そつきライアー



  到達まであと30メートルをきったなと、考え、けれど後ろは振りかえらず、キッドはただ接触までの距離を胸の内で刻む。
 カウントが0になったと同時に、吹き抜けた一陣の風。
 視認などできないはずの空気の流れを「白」だと認識したのはつまり、通り過ぎた白銀髪を視覚的に捉えたせいにほかならない。それは実際には、陽射を受けて赤く艶やかに光るバイクに跨った、ライダーのものだった。
 またヘルメットを着用せずに乗りまわしているのかと、やや苦い思いでエンジン音を聞いたキッドは、そのまま遠ざかるかと思われたバイクが数メートル先、信号もない路上で緩やかにその動きを止めたのを確認した。
 振りかえり、ゴーグルを額へ押し上げたライダーが、意外そうな顔で何かを口にしたが、遠くてよく聞きとれない。唇の動きから予測して、さして重要な事でもないのだろうと思う。偶然だな、とか。そういった、ただの挨拶程度の類。
(偶然でなど、)
 ふと胸を過った言葉を、打ち消す様にキッドは頭を振った。先程から妙に苛々としている自分を意識する、――その、理由は。
 すれ違いざま、赤に見えたバイクが、近づくほどに深みのあるボルドーにも見えることに気付く。スポーツタイプの真新しい車体。確か日本製の、なんと言ったか。クラスメイトと単車の話題に興じるソウルの興奮気味の声と、緩んだ表情を思い出す。課外授業の合間に随分バイトも入れていたようだが、全てはあの新しいバイクのため、ということだろう。
 思いだすほどに、かつかつと石畳の舗道を叩く靴音が高くなる。足取りが次第に早く、気づけば石畳を蹴っていた。
 もう聞き飽きたと言った態で輪から外れていたマカが、呆れたような顔で彼を評したのだ。まるで、――『恋人のことでも話してるみたい』、――だ、と。

 視界の端を、通り過ぎた一台の黒いシボレーを、追うように走る。いきなり駆け寄ってこられ、明らかに面食らった顔のソウルにはかまわず勢いのままひらりとタンデムシートに飛び乗った、キッドが大声で指示を出した。
「緊急時だ、ノーヘルは見逃してやる! 早く出せ!」
「出せっつったって、……何処へよ?」
「……今しがた通り過ぎた、車を! あの黒塗りの、」
 いいから追え! というやや苛立ち交じりの声に、いきなりなんなんだ、と軽くぼやきながらもソウルは再びゴーグルを装着し、アクセルを開けた。


 見失わないぎりぎりの距離を保ってバイクを走行させる、ソウルが前方の車を見据えながら「で、アレ何」と切り出した。
「……マフィアのボス? 前にほら、ブラックスターが狩り損ねた」
「あれは死武専が既に抑えた」
「ハズレかよ。……そんじゃ運び屋? ……それとも誘拐、」
 様々に憶測を立てるソウルの声が、風に千切れる。
「…………、」
「あァ? よく聞こえねー」
 声を拾うため首を傾けた、ソウルの耳をしなやかな指先が摘みあげた。
「いだだだだだ」
「くだらんお喋りはよせ、と言ったんだっ。あと余所見をするんじゃない」
「……へいへい、……って。んーなこと言ってる間に」
「む、」
 他愛ないやりとりを交わしながら、対向車をかわした拍子に目標を見失う。思ったより交通量が多い。右折か、直進か。どっちだ、とキッドに視線で訴えたソウルに、少し考えて、「……このまま直進すればメインストリートだな」とキッドが応えた。

