしながら感慨にふける。あの天地をひっくり返した様な滅茶苦茶な状態で、あれだけの被害ですんだのは奇跡的だ。この街は死神様そのものみたいなもんだ、その生命力もハンパないってことか。
「そういやお前、現場の手伝いに来なかっただろ」
 相変らず隣でぼんやりと遠くを見つめたままのキッドに向き直る。しばらく姿を見ないなと思っていたら、どうやら死刑台邸に篭もって「完璧な復興計画」とやらを練るのために寝食も忘れてドラフターに向かっていたらしい。リズが呆れたように言っていたのは狩り出された作業現場での話で、しかしその後も現場でキッドの姿を見かけることは無かった。
 風にそよいだ前髪の隙間から、少しばかり翳りを帯びた目をこちらに向けると、彼は小さく溜息をつく。
「計画書が出来上がった頃には、整備は殆ど終わっていたんだ」
「……お約束かよ」
 完璧を求めるあまり時間をかけ過ぎるのはキッドの悪い癖だ。まあ、間に合ったところで、どうせ損壊部を碁盤の目みたいにキッチリカッチリ作りかえようとか、ろくでもない設計書に違いないのだが。
 しょんぼりと肩を落としたキッドに、そう気を落とすなよ、いつもの事だろと軽く言ったらジト目で睨まれた。なんだよ、本当のことじゃねぇか。
「そんで、黄昏てたってワケか」
「まあ……それもあるが、」
 語尾を濁して再び街並みに視線を落としたキッドに倣い、何気なく、いつも行き帰りに通る道を目で辿る。倒壊した建築物は解体され、ほとんどは再建が終わったようだが、更地のままになった場所もわずかに残っている。あそこには何が建っていただろうか。いつも目にしていたはずなのに、既に思い出せもしない。

「あのストリートに面したところには確か、古着専門の洋品店があったはずだ」
「へぇ……行ったことあったっけ?」
「いつも素通りするだけだったろう。客がおらず入り辛いと言っていた気がするが」
「ああ!あの寂れた店な」
 言われて漸く思い出す。頭の靄が晴れたような爽快感もおそらくこの一瞬だけの事で、明日には忘れてしまうに違いない。つまりはその程度の存在でしかない、立ち寄った事も無い店。
「記憶に残らないというのは、なにか哀しいものだな」
 視界の端に欠けた屋根を映し、どこか物思いに沈んだ表情でキッドが言う。
 あの屋根もいずれ修繕され、更地には新たな建物が建つ。そうやって、この眺めもいずれ姿を変えるんだろうなとふと思う。整備されてしまえば、以前そこに何があったのかなんて次第に忘れ去られていくんだろう。
「知らねばならん事は、いくらでもあるというのに」
 静かな呟きが風に溶ける。零れ落ちた言葉から垣間見える、その内面は決して明るい色ではなく、彼の持つ強さと相反する脆さを滲ませているように思えた。それは強くあろうとするが故の弱さ、なのか。
――気付けば形を変えていく。街の色も、人の流れも」

 変わらないものもある、なんて陳腐な台詞を投げ掛けるのは容易いが、そういう役回りを期待されている訳ではないんだろう。キッドはただ思考を音にすることで反芻しているに過ぎない。他人を通して己を眺め、己に問いかける作業。その相手に俺をわざわざ選んでいるのか、偶々そこに居合わせたのが俺だというだけなのかは正直わからない。
 できれば前者であって欲しいもんだと願いつつ、柵に寄りかかったまま背を反らす。仰いだ空は、ひたすらに広く、青い。流れる雲は、一秒たりとも同じ場所には留まらない。不変のものなんてない、街も、人も、人の想いすら。分かりきったことじゃねぇか。不意に苛立ちのようなものが湧き上がる。街の変化にキッドが何を重ねて見ているのかは知らないが。
「全部背負い込んでどーすんだよ」
 答えを望まれているわけではないんだと分かってはいても、言わずには居られない。俺は優秀な鏡にはなれそうもない、無論そんなものになる気もないが。
「……変わらないものなんて無ぇし、変わってくのは止められねえよ。けど、」
 移ろいゆく全てを記憶することなどできない。そのうちで憶えていられることなど、きっとごくわずかだ。だからこそ、できるだけ美しいものの記憶だけを留めていたいと、そう思う。

「美しいもの、か」
 目を閉じ黙って俺の言葉を聴いていたキッドが、薄く瞼を上げる。
「随分とセンチメンタルだな」
「……うるせぇ」
 ああくそ、やっぱり言うんじゃなかったか。元々は自分が感傷に浸っていたくせに、食えない奴だ。照れくさいのを誤魔化すように舌打ちした俺に、キッドの目が曖昧に笑う。否定も肯定もなく、ただ柔らかく細められたその金色に毒気を抜かれ、まあいいかと納得いかないなりに諦めをつける。
 取り敢えずは、その笑みを引き出せただけでもよしとしよう。憂いを帯びた横顔も、決して嫌いじゃあないんだが、な。
 大きく一つ伸びをして、柵に凭せ掛けていた身体を起こす。太陽はずいぶんと西に傾いたが、空の色はまだ青く、夕暮れまでは時間がある。幸い、今日の食事当番は俺じゃない。
「どっか寄って帰ろうぜ」
「構わんが、当てはあるのか」
「んー……リニューアルオープンしたカフェがチラシ配ってたっけな」
 ポケットに入れたままになっていたチラシを取り出してキッドに渡し、あの角を曲がったところだと指差す。椿のお気に入りの、和菓子専門店に併設されたカフェだ。キッドはあまり抵抗ないみたいだが、俺は正直なところ、女性客が90%を占めるようなスイーツカフェだの甘味処だのに男二人で入るのは気が進まない、……普段なら。
「余計なコトばっか考えんのはさ、疲れてんだよお前。精神的に」
 だから今必要なのは糖分補給だ。そう結論付け、キッドがチラシから顔を上げるより早くその手を取り、柵から引き剥がす。急に手を引かれて面食らった様子のキッドに、にやと笑ってみせた。
「よし決まり。ほら行くぞ」
 善は急げとばかりにその手を強く引き、廊下を走るなと怒られない程度のギリギリのスピードで、校内を急ぎ足に過ぎる。どうせなら、重ねる記憶は憂い顔より笑顔のほうが良いに決まってる。手っ取り早くそれを引き出す奥の手を、いま使わないでいつ使うってんだ。
「待て、そう急くな!」
「いいだろ、これっくらいのささやかな願い、叶えてくれたって、さ」
 抗議の声に、振り返らずに応えて足を速める。なんの話だとぼやきながら、でも繋いだその手は外さずに、キッドは呆れたように小さく笑った。