CANDY POP



 テラスを吹き抜けた冷たく乾いた風に、キッドは僅かに目を眇めた。
 眠たげな太陽は今は雲の向こうにある。薄曇で弱い日差しの空を見上げ、「ずいぶん冬めいてきたな」と独り言のように呟いたキッドは、なぁソウル、と隣に居たはずの友人に声を掛けようとして、彼が自分の視界から消え失せている事に漸く気付いた。
「……痛って」
 先程まで、週末はどうすっかなと取り留めのない話をしながら、隣で何をするでなく街並みを見下ろしていた筈の銀髪が、今は呻き声とともに目元を押さえてその場にしゃがみこんでいる。
「どうした?」
「…………砂が」
「目に入ったのか」
 先程の強い風で舞い上げられた、砂塵の所為だろうか。
 柵に凭れていた身体を起こし「大丈夫か」と声を掛けたキッドに、ソウルのくぐもった呟きが届く。
「瞼の、裏っ側が……ごろごろして、……なんつーか、不愉快だ」
 言いながら、異物感を取り除くため掌で目元を拭おうとしたソウルは、その腕を何者かに掴まれた。
「? ……んだよ」
 それが誰なのかは確かめるまでもない。この場にいるのは自分と、キッドだけだ。不快の原因を除くことを阻まれ、やや苛立たしげな声で疑問を示したソウルは、「擦るんじゃない」というキッドの警告を受けて、上げかけていた腕をやや下ろした。
「擦れば眼球を傷つける。細菌感染でも起こしたらどうする」
「……なこと言ったってよ」
「どれ、……見せてみろ。どちらだ?」
 靴音と、近づく気配に、ソウルはぼやけた視界を上げる。よくは見えないが、キッドが傍にしゃがみこんだのだろうか。不意に、ふわりと頬に温かなものが触れる。形状と感触から推察するに、その温もりの発生源は、キッドの掌だ。そう気づいた途端、何かどきりとする。
 一体何をする気かと、目の痛みも忘れて落ちつかないような擽ったいような気分で居たソウルは、ぐいと指で瞼を大きく捲られて、再び呻くハメになった。
「いでででで」
「我慢しろ」
「根性論かよー……、」
 夾雑物を排出しようと涙腺が躍起になっているのか。じわじわと溢れる涙で視界が滲む。片方を確認したあと、もう片方も同じように瞼を捲り上げ、真剣に瞳を覗きこんでいるキッドの顔もよく見えはしない。
 瞼の裏から消えない異物感を不快に思いつつも、一体俺はなにやってんだろうなぁと、ソウルは水の膜の向こうでゆらゆら揺れるキッドの輪郭を見上げながら、ぼんやり思う。
(ひと気ない屋上で、男二人……なんつーか、これってお決まりのパターンじゃねェかなぁ、――なんて)
 キッドが頬に手を添え、そして自分は目を閉じ――片方こじ開けられてはいるが――、実に良い具合に首を傾けて。この現場をクラスメイトあたりに目撃されれば、間違いなくある種の誤解を招くだろう。何しろ今の自分達は、傍から見れば今まさにキスの間際、と判断されてもおかしくはない体勢だろうから。
(きゃーあんたたち男同士でなにやってんのーっ、とか黄色い声上げられて、忽ち校内に広がるホモ疑惑……)
 んーな三文コメディめいた展開は勘弁だなァ、とソウルが他愛無い想像を巡らせるうち、瞼を強引にこじ開けていた指が緩む。ふむ、と小さく呟く声が聞こえ、キッドの気配はさらに近くなった。
 目を閉じていても分かる。頬が触れ合いそうなほど、互いの呼吸さえ感じ取れそうなほどの距離。
 おいおいまさか、と一瞬身体を強張らせ、身を引きかけたソウルは、次の瞬間まったく予想しない方向からの衝撃に、驚きの声を上げることさえ忘れてしまった。
「…………っ?!」
 ぬるり、と。
 濡れた感触が瞼を割る。柔らかく温かく、眼球をなぞるように舐め上げる正体不明の感覚。未知の経験に背筋に走った震えは奇妙に甘く、そのことがさらに焦りを煽る。今すぐ逃れたいような、このままずっとこうされていたいような――

