ただの秘密 




 帰り路に過ぎる、通りに面した小さな公園は、夕刻ともなると遊ぶ子供らの姿も消え、人気が無く静かなものだった。風に揺られてざわめく木々の葉擦れの音に混じって、キィと遊具の軋む音が辺りに静かに響く。
「……たまには童心に帰ってブランコでも?」
 無意識に足を止めていた。三歩ほど先を歩いていたソウルが俺を振り返り、その視線を辿ったあと、冗談ともつかない風で言って微かに笑う。
「そうだな」
 応えれば、え、マジで、と自ら提案したくせに驚いたような声が返ってきた。
「ブランコは、三半規管の機能強化と平衡感覚の向上に役に立つそうだぞ」
「?」
 怪訝な顔をしたソウルに追いついた俺は、そのまま歩を進め公園に寄るつもりはないのだという事を彼に示した。
 遊具に興じるつもりではなかったが、関連して少し思いだしたことはあった。
「加速度病、……所謂、乗物酔いの予防対策に、な」
 そこまで言ってやっと意図を汲みとったのか、訝しげであった赤い瞳には、僅かに苦い色が加わった。


 いつかの遊園地で、乗車した絶叫マシンは結局四つ目でソウルが根を上げた。
 なるべく高低差の激しい、より恐怖感を煽るような物を意図的に選んでいたところはあった。それは列を成すほど人を惹きつけてやまないそのアミューズメント・ライドに、単純に興味があったというのもあるが、それだけの話でもない。
 重力に縛られる人の身には、空中での運動は「自在」というには程遠いものだ。姿勢維持、転回に要する労力は地上での場合よりもずっと大きく、その運動は極めて制限されたものになる。
 ソウルはジャクリーンのよう飛行のための能力を持っている訳ではない。ただ、彼のパートナーであるマカの魂が、極めて珍しい特性を持っている以上、いずれ何らかの形でソウルがそういった力を会得する可能性は充分にあり得るだろう。受動運動と能動運動との差はあれど、浮遊感と緩急の激しい揺れ、加速減速横G等に対して耐性を付けておくのは悪い事ではないだろうとも思ったのだ、あの時は。

 元々のコンディションが思わしくなかったのだと、言い訳めいたことを述べたソウルは、傍から見ても明らかなほどにぐったりとしていた。高所恐怖は無いようだが、大方、普段からの体調管理がなっていない所為だろう。
 だらしがないなとも、あまり心配をかけさせるなとも思い、けれどそう言ってしまうのも酷な気がして言わずにおいた。結局、それは彼が俺の希望を全て通したが故の結果でもあったから、多少は気が咎めたのだ。

「……そんな事あったっけか」
 目を伏せ、きまり悪そうに頭を掻く。あのデートから、そう経ってはいない。本当に忘れたわけではないのだろうが、しかしどうやらソウルにとってあの時の失態は,、思い出したくないもののひとつに入るらしい。
 常日頃の意趣返しの意味を込めて、「もう忘れたのか?」と話を切り上げようとするソウルを追撃した。
 健忘まで加わるとは厄介だな、ほらお前がアトラクションを降りて青い顔をしてた時があったじゃないか、何なら写真でも見れば思いだすか。そう言ってやれば、機嫌の悪そうなじとりとした視線でこちらを見ていたソウルの瞳が、訝しげに細められる。
「……写真?」
「撮られただろ」
「…………! 買ったのかよ!」
 一瞬の間を置いて、驚愕へと表情を変化させた彼に、無論だと応えた。ソウルは暫しその真偽を判別するように俺を凝視し、やがて言葉を探して開きっぱなしだった口からは「何でまた」と、理解できないと言いたげな呟きが漏れた。

 最高所から傾斜を走り下りる瞬間の、所謂、絶叫ポイントと呼ばれる場所で撮影された写真を、降車時に購入するのがスリルライドの定番らしい。
 随分と青い顔をして、覚束ない足つきで先に行ってしまったソウルの代わりに、折角だからと一枚買い求めておいたのだが、そういえばあの写真も白紙のレポート用紙の束と共に机の引き出しに仕舞ったままだ。
 二人で撮った写真、と言えなくもないから、ソウルに譲渡しても構わない物ではある。色々とあって切り出す機会が無かった、というのも勿論あったが、
「……買うかァ。よりもによって、アレを」
 それが彼にとって好ましいものではないということは、声の調子からもはっきりと分かる。こういう反応をされる事が目に見えていたから、敢えて黙っていたという所も、無くはない。
 さして面白くもなさそうな顔をした俺と、隣に座るのはお世辞にもアトラクションを楽しんでいるとは言い難い様子の、明らかに顔色の悪いソウル。二人とも正面からの突風を受けて髪は派手に乱れているし、まあ正直とても人に見せられたような写真ではなかったのは確かだ。
 けれど重ねる時間と積もりゆく思いと、全てはいずれ変容し失われ、だから人は記憶を記録として残すのだろう。いつか過去に思いを馳せる時、印画紙に焼きついた光景はきっと、感傷だけではなく笑みを引き出すものとなるのだろうから。

「いい記念じゃないか。狙っても撮れるものじゃない、あんな顔は」
 うん、記念だ。
 その言葉の響きが気にいって、少し口元を緩めた俺に、ソウルの恨めしげな視線が刺さる。
「記念って、……だったら、もうちっとマシなのにしろよ。あんな、COOLじゃねェやつを何で、」
「だからいいんだ」
 言葉を途中で遮られる形になったソウルが、何かを問いかけようと再び口を開きかける。その鮮やかな赤い双眸を、無言で覗きこむ。
「……、……?」
 じっと見詰められて、一瞬怯んだソウルに、満面の笑みで応えてみせる。いくつもの疑問符を抱えていたはずの彼はそれで完全に気を削がれ、唖然とした様子でその場に立ち尽くした。
 クールを気取どっているくせに、その実、己の予想範疇外の事態に存外弱い所がある。それも最近になって知ったことの一つだった。
 そのままソウルに背を向け、彼と距離を取るように、足早に公園の横を過ぎる。
「ちょ、……キッドッ」
 しばし間を置いて、名を呼ぶ声と、小走りに近づいてくるソウルの足音。
 口元を隠す様に抑える。追いつかれる前に収めなければと思うのに、どうにも笑みが零れて止まらない。
 思い出すのはあの写真の、直下降の衝撃に備えて引き攣った彼の顔。そんな情けない表情だって、――俺しか知らないものだと思うと。これもまた二人で重ねる秘密のひとつなのだと、愛しく思えるんだ、なんて。

 言えないのだ、いまは、まだ。




[end.]


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