と乙女



 背の高いポプラの木の、丁度影になった部分に二人掛けのベンチがある。
 死武専にいくつもある中庭のうち、教室棟から比較的遠く、こと静かなこの場所は、天気のいい日にお弁当を食べるカップルの姿があるか、或いは素行の悪い先輩が授業をサボって昼寝をしているところを目撃するか、らしいのだが。
 けれど彼女が、弓梓がこの場所を訪れる時、目にするのは決まって同じ風景だ。
 ひとりベンチに腰掛け、ぼんやりと中空を見上げている少女。早春の穏やかな風が吹き込み、緩く結った彼女のおさげを揺らす。眼帯をしているため左目は分からないが、少なくともその右目はなにも映していないように見える。




 休講になった午後のコマを、いつものように図書館へ赴き予習に充てようという気には何故かならなかった。なんとなく、そう、本当に『なんとなく』としか説明のできない思いで足の赴くままに訪れた中庭。マリー・ミョルニルの姿を見つけた時、またか、という倦んだ思いと同時に、やはりなというある種の諦念のようなものも頭を過ぎった。
「またですか」
 まるで呼ばれているかのようだと。
 そんなことを思いながら、梓は溜息を含んだ声をかける。EATとNOT、進学コースも違えば容姿も性格も趣味嗜好も、自分とまるで似た所の無い、むしろ正反対と言っていいこの先輩と、それでも何故かこうして縁が途切れることがないのはきっと、正反対であるから、なのだろうと梓は思っている
 彼女がここに居る時は大概が、恋を失った時だ。そしていつでも計ったようにその場面に出くわしてしまう、予期したかのようにこの場所に足を運んでしまう自分が、少し不思議でもある。

 いつもならここで、梓ぁぁ、と涙声のマリーの言葉が返ってくる。可愛らしい顔を涙でぐしゃぐしゃに汚して、梓の制服が鼻水まみれになるのも構わずに、取り縋っておいおいと泣く。意味をなさない怨嗟の言葉の羅列を、そうですね、今度は上手くいくといいですねと心のこもらない慰めの言葉で受け流しながら、梓がぽんぽんとその金髪を面倒くさそうに撫でる。そんな他愛ないやり取りは、まるで何かの儀式であるかのように、二人の間で幾度となく繰り返されてきた。
 筈だった。
「…………」
 呆けたような顔で、なにも聞こえていないような顔で、マリーは梓を振り向かない。
「…………こんどは、何処の彼です?」
 胸を過ぎった僅かな不安が、梓を早口にする。
「このあいだまで熱を上げていたデス・レコードのレジ打ち? デスバックスに新しく入ったウェイター? ……それとも、ちょっと気になるって言ってたNOTクラスの、」
 心当たりとおぼしき人物を、順繰りに述べていった梓の、存在自体に初めて気付いたかのよう、マリーはゆるゆるとした動作で振り向いた。
 虚ろな目をしている、と思う。ゆっくりと二度、瞬きをした彼女の唇が、

「――――、」

 形作った名前に、梓は自分の不安が的中したことを知らされた。彼女が口にした名を、梓も知っていた。
 だってその名前は。
 確か自分と同じEATクラスの。
 職人で。

「死んだって、聞いたわ」







 EATクラスに所属する一つ星の職人だった。職人としての能力は特に見るべきところはないと評した自分に、でもあの甘いマスクは好みなの、と言ったマリーの言葉を覚えていた。そんなに甘いですかね、と疑問を返したことを記憶していた。
 課外授業中の事故だったと聞いた。つい先程の話だ。午後の授業が休講になったのも、その関係であろうと思われた。
 ターゲットを仕留め損ねたのだとも、武器を庇って致命傷を負ったのだとも聞いた。いまはまだ、生徒の間を駆ける噂しか情報は無い。死武専全体が騒がしかった。全容は明日の全校朝礼で知らされるのかもしれない。

