8%未満の片想い



 人と話をするときには真っ直ぐ目を見て話すように、なーんてことをよく言われるが実際のところこれはあまり宜しくない。真っ向から視線を合わせることによって生まれる威圧感、与える印象としてはどちらかといえばマイナスで、だからまあ相手から見て「視線が合っている」と思われる範囲内――上はあの白い三本線の一番下のラインから、下は死神様を模ったエンブレム、……いやもう少し上、顎か唇のあたりだろうか。この範囲内で視線を留めておけば「目を見て」話していると言っても概ね問題ない。コレ経験則な。

 死神様のご子息であらせられるところの彼、デス・ザ・キッドとの対話においてそんな事を一々考えなければいけない時ってのは大概俺にとってあまり好ましくはない事態で、それは今のところ大まかに分けて二パターンしかない。キッドがシンメトリーについて熱を込めて講釈している時あるいは授業態度であるとか規則違反であるとか、とにかく何かしらについて口喧しく説教している時、……そして今は残念ながら前者。何故前者が残念なのかは、その熱弁を一度でも耳にしたことがあるヤツなら説明しなくともお分かり頂けるとは思う。

 死武専正面玄関の例のあのツノの用途がなんだとか、きっかけはごく些細な事だったような気もするが、言動がヒートアップするうちもうよく思い出せなくなってしまった。同じ言語で話しているはずなのに著しく理解が困難で、というかほぼ一方通行で意味が通らない、会話と呼べるのかも怪しいものがどれだけ不毛でどれだけ気を滅入らせるものかなんてことは、キッドはあの悠久の洞窟で身を持って体験してきたはずだと思ったが気のせいだったんだろうか。あるいは記憶から永久に抹消しちまったのかもしんねェな。帰ってきた時のあの様子からすれば無理もないことだが。

 こういう場面に於いての対処法に長けているのはいつでも職人と行動を共にしている武器、つまり拳銃姉妹だ。ポジティブな方向へと表出したキッドの病気への最も効果的な対処法とは即ち、……『放置する』。
 あいつらはその前兆が見えた瞬間に「後よろしく」とばかりに良い笑顔を残して真っ先に逃げていった。つうか武器は職人の波長を制御するのが仕事だろうが。お前らはもう少しご主人様のマインドをコントロールできねえのかよ、とは常々思い、けれど決して指摘しない俺に 「ソウルってほんと、付き合いいよね?」とマカが微妙な含み笑いを寄越す。その言葉をあからさまに否定できないのは、彼女の言いたい事が少なからず当たっているからだろう。キッドが視線を逸らした隙にそっと席を立ち、教室を出て行く背中にうるせェよと小声で返すのが今の俺の精一杯だってのがまた腹立たしい。

 最終的に残っているのが俺一人なのか、最初から俺に話をしたいのか、それが後者に違いないと思えるほど楽観的にもなれず、しかしそうではないという確信も持てないままただただこうして時間を費やす俺はなんだ、浪費主義か。少なくとも左右対象愛好家でないのだけは確かだな。だってさっきからキッドの言ってることなんか何一つとして理解ができない。しようという気は、まったく無いわけではないんだが。

 とにかくその長ェ話を聞いてやるのはいつからか俺の役回りになってしまっていて、聞いているのかソウル、と思い出したように挿入されるお決まりの文句に、はいはい聞いてますよとやはり定型文を返す。ちらとこちらに視線を流して「まあいい。それよりも」と途切れたはずの講義は再開される。結局のところ聞いていようがいまいが彼はただ持論を展開し続けるのだ。そして熱弁をふるうキッドに根気良く付き合ってやる奇特な奴を俺は俺以外に知らない。
 いつしか人気もなく静まり返った教室にキッドの声だけが朗々と響き、俺は俺で欠伸を噛み殺しながら取り留めのない事を考える。時折同意を求めるものの基本的には一方的に喋り続けるキッドと、彼がこちらを振り返るタイミングに合わせて神妙な顔をして頷きながらも話の内容は右から左な俺と。こうして「目を合わせて」いるはずなのに、まるで互いに明後日の方向を見ている様に思える。ああなんて不毛なんだ。もっと対話をするべきなんじゃないのか、本来の意味で。