「ちょ、……あんたたち」
 バタン、と背後で扉の開く音、そして聞き馴染んだ相棒の困惑した声。生温い触感はソウルの目元からすうっと離れ、なにか背徳的な快感に押し流されそうになった意識が引き戻される。
「な、な、……何やってんのよっ」
「……見ての通りだが」
 随分と近い位置でキッドの声が聞こえて、恐る恐る目を開けたソウルの視界を塞ぐのは、自分の頬に手を添え、吐息のかかるほどの距離にあるキッドの顔。
 そして視線をスライドさせると――驚愕に目を見開き言葉を失って立ち尽くすマカ。
 違う、と、言いかけてそもそも何が違うのか、先程の感触が何であったのかすら分からず言葉を飲み込んだソウルは、自分のくだらない想像が現実になっていく瞬間を、目の当たりにすることになった。
「――――そう。お邪魔さま」
 漸く硬直を解いたマカが、やっとそれだけを言うとくるりと背を向ける。
「おいマ、………………カ」
 来たときよりも随分乱暴に、力任せに閉められた扉のバァンという喧しい音と、「不潔!」という彼女の叫びが重なって、……辺りは元の静けさを取り戻した。

 呼び止めようとして伸ばした手のやりどころを失い、がくりと肩を落としたソウルは、「どーすんだよ、アレ」と話の拗れる原因となった相手を、じとりとした目で睨む。
「……? なにがだ」
「ヘンな誤解されただろ! 間違いなく!」
 ああもう、と頭を抱えたソウルに首を傾げ、「何を言っている」と膝についた埃を払いながら立ち上がったキッドは、不機嫌に眉を顰めた。
「砂埃を取ってやったぐらいで何故そこまで不潔がられねばならんのか、訳がわからんな」
「そう砂、…………? え? あ」
「取れただろう」
 指摘され、初めて、ソウルは自然に瞬きができていることに気付く。瞼の裏側の不快感は、いつのまにか消えて無くなっていた。
「大きなものは除いた。細かなものは涙で流れたようだな。流水で濯ぐのが一番良いのだろうが、仕方あるまい。角膜の上皮は傷が付きやすい。指で擦るよりは清潔なはずだ」
 悪びれた様子も無く、そんなことを言われた時の対処法というものを、誰か教えてほしいと思いながらソウルは軽い眩暈を覚えて額を押さえた。
(そういやあすっげーガキの頃、ばーさんがウェスにそんな事をしてたような気が……)
 しないでもない、けれど、しかし。
「クラスメイト相手にやる事じゃねェだろ……!」
「そうなのか?」
「そうなの!」
 語気を強めたソウルとは対照的に、キッドは別段照れた様子もなく、至極いつも通りの表情で彼を見下ろしていた。「そうか」と一拍置いて返したキッドに、ああこのボンボンはヘンな所でズレてんだよな、と友人の奇特な性質を再認識して、ソウルは項垂れた。
 親が子供にするような行為だ、そこに何の意味もない。分かってはいても、頬に触れたキッドの指先と、瞳を撫ぜた舌先の柔らかさを、思い出すだけで何故か首から上に血が集まってきて。
 熱くなる頬を冷ますように、軽く頭を振る。舐める、という行為に伴う恥じらいも抵抗感も、善意ゆえの行動の前には存在しないのだろう。そんな事を、必要以上に意識している自分の方が馬鹿らしいではないか。
 しゃがみこんだまま、キッドを見上げる。疑問を表して軽く首を傾げる様に、「お前さァ」と幾分疲れた声でソウルは言った。
「あんまりそーゆー事は、……せめて、時と場所と人を選んでくれ」
 提言はしてみたものの、きっと無意味なのだろう。キッドの瞳がなんの感情の揺らぎも見せないまま、ゆっくり二度瞬くのを確認して、ソウルは諦めを込めた溜息をついた。

 取り敢えずは、犯行現場目撃者の口止めが最優先だろうか。そんなことを考えながら立ち上がり、テラスの出入口へ向かおうとしたソウルは、不意に腕を掴まれて、振り返った。
「? ……キッド」
「すまない」
 平静な表情を保ったまま、その金の双眸は真っ直ぐにソウルに据えて、キッドが口を開く。
「俺はどうやら、……単純に、確かめてみたかったようだ」
「……え?」
 掛けられた言葉の意味をソウルが咀嚼するより前に、そのままキッドが一歩、歩を進める。近くなる互いの距離が、何故か強く意識される。
「お前のその、瞳の赤が、」
 言葉を途切らせ、じっと瞳を覗きこんだかと思うと、先ほどより少し冷えた指先でするりと頬を撫でる。いまひとつ、何を考えているのか判別がつかない友人の、しかし友人としては近すぎるその距離にソウルがたじろぐよりも早く。
「――甘そうだったから。つい」
 囁いて、年若い死神は誘いこむように妖しく笑んだ。その優雅にして蠱惑的でさえある笑みに、身体と一緒に思考まで固まってしまったソウルは、頬に添えられた冷ややかな感触が音もなく離れてゆくのを辛うじて認識した。