「梓、私、…………私ね」
 恋、ではなく。思い人そのものを失った彼女をなんと慰めるべきなのか。いやそもそも彼女の欲しているものは実の無い慰めの言葉なのだろうか。分からないまま立ち尽くす梓に、マリーはぽつりぽつりと呟くように言葉を紡いだ。
「私、誰かが死ぬだなんて、これっぽっちも考えたことなかった」
 声は震えてはいなかった。涙を流しさえしなかった。ただ、虚ろだった。すべての感情が抜け落ちてしまったような声で、彼女は言った。
「考えたこと、なかったの」
「……大概の生徒はそうです」
 ごく低い確率が、自分に当てはまると考えるものは少ない。ましてNOTに所属するものなら尚更だ。ふ、と吐息をついて、隣に腰を下ろした梓に、マリーは続けた。
「でも、梓はそうじゃないよね」
「そうですね」
 ごく平坦な調子で梓は応えた。EATに進学した以上、相応の覚悟はある。そのように教えられ、自ら学びとった。死とは決して遠くにあるものではない。自分達が神のお膝元にあるのと同じに、死とは己の傍らに常に寄りそうものであるのだと。
「……けれど、他者の喪失に慣れるわけではありません」
 課外授業で命を落とす生徒は、決して多くは無い。限りなくゼロに近付けるための受付承認があり、組織的なバックアップ体制がある。しかしそれでも、ゼロではない。決してゼロにはならない。
「EATから、NOTクラスへの移動がまた、あるかもしれませんね」
 死の冷たい指先を、肌で感じとった生徒たちの間には動揺が広がっている。死者が出た年には、EATクラスから極少数ではあるが必ず、いくらかの離脱者が出る。仕方のないことではあると思う反面で、その程度の覚悟でしかないのかと、呆れる思いもまた梓の中にあった。流石に今、そんなことを口に出すような空気ではなかったが。
「…………」
「泣いてもいいんですよ」
 黙ったままのマリーに、つとめて冷静な声で梓は続ける。
「悲しみを抑圧することで、傷はより深くなることもあります。……いつも貴方が実践しているじゃないですか。思い切り泣いて、抑えることなく存分に悲しんで、心の整理をすることも生きていく上では必要なことです」
「うん」
 頷いてみせた彼女が、ほんとうは何を考えているのか梓には分からなかった。
「マリー先輩?」
「梓。私ね」
 す、と一つ呼吸。何か重大な事を、告げようとしている気がして、梓は彼女の言葉を待った。
「EATに行こうと思う」
「……」
 言葉の意味を理解するまでにいくらかの間を要し、そしてその発言の意図を読み取るためにさらに時間を要した。敵討でもするつもりなのか。あるいはまさか、自棄になって。マリーの直情を知る梓が、そのように考えたのも自然なことだった。とにかく何か、短絡的な考えでそのような事を口にしたのではないか。
「先輩」
「? うん」
「貴方一人で守れるものなど、そう多くはありませんよ」
 そのような思考を排し、梓はもう一歩だけ退いた距離から彼女の心情をトレースした。守ると言ったのは何も、特定の誰かを、という意味ではない。もっと大きな、目に見えぬ流れに、突き動かされ彼女は『いま何かを成すべき』という使命感に囚われたのではないか。
 そんな思いでマリーを見据える。梓の、レンズ越しの真摯な目を、しばしじっと見つめ返したあと、マリーはゆるく首を振った。
「そんな、大層な話じゃないわ。EATなら、腕の立つ子はいっぱいいるじゃない。魔武器が一人ぐらい増えたとこで、何が変わるわけでもないし」
「じゃあ何故、いまになって?」
「…………次は、強い人を、好きになろうと思って」
 いい考えでしょ、と言った唇が、妙な形に歪んだ。笑おうとして失敗したのだろうと、推察して梓は口を噤んだ。彼女の発言を、不真面目だとも不謹慎だとも言わなかった。言えなかった。
 チチ、という小鳥のさえずる音が聞こえ、あたたかな陽が射す中庭に、風が流れポプラの枝を揺らした。校内の喧騒とはまるで無縁に思えるこの場所で。ただ一人彼女は、ひそやかに弔ったのだろう。失われた一つの命を。そして宛先を失った、自らの想いを。

