Ontologie


01

 実践授業、と一口に言っても死武専では戦闘技術を教えるのみではない。戦闘に伴う負傷、或いは巻き込まれた一般人の救助、蘇生、応急処置。災害時を想定した一次救命処置演習なども教え込まれる。
「…………が、真面目に授業を受けているのはいつも、椿ばかりだな」
 どこに居ても目立つ水色のツンツン髪が、今日もやはり見当たらないことを確認して、苦い顔で溜息を吐いたキッドに、椿は少し困ったように笑ってみせた。

 ナイグスの急な招集のため『自習』となったその日の授業は、基礎的な応急救護法の復習に充てられた。
 得意の体育実技が座学に変更、しかも一度習った内容の反復講習と言われればあのブラック☆スターの事だ、『めんどくせぇ』の一言で抜け出ていったのであろうことは想像に難くなかった。
「適材適所……って、言うのかな?」
「ま、あいつはこういう救護活動より、瓦礫でもフッ飛ばしてた方が役に立つだろうしね」
 サボりのブラック☆スターに代わりに椿のパートナーを努めるマカが、腕に包帯を巻かれながら言う。
「あ、でもね。救護とはちょっと違うけど、薬になる野草とか、食用に適した虫とかそういう知識はびっくりするぐらい豊富なのよ。昔、シド先生と」
「……サバイバル訓練って称してどっかの密林に放り込まれた話でしょ? それ、何回も聞いた」
 もう惚気話の域だよねと肩を竦めてみせるマカ。そうだったかしら、と照れくさそうに言う椿。楽しげに笑いあう女子二人に、和やかな空気を感じていたキッドは「おい」と機嫌の悪い声で呼ばれ、はっとして振り返った。
 仏頂面をしたソウルの視線が、キッドの手元に注がれている。骨折箇所に添える副木、の固定のため八つ折りにする途中の工程で、放置されている三角巾。
「ま……待ってくれ。……どうしても、折る時に布端が0.1ミリずれてしまって……」
「………………」
 在る程度は予想の範囲内であったか、ああそう、と言ったきりソウルは言葉を切った。ふざけるなともいい加減にしろとも、言わず疲れたように息を吐く。心なしか、流れる空気はいつもより、重い。
 あちらとは大違いだな、と椿達の方にちらと目を遣り、キッドもまた、心の裡で溜息をつく。彼のパートナーであるマカが椿と組み、自らのパートナー二人が組になれば即ち、あぶれ者同士の組み合わせが出来あがるのは必然だった。


(それにしても、……)
 八つ折り三角巾の、ミリ単位でのずれを修正しながら、キッドはソウルの表情を盗み見る。
 タイミングが悪いと言うべきか。ソウルとはあの体育倉庫以来、まともに会話も交わしていない。
 おはようと声をかければ、おう、と返事は返ってくる。パートナー達を交え昼食を共にする時もある。でもそれだけだ。目を合わせればすぐに逸らされ、話しかけようとすれば何のかんのと理由をつけて距離を取られる。機会がなかったというよりは、あからさまに避けられている。気のせいではないだろう。
 今もそうだ。二人の間には、気まずい沈黙だけがある。無言の時間はその密度が無駄に意識され、息苦しくさえ思える。これまでには感じなかった空気だ。
 どうすれば、いつも通りにしていられるのか。そう思ってしまってから、そのような考えこそが異質なのだと気付いてキッドは折り上がった三角巾をもう一度、掌でなぞってぴしりと折り目をつけた。
「すまん」
 ぐだぐだと、実の無い思考だけを巡らせるのは性に合わなかった。
 言うべき事を言って、終わらせてしまうべきだ。寧ろこれは、良い機会だと言えるのではないか?
 そんな事を考えながら、言ってキッドは折り上げた束をソウルに差し出した。ぱらぱらと手持無沙汰に教本を捲っていた、ソウルが顔を上げる。向けられた視線には、どことなく険しさがある。
 受け渡しの瞬間、軽く指が触れそうになって、
「……っ、」
 一瞬、躊躇ったのが分かった。
 ほんの僅かな接触にさえ、抵抗があるほどなのか。
 息が詰まる。差し出した手を、引っ込めそうになって、堪えた。胸の奥のあたりがなにか、締め付けられるような苦しさを覚える。
 一度は退いたソウルの指が、再び伸ばされる。受け取ると言うより、奪い取るような乱暴さがあったのは、気まずさを誤魔化すためかもしれない。
「別に、…………いつものことだろ」
 お前のシンメトリー病なんてよ、と面倒臭そうに言って空笑いするソウルの手の中で、八つ折りの三角巾は苦心して合わせた布端もきっちりとつけた折り目も、全てくしゃりと歪んでしまっていた。
「……そう、じゃない」
 ぐ、と拳を握る。いつもなら、美しいバランスが台無しだと怒鳴っていたかもしれないが、それよりも今は、胸の苦しさを耐える事の方に苦心した。崩れてしまったバランスは、三角巾の折り目だけではない。どうやら自分で思っている以上に、彼の拒絶は精神に堪えているようだった。
「先日のことだ」
「……」
 まるで聞こえていなかったかのように、ソウルはキッドの左腕を取った。ハンカチを当てたのは、教本通りの止血手当をするためだ。頁を捲り、手順を目で追いながら、傷と想定する部分を圧迫するその手に、やや不自然に力がこもる。
「えー、『ショック症状の見分け方』は、――」
「ソウル」
 先程より強い調子で呼べば、わざとらしく教本を読み上げるソウルの声が途切れる。文字列を追う目線の動きが止まる。かといって、こちらを向くでもない。
 聞こえていないわけではない、――聞こうと言う姿勢を、見せないだけだ。
「作業しながらでいい、…………聞いてくれ」
 そのことに、腹立たしさよりも辛さが上回った。
「悪かったと、思っている。お前には、無理を強いた」
 のろのろと、顔を上げたソウルと、対照的にキッドの視線は床に落ちた。目を見て話す、という最低限の礼儀を、守ることが今は苦しかった。
「責める訳じゃない。得体の知れぬものへ感じる不快感は、消すことのできない本能的なものだと、分かっている」
 暗闇を恐れるのと同じだ、とキッドは言って、やや自嘲的に笑った。五感で知覚できぬものを恐れる、それは人間の持つ根源的な恐怖だ。古今東西数多の宗教の中心神が、光の化身であることを見てもわかる。古代より綿々と続く営みのなかで、人は常に不安からの救済を求め、闇を嫌い光へと手を伸ばしてきたのだ。
「…………、意味が、よく分かんねェけど」
「死神の身体に触れてお前は、気持ちが悪いと感じたのだろう」
 思ったまま、ストレートに言葉にすれば、左腕を掴んでいたソウルの手がぴくりと反応した。
 人と同じに脈もある、血管も透かして見えるその腕の、皮一枚下に何が潜むのか、――――そう、思うのかも、しれない。
 死とは、生の裏側に出来る影だ。
 決して切り離すことはできないものだと、理解していても人は後ろを振り向きたがらない。それがなんであるのかを見たがらない。
(…………死を、闇だと捉えるものもある)
 武器は基本的に感受性が鋭い。
 そして自分は生と死とを司るものだ。
 普段、概念的にしか捉えられぬ『死』というものに、触れた魔武器が闇の領域を強く感じとり、それに怖気を覚えた。そう考えることは、なんら不自然ではなかった。