 少なくとも俺は、とキッドの唇の辺りに視線を留める。もう少し有意義な事に時間を使いたいんだがなと、立て板に水の実に滑らかな弁舌ぶりに紛れ小さく溜息をついてみる。死神の人生? ってやつがどれだけの長さなのかは知らないが、それでも青春時代ってやつは一度きりのはずで、それはこうやってぼんやりしてる間にもどんどん浪費されていくんだぜ、そんなの耐えられるわけないだろ?
 あの唇が俺の名前を、もうほんの少しだけでいいから情感を持って紡いでくれるならどれだけの胸のときめきを得られるだろうかね、などと他愛もない不純物を付加された視線も受け止める側がアレではまぁ意味はなく。
 際限なく停滞する思考のなかへと埋もれ重力に従って閉じていきたがる瞼をひっぱりあげることに苦心するうち、シンメトリーの造形的な美しさと特に歴史的建造物に見られる有用性について、黒板を限界まで使ってびっしり書き込み終えたキッドは俺の座る最前列の机に身体を持たせかけ、充実感に満ちた顔で額の汗を拭っていた。
 ……さぞ心地よい疲労に浸ってるんだろう。腕を組み、自らの軌跡を視線で辿ってひとつ満足気に頷いたキッドをお疲れさんとでも労えばいいのか。どちらかといえば疲れているのは俺の方ですけどね。

 できればこのへんで切り上げてくれと、この長大な理論を再び展開させないためのうまい返し方についてずっと考えを巡らせている俺と彼との間に横たわる溝の深淵。敢えて覗きこむ気にはなれず目を背けている節はある。薄氷を踏む勇気なくただ無為で無意味な仮初の平穏に身を浸すことを自ら選んでいる俺は結局のところ、臆病なのだという自覚はあって、

「……ソウル?」

 ふと呼ばれた名前に鼓動が跳ね上がる。望むべくもない情感が、ほんの僅かに込められた声。俺の目を覗き込むように首を傾げ、微妙な上目使いで見据える金の双眸が、光の角度によって異なる色合いを放つのだと言う事に気付いてしまうほどの距離。長く重たげな睫毛がゆっくりと瞬く音さえ聞こえる気がして、錯聴を振り払う。
 そんなささやかないくつかの事象にさえ切なく胸を締め付けられる。『分かったか?』と問いかけるようなその目にどう答えていいのか、既に思考することを放棄して低電力モードに移行していた俺の脳は再起動に失敗し、故に考えは纏まらずがりがりと頭を掻いてみた。仮にリブートしたところで何かしら有効的に機能する友好的な台詞なんざ弾きだしはしないだろうということは分かっている。そう、どれだけ足掻いてみたって導き出される答えはたった一つ、至極シンプルなものでしかない。

お前は、(俺は、)
シンメトリーが、(キッドが、)

「……大好きなんだなっつーのはよく分かった」

 はぁ、と自嘲を込めた溜息をひとつ。ただ一人の聴衆に向けてさえ、生き生きと目を輝かせ最大限に己を表現するキッドを。例え退屈と憂鬱に殺されようとも、俺を呼ぶその声が左右対称を唱える時ほどに熱が籠らずとも、傍で見ていられるだけでいいと願ってしまうこの気持ちは誤魔化しようがない。……例え自分が、選ばれてここに在るのではないとしても、だ。  

 一瞬、奇妙な沈黙が落ちる。顔を上げれば、こぼれ落ちそうなぐらいに見開かれた瞳が俺を捉える。キッドが色素の薄い唇を酸欠の金魚のようにぱくぱくと開閉させているその様は、適切な言葉を探し現状に当て嵌めることの困難を表していた。……先程までの雄弁が嘘のように。
「? ……どしたよ」
 怪訝な色を含んだ問いかけに、微かに狼狽えたように、逃げるように視線は逸らされ、キッドは小さく咳払いをして元通り背筋をぴんと伸ばした。

「………………理解が早くて助かる」

 言ったきり、まるで怒ったみたいに押し黙り、ふいと背けた横顔がよく見なければ分からないぐらいに僅かに紅潮している事に、机一つ挟んだ距離なんかは身を乗り出せば越えられるのだということに、――いくら目をあわせていようと互いの意図を推し測ることなんざ僅か一割も出来ていなかったのだということに、



 ――――気が付くまでもう少しだけ時間が必要だったっていう、ただそれだけの他愛もない恋の話。