 その思いに沿うよう、しばし瞑目した梓は、やがてその瞼を上げ、静かに口を開いた。
「いいんじゃないですか」
「反対、しないんだ?」
「ええ。ただ、初恋は実らないとよく言いますが」
 一瞬きょとんとした顔になった、マリーの顔にじわと血が上ったのは、照れの為だろうか、それとも怒りの為だろうか。形になるより前に、淡く消えさった初めての恋について、うっかり話してしまった事をマリーがずっと後悔しているのを、梓は知っていた。その相手は確かに、いまはEATクラスに所属してはいるが。
「ちっが、…………全っ然違うわよ! そりゃ確かに、あいつは馬鹿みたいに強いけど!」
「ええ、そうでしょうね。冗談です」
「…………梓ちゃん……アンタ…………」
 ジト目で睨みつけてくるマリーには気付かぬ振りで、コホンと咳払いして、仕切り直すように梓は言った。
「反対する理由はありません。貴方の様な希有な才能を、NOTで眠らせておくのは惜しいことだと常々思っていましたし、……ただ」
パートナーはどうするのか、と聞かれマリーの眉は途端に八の字に下がる。
「あ〜〜……」
「大変言いにくい事ですが、マリーさんはともかく彼にはEATとして戦えるだけの適正はありません」
 委員長然とした仕草で、押し上げた梓の眼鏡に、木漏れ日がきらりと反射した。
「全く言いにくそうじゃないけど」
「仕方ありません、真実ですから」
「んー。いい機会だから別れっかなー。なーんか最近、上手くいってなかったしー」
 軽い口調で言った、マリーの言葉は半分嘘だ。彼女はパートナーとは決して不仲ではなかった。
 命を預かるにも預けるにも足りない相手ならば、ここでの別れは必然だ。けれどそれ以上に、今の彼女は恐れているのだろう。近しきものの、――喪失を。
 言葉にはしないそんな本心を、梓はおぼろげに察した。『強い人』を。自分を残して逝かぬ者を、愛したいのだと言った彼女を、責めることができようか。

「なら、まずは編入の諸手続きを進めなければいけませんね」
「え?」
「……なんです、その顔。まさか顔パスでそのままEATに入れるだなんて、思ってませんよね?」
「そ、そんなワケなじゃない。知ってるわよ、試験とかー、……なんか色々あるんでしょ?」
「ええ、『色々』。まず必要書類の提出、それぞれの学科への届出と死神様への誓約書を作成する必要があります。一つでも不備があれば再作成になりますから注意してください。詳しくは受け付けのおばさまに伺うといいでしょう。試験は実技と筆記とで日程と担当教官が異なります。調整をつけるため、早めに動くにこしたことはありません。それと」
 必要項目を指折り数え始めた、梓にマリーはげんなりした顔で「はいはい」と答えた。
「一人でそんなにこなせない〜。手伝ってよ〜、梓〜」
「それが人にものを頼む態度ですか」
「お願い、神様仏様委員長様っ!」
 手を合わせて拝みこむマリーに、やれやれと梓は疲れた吐息を零した。
「………………試験勉強ぐらいなら、付き合いますよ」
「さっすが梓ちゃん! 頼りにしてる!」
 がばと抱きつかれて息が詰まる。苦しいから離して下さいと、もがく梓をしばらく強烈にハグしていたマリーの腕がふと緩む。
 肩に額を押し当てる仕草に、いつものよう泣くのかと思った。けれどマリーの肩は震えることなく、梓の肩口が涙で濡れることもなかった。
「……ありがとね、梓」
 やがて小さく囁かれた言葉に、一瞬の間のあと頷いて、梓はいつもするよう彼女の細い肩を抱き、金髪をそっと撫でた。
「先輩は、強いですね」
「ええー、なにそれ」
「思った事を言ったまでです」
「……ん〜、褒められてんの? …………でもあんまり、『強い女』って嬉しくないかもー」
「そうですか」
 どこか不満げなマリーの言葉をさらりと流して、髪を撫でる手は止めず、思う。
 この人は、強い。傷つきそして癒える度、もっと強くなるのだろう。
 そう告げれば、今度はマリーはあからさまに嫌な顔をした。
「ええ〜。そんなのヤダ〜」
「良いことじゃないですか」
「いい? 梓。女の子ってのはね、男に守られてナンボの生き物なのよ?」
「それは随分とまた、時代錯誤な考え方で」
「だって、だって『君は強いね』なんて別れの常套句っていうかさァ…………あっ。でも、可愛い後輩ぐらいなら、守ったげてもいいわ」
 がばと顔を上げたマリーの、目にはしっかりと生気が戻っている。死に囚われる虚ろな目ではなく、生に向かおうとするものの目だ。それが、確かに感じられて。
「アリガトウゴザイマス」
「えーっ。全然心がこもってないーっ」
「……さて。取り敢えず、書類を取りに行きましょうか、受付まで」
「連れてってくれるの?」
「一人で辿りつけるんですか?」
「…………お願いしまーっす♪」
 その極度の方向音痴はいいかげんなんとかならないんですかと、呆れながらベンチから腰を上げた梓に、応えてマリーが微笑む。ようやくいつもの調子に戻りつつある空気に、内心で安堵して、梓は再び小さく溜息を零した。