いの稜線



 波長をより遠くへ巡らせるならば、より高い場所からのほうがいい。それは過去の試みから二人が学んだ事だった。
 魂の感知に遮蔽物は意味をもたない。本来は必要のない高さを、それでもマカが求めてしまうのは、視覚効果による三次元的錯覚か。それとも過去の記憶が、クロナと過ごした感傷的な思い出がそうさせるのだろうか。
 それがどちらでも構わない。彼女が望むように従うだけだ。
 これまでと同様に第二校庭に立ち、夕暮れの雲間にうっすらと姿をあらわした月を見上げて、ソウルは呼吸を整えた。
「っし。じゃあ、……始めるか」
 マカの背後に立ち、支えるよう肩に手を置く。より深く、互いの魂を感じるために目を閉じる。呼吸を、鼓動を、自らの魂の波長を、相手のものとゆっくりと重ねていく。
 戦闘時の共鳴のよう、鮮烈な解放感ではなく、じわりと魂が溶けだすような波が、……訪れる、筈だった。
「……ねぇ、ソウル」
 肩透かしをくらったような感覚があった。それが職人側が魂の波長を解放していないからだと、認識したのと名を呼ばれたのは同時だった。
「んだよ。集中しろよ」
「もう、会った?」
 眼を閉じたままで、彼女が問う。
 この期に及んで『何のことだ』と惚けるほど、ソウルは愚かではなかった。
 マカは(あろうことか、市内アナウンスで呼び出され)デスサイズに会ってきた。そのことの意味が、分からない筈がない。
 デスサイズと交わした言葉のなんらかが、あるいはその右手人差し指に嵌めた指輪が、彼女の集中を妨げたのは明白だった。
「昨日の昼、学食で一緒にメシ食ったじゃん」
 一つ溜息を吐いて、ソウルはマカの肩に置いた手を下ろした。
 鬼神討伐隊には彼女の父と、デスサイズス、いくらかの教職員、そしてキッドも含まれている。彼女の指しているものが、級友であり、そして自分の恋人でもある、死神の一人息子の事を指しているのだろうと察することぐらいはできた。
「…………それだけ?」
「そんだけ」
「何かほら、大事な話とかは」
「しばらく休校だなーって。……お前もあん時いただろ、忘れたのかよ」
「……そうじゃなくて!」
 苛立ちを含んだ強い口調で言ったマカが、振り返った拍子に亜麻色のツーテールが大きく揺れる。
「もっと他になんか、ないの?」
「他? ……土産ヨロシク、とか?」
「そう月の石がいい、――ってそんな事言う空気じゃないでしょ! アホか!」

 いつもより軽めのチョップをその頭上へ落として、マカは呆れたような眼でソウルを睨んだ。
「もう。……人が折角、気使ってやってるってのに」
「余計な御世話だ。つーか、何言うんだよ、今更」
「今だから言っておかなきゃいけない事とか、ありそうなもんじゃない!」
「……例えば?」
 感情を覗かせない冷静な問い返しに、一瞬視線を泳がせたマカが、すぐにソウルに向き直る。
「負けないで、とか!……絶対帰ってきて、とか」
「……こないだ言ったろ、似たような事は」
「思い出話……とか」
「今このタイミングで? 逆に縁起悪ィよな」
「…………でも」
 語尾が次第に弱くなる。翠の瞳が内心の動揺を表わして揺れていた。
 視線が左下に落ちるのは、過去の何かを想起する時のマカの癖だ。
 だから彼は理解した。彼女は鏡に向かって話をしている。今の自分はつまるところ、彼女の鏡なのだと。

(――行かないで、とか)
 胸を過った言葉を、ソウルは口にはしなかった。
 この世で唯一人、死神の武器を名乗ることの許された父を誇らしく思う時も。家を空けては戻らない、女にだらしのない父を憎んだ時も。
 死地に赴く父を見送るその瞬間でさえ。
 もしかしたら最期になるかもしれない場面で、けれど彼女は言わなかったはずだ。

 行かないで。行かないで。行かないで。

 絶えず胸の内で繰り返す言葉を、決して音にしないために、彼女は『強く』あろうとする。もう誰かの背中を見送るだけの、幼くか弱い少女ではないのだと、自分に言い聞かせる為に。手を繋ぎ互いの存在を確かめ、それを失わぬ為により高く飛ぼうとするのだ。
 自らの弱さを知るものにしか持ち得ない強さと、そしてそれを紙一重で支える意地っ張りなパートナーの気性を思い、ソウルはこそりと嘆息した。
 こんな時ぐらいは、素直になっても良いだろうに。
 そんなソウルの考えをよそに、マカは何かを思いついたようにポンと手を打った。
「あっ。……愛してる、とかは」
「……言えるか、んな恥ずかしいコトが!」
 鏡であることも忘れ一瞬語気を強めたソウルに、二度ほど瞬きをしたマカが、やがてにやぁとほくそ笑むような表情を浮かべ、やれやれ、といった風で肩を竦めてみせた。
「素直じゃないんだから」
 どっちがだよと言ってしまいそうになって、ソウルは辛うじて堪えた。これはマカの自問だ。彼女が言えなかった言葉、言わなかった言葉を並べているに過ぎない。
 パパ大好き、愛してる、――なんて。
 絶対に言いたくないであろう言葉を、それでも言っておくべきだったのかという僅かな惑いをそこに見て、そりゃ言わなくて正解だ、とソウルは苦笑した。
(今度は嬉しゲロじゃ済まねェかもだしな)
 最重要任務を前にして、死武専が誇る最強の武器に倒れられたりしては堪らない。
「帰ってきてから、いくらでも言えるだろ、そんなの」
 答えながら、ソウルは気付いていた。これは彼女のための、そして自分の為の解でもあるのだと。

 伝えておきたい言葉など、無いと言えば嘘になる。
 けれど言い残したことが、やり残したことがあるならば。或いはだからこそ、それはきっと再会に繋がるのだ。
 少しぐらい未練がある方が、しぶとく生き残るに違いない。相手も、自分も。
 そんな ソウルの言葉に、「……カッコつけちゃって」とマカはやや不満そうに顔を歪めた。
「でも、……そう、かな。……そうだね」
 だから今は。何も伝えないことが、何かを伝えるだろう。
 そんなソウルの想いを読みとって、まだ少しだけ揺れる心を静めるように、マカは深呼吸して背筋を伸ばした。
「最期じゃないんだもん」
 彼女の気持ちを表わすかのように、風が凪ぐ。真っ直ぐにパートナーを見据えた翠の瞳には、いつものように力強い光があった。
「やらなくちゃ――今は、私達にできる事を」  
「ああ」
 肩に置いたソウルの手に、マカの指先が重なる。魂を重ねる瞬間、右手に感じた冷えた金属の感触に、ほんの少しだけ気を取られる。
 それは眼に見える形の絆だ、と。
 意識すれば、胸は微かな疼きを覚えた。
(……ったく。全然、カッコつかねェな)
 そんなCOOLになりきれない自分を自嘲して、ソウルもまた、静かに眼を閉じた。