「そうだな。次は、…………」
 極めて平静な、仏頂面と言ってもいいような表情に戻ったキッドが、茫然自失の体で立ち尽くすソウルに何事かを呟く。
 その唇が形作った言葉が、風のように耳を抜けていく。何かとても重要なことを言っているようにも、まるで理解できぬ異国の呪いの言葉を並べているようにも思えて、ただ曖昧に頷く事しか出来ないソウルに、キッドは吐息のような小さな笑みを零す。そしてまるで何事も無かったかのように、ソウルに背を向けると校舎へと続く扉の向こうへ姿を消した。




「――寒、」
 気付けば日はとっくに落ちていて、身体も随分と冷えていた。誰も居ないテラスでひとり軽く身震いしたソウルは、どれぐらいの間、こうしてぼんやりとしていたのだろうか、と肩を窄めて二の腕のあたりを軽く擦り、鉛色の曇り空を見上げた。随分長い時間が過ぎたようにも、ほんの一瞬であったようにも思える。呪縛のように彼を絡め取った何かは、冬を思わせる冷たい北風とともに、跡形もなくどこかへ消え去ってしまったようだった。

 帰るか、とひとりごちて、首を回すと関節の鳴る音がした。それは刹那の緊張に身体が強張っていた証拠でもある。
(なにが、甘そう、だって?)
 その原因となったものが否応なしに思いだされて、キッドの言葉を頭の中で反芻する。あまり類を見ない色合いであるという自覚はあるが、そのような評価を受けたのは初めてだ。
「……ヘンな奴……」
 ごく一般的な形容で、かの死神を評して動揺をおさめようと努めてみる。けれど、褒め言葉の類には到底思えない彼の言葉は、しこりのように胸の奥に残ったまま消えてくれそうにはなかった。
 右の瞼にそっと触れてみる。涙は引き、すでに痛みもない。指の下、瞼を挟んで眼球の動きが小刻みに伝わってくる。
 実際、甘かったのだろうか。ふとそんなことを思う。そんな訳がないと分かっているのに、それでも気になってしまうのは、そんなところを他人に触れられたのだという、何か自分の内側を晒してしまったかのような気恥ずかしさの所為かもしれない。指先で触れる表面よりももっと奥の方、頭の芯のあたりが鈍く熱を孕んでいるような気がした。

 ヘンな奴、と再び小さく呟いて、深々と溜息をつく。その感想は確かに気にはなるが、どんな場面でそんなことを切り出せるというのか。下手につつけばまた何か、余計な厄介事を招きこんでしまいそうで――
(……待て、…………待て待て待て)
 何か重要なことを思い出しそうになって、出入り口へと向かいかけた足が止まる。去り際に、キッドは何か言い残しては行かなかったか?
(確か、…… 『次は、…………』)
 鼓膜の裏にその言葉が蘇った途端、漸くおさまりかけていた鼓動が、再び大きく胸を打った。
 キッドは、確かに言ったのだ。それは正にソウルが要望した通り、『次は、時と場所を選ぼう』、と。
 随分遅れてその意味を理解して、ソウルは思わずその場にしゃがみ込み、頭を抱える。敢えて前者二つだけを採択した意味は何だというんだ。『人』はすでに選んでいるとでも言うつもりだろうか。
「……おいおいおい、待ってくれ……」
 思考が困惑に染まる。あの死神がつまり、懲りもせずこのような戯れを仕掛けてくる気でいるのだということが。何より自分がそれを、決して不快に思ってはいないことが。
 瞼の裏の異物は除けども、胸に蟠る正体不明の感情はほどけず、しかしそれが不愉快ではなく、どころか――


 ――困る。断じて困る。
 過った思考を掻き消すように、がしがしと髪を掻き回す。
「こんなの、全っ然、COOLじゃねェ……!」
 何に悩むべきなのかもよく分からないまま、吐き捨てたソウルの悲壮なまでに滑稽な嘆きの言葉は、テラスを吹き過ぎた風に舞い上げられて、誰に届くことなく消えていくのだった。