「謝りたいと、思っていた。…………不快な思いをさせて、すまない」
 とりあえずは、言いきった。
 キッドは大きく息を吐いた。多少の安堵がある。自己満足だと、言えるかもしれない。ただ己の気持ちを伝えたかっただけだ。裡に溜まったものを、吐き出してしまいたかっただけだ。
 伏せた眼を上げる勇気が足りない。無言を貫いたままのソウルの、顔を真っ直ぐに見るのが少し、怖い。
(――……それでも、)
 それでも。このままで、こんな曖昧な状態のままで、居たくはない。
 強く意志を持ち、顔を上げる。思いつめたような顔を、していたのだろうか。目を合わせたソウルは、少し怯んだような様子を見せた。
「……………………別に」
 ほんの数秒の沈黙を、崩したのはソウルからだった。そういう訳じゃない、と呟くように言って彼は再び目を逸らし、中途だった作業を再開した。
「気持ち悪ィとかじゃない」
 言いながら、布を乗せた副木をキッドの腕に添え、先程の八つ折り三角巾で固定する。骨折の場合の応急処置だ。
 口を動かすより、手を動かすことで何かを紛らせようとしているようにも見えた。言葉の意味を問いかえすでもなく、キッドも無言で視線を落とす。全くと言っていい程シンメトリーではなかったが、結び目はきつ過ぎず、作業は的確で素早かった。
 手慣れているな、と思った。そのまま口にすれば、「まあな」とソウルは返した。
「入学したての頃にそりゃもうみっちりやらされたし、……そうでなくても、生傷打撲は日常茶飯事だったしな」
「ああ、」
 自らの事ではなく、パートナーの話だろう。最近はマシんなったけどよ、とマカの方を見た赤い瞳は、そのまま二人の過去をも重ねるのだろう、懐旧の情が滲んでいた。
「実践に勝る理屈なし、ということか」
「だァな」
 先程までの固い表情が、少し柔らかくなる。空気の緊張がやや緩む。胸の奥にしこりのように残る違和感が、薄らぐのが分かる。
「…………その。あん時は、途中で帰っちまって、悪かった」
「いや、……」
 いいんだ、と言いながら、キッドは小さく微笑む。自然に言葉を交わし、何気なく笑いあえているというただそれだけの事が、やけに嬉しく思えるのが、不思議だった。


「ん」
「ん?」
 処置の終わった左腕を、確認し終えたキッドが、すっと差し出した右腕にソウルは首を傾げる。
 無言の三秒と、アイコンタクト。
「…………あー……」
 それで何事かを理解して、ソウルは盛大に溜息をついた。はいはいシンメトリーな、と察して副木を手にしたソウルに、「うむ」とキッドは満足げに頷いてみせた。