命のファルファッレ



「何か弾いてくれないか」

 かつては幾らパートナーにせがまれようとも頑なに拒み、決して手を触れようとはしなかったピアノ。今はごく稀に、彼の気が向いたときだけ披露されるその音を、強請ってみたのは彼が『退屈だ』と主張したからであり、そして死刑台邸には誰も弾かないピアノがあったからだ。言ってみればただの気紛れに過ぎない。

 軽く眉を上げたソウルの、赤い瞳を覗き込むようにじっと見つめれば、拒否の言葉を乗せようとした唇が僅かに戸惑う。明後日のほうへ逃がした視線が俺の姿を再び捉えた時、その瞳は少し困った様に緩み、唇はぎこちなく笑みの形に歪んだ。
「…ったく。甘え上手になったもんだ……と」
 ぼやきながらも椅子を引き、乱暴に腰かける。古びた椅子が彼の体重を受け止めて軋んだ音を立てた。
 鍵盤に向かい、すぅ、と軽く呼吸を整える。しかしその横顔は、いつもピアノを前にする時に見せる張り詰めた印象はなく、寧ろ悪戯を思いついた子供のような表情さえ浮かべている。

 甘くたおやかな音が部屋の空気を震わせる。彼が手慰みに弾いてみせたのは、誰もがよく知る名曲――しかも第一楽章。
「交響曲第五番……ハ短調作品67……?」
「そ、……『運命』」
 しかし誰もがよく知る長大で、重厚なあの旋律ではなく。
 彼の指から紡ぎだされる『運命の動機』は、まるで翼が生えたかのように軽い。カフェテラスで流れていても違和感のない、ボサ・ノヴァ風のポップな曲調に変化していた。

「………ずいぶん大胆なアレンジだな?」
「お気に召さない?」
「いや」
 問いかけに、軽くかぶりを振って応える。蝶のように自由な羽ばたきをみせるメロディラインは心地良く、しばらくその響きに身を浸していると、ふと彼が指を止めた。音の余韻がふわりと漂う。
「荘厳で、陰鬱で、どうにもならないほどの悲壮な――
 鍵盤から離した両手を組み、ソウルは軽く背を丸めて伸びをした。
「……だけが、『運命』、じゃねェだろ」

 暗から明へ、転換を遂げる後の楽章のことを言いたいのか、……そうではないのかも、しれない。抗えない何かの存在を感じながら、しかし決して圧倒されず『運命の喉首を締め上げ』るだけの強さが、彼には、ある。

「そうだな」
 ふ、と自然に笑みが零れる。ソウルもまた、満足そうにニィと歯を見せて笑い、再び鍵盤に手を伸ばす。気ままに躍る指先、――風を思わせる軽やかさで、扉を叩く『運命』の使者。

 そこに彼の姿を重ね合わせながら、軽快に舞い踊る旋律に身を委ね、目を閉じた。