「オッケー了解」
 言うなりソウルはハンドルを何故か左に切った。辺りにスキール音が反響し、トラッシュカンの上で丸くなっていた猫がギャッと短く鳴いて逃げる。スチール製のそれを派手に蹴倒して、バイクは脇の狭い路地へ進入していく。
「……おい! どこへ!」
 近道、と短く返したソウルのバイクが車幅すれすれの狭い裏道を疾走する。日の射さぬ裏路地は真昼だというのに薄暗く、未舗装な道が昨日の雨のせいで少しぬかるんでいる。雑踏から取り残されたエア・ポケットの様な静けさの中に、バイクの排気音だけが喧しく響き渡る。
 地図の上では把握していても、実際に通るのは初めてかもしれない。よく知る街の知らない側面を見たような気がして、「大丈夫なのか」と思わず口を突いた自分の呟きが、微かな不安と未知への好奇心を帯びていたことを感じ、まるで子供のようだなとキッドは自嘲めいた笑みに唇を歪めた。
 ソウルが耳に手を当てるゼスチャーをしてみせたから、先程の呟きは届かなかったのだろう。風圧に掻き消されぬよう声を張って、キッドは先程の言葉を繰り返した。
「……こんな乱暴な運転で、大丈夫なのか、と聞いてる」
「んっ? 何が?」
「傷になるだろ、……お前の、『彼女』が!」
「は? 彼女ォ?…………あぁ」
 キッドへ流した視線を自らの駆るバイクへと一瞬向け、合点がいったという風に顎を上げたソウルは「なこと言ったって」と続ける。
「緊急なんだろっ。……あ、いや、待て。修理代ぐらいは勿論支給されるよな?!」
「俺は、死武専依頼のミッションだなんて、一言も言った覚えは、ない」
「……げっ、マジで」
 やや悲痛な色を含んだ呟きの後、自腹かよ、という呪わしげな声は排気音に掻き消された。
「ナンだっての? 公に依頼できねー特殊な内容、だとか?」
 要人警護とかー、などと言いながら、ソウルは減速のためギアチェンジした。
 公務ではないと解れば、気持ちばかり大人しく走行することに方針変更したらしい。現金なやつだと思いながら、入り組んだ道を行く車体の傾きに合わせてキッドも重心を移動させる。
 身体に感じるトラクション、力強い鼓動感。それは愛用のベルゼブブを駆る時とは異なり、けれどその疾走感の違いを、戸惑いつつも楽しんでいる自分を感じて、得心する。ソウルが移動手段にバイクを選ぶことが多いのも、単に小回りが利くというだけではなく、純粋に風を味わうためでもあるのだろう。
 しかし防衛の拠点としての性格を併せ持つデスシティは基本的に、街中の道は、狭い。
 もう少し開けた道でなら、受ける風の色さえ違って見えるものだろうか。
 ぼんやりと考えているうち、それまでとは異なる方向から風を感じて、さあっと視界が明るく開ける。狭い路地をぬけ、大通りに出たようだった。


「で、……どこよ?」
 緩やかな半円を描いてターンしたバイクを、路肩に止めたソウルが周りをぐるりと見渡して、少し呆れたように言った。
人通りが多い。それもそのはずだ。メインストリートには露天市が出ている。追っていた車は見当たらない。そもそも通行止めになっているこんな所へ、車両が入れるわけがない。
「さあな」
「さあな、……ってオイ」
「あの車がここに向かったなどと、俺は一言も言ってないだろう」
「あのなあ……!」
 ふいと顔を背けたキッドに噛みつきかけたソウルは、喉元まで出かかった言葉を飲み込み、じっとキッドの様子を観察する。
 追跡しろと言っておきながら、対象を見失った事に対して何の対策も打たない、などと、普段の彼であれば考えられない。そもそも、追跡ならわざわざ自分のバイクなど使う必要はない。より機動力に優れ、遥かに高性能な、ベルゼブブで追った方がいいに決まっているのだ。
 死武専の依頼でもないというその追跡劇は、一体なんの意図があってのことだったのか。

(まあ……確かに、ちょっとここんとこ、忙しかったしな)
 出会い頭の苛立った様子と、『彼女』などという呼称。バイクの傍らに佇み足元に視線を落とすキッドの横顔が、ほんの少しだけ、拗ねているように見えるのはきっと、気のせいではないのだろう。
 おくびにも出さないものだから。無機物に対して嫉妬めいたものさえ抱くほどに、――寂しい思いをさせていただなんて。
「ま、見失っちまったモンは仕方がない。……よって進路変更」
 再びバイクに跨ったソウルが、乗れよ、とキッドを促す。
「どこへ行く気だ?」
「追跡続行。…………んー、なーんとなく、9号線の方へ、向かったような気がするなー、と」
 勿論嘘だ。つまるところ、デートの口実に過ぎないそんな提案を、汲んでキッドは「仕方が無いな」と仏頂面で応え、タンデムシートに先程と同じように跨る。
「……今の時期なら、ザイオンの紅葉が美しいだろうな」
「そーだなァ。追跡の『ついで』に通るかもしんねェな?」
「うむ」
 腰に手を回したキッドが、澄ました様子で言う。思わず苦笑して、ソウルは小さく呟いた。
「…………素直じゃねーの」
「なんだ? よく聞こえん」
「………………、」
 振り向いたソウルの唇が、ゆっくりと、なにか言葉を形作る。
 声には出さないたった四文字。
 読みとって、キッドは彼の腰にしがみつく手に、ほんの少しだけ力を込めて、熱を持つ頬を隠すように顔を伏せた。