「………………気ィ済んだか」
呆れを通り越して愉快でさえある。優れた資質を持ちながら周囲の妬みを買わぬのも、時折見せるその奇妙な行動のせいでもあるのだろうと思うと、得な性分だなとも思えた。苦笑いしながら足から解いてやっていたソウルに「ああ、つい」とキッドは自分の左右の腕を交互に見比べた。
「なにかこう、物珍しくて」
「? ……珍しい?」
応急処置など基本中の基本、NOTクラスのものでさえ、かなり初期の段階で習うものであるはずだが。疑問に声を上げたソウルに、ああ、とキッドは頷いてみせた。
「授業としてはこれが初めてだった」
無論、知識としてはあったが、と続けたキッドに、なるほどとソウルは合点の入った顔をした。キッドは年度途中での編入だった。いくつかの基礎課程は、教本のみで実習を飛ばしている部分もあったのだろう。
「実際、こういった処置を施すことはあっても、自分がされることはあまりない」
「ああ……、」
「必要がないからな」
きっぱりと言いきるキッドに、なんと返すべきかを迷う。
任務の最中に負う様々の傷、決して浅くは無い切創が、気が付けば綺麗に治癒していたのをソウルも何度か目の当たりにしたことがある。
それは例え肉が裂け骨が砕ける程のものであろうと、きっと変わらぬのだろう。
『死神の身体』。
手練揃い、常人離れした身体能力を持つものばかりのEATにあってなお、その修復能力は異色、正しく人智を超えたものであると言っていい。
「………………」
否、そもそもの存在自体が。
ちらと頭を過ぎった考えを、振り払うようソウルは頭を振った。目の前の『これ』は、人とは次元の異なるシステムで動いているものなのだと。分かりきった事ではあったとしても、言葉にしてしまうことに、何故か抵抗があった。
「……必要ない、か」
教本を閉じ、使用した講習教材を片付けながら、ぼそりと呟く。なかば無意識的なそれに、反応してキッドの目線がソウルを捉えた。
「………………、処置訓練が不要だと言っている訳ではない」
誤解を招いたと思ったのかもしれない。己の言葉を補足するキッドの、言葉はいつもよりほんの少しだけ早口だった。
「知識に無駄なものなどない。技術は実践してこそ身につくものだ。簡易な応急処置といえど、それによって生死を分ける場合もなくはないだろう。……ただ、俺自身がそれを受けることは、無いだろうと思うだけだ」
正論だ。非の打ち所のない模範解答に、片眉だけ上げて応じる。
言いたいことは分かっている。人より多少頑丈だという自覚があるからこそ、彼は後方からの援護よりも前線で戦う事を良しとするし、しばしば己の身を盾にして他者を庇おうとするのだろう。それこそ多少の傷がつこうと、手当など『不要な』身であるから。
引っかかるものを、感じるのは何故だ。やっかみなのだろうか。それは人の身からはあまりに遠い、神、という決して手の届かない存在に対しての、くだらない劣等感か。
(……そう、じゃない、)
明確には表し難い、胸に蟠るなにか。もしかすると、あの薄暗い体育倉庫でキッドに背を向けた時からずっと、引き摺っているものの一つ、なのかもしれない。
苛々とした衝動に押されるよう、言葉は口を衝いて出た。
「俺さ」
声が固いのが自分でも分かる。言わなくてもいい事を、言ってしまいそうな予感が、なんとなくした。
「お前のそういう言い方、なんか好きじゃねーなァと思うんだけど」
「? ……何のことだ」
キッドの声音が疑問を孕み、目は困惑を示して微かに揺れた。それはそうだろう、とソウルは思う。先日から続く妙な空気は、半ば払拭されたと言っていい。それは変化を読み取りそして関係を修復しようという意志、己ではなくキッドの努力によるものだ。感謝こそすれ、その気持ちを無にするような真似は、本意ではない。
それでも言わずにいられなかった。なぜこんな些細なことに、こんなにも我慢がきかないのか、妙にクールになれない理由はよく分からなかった。
「時々言うじゃねーか、死神の身体がどうのこうのっていう」
「ああ、」
それがどうしたと、言いかけたキッドの言葉を遮るように続ける。
「武器は職人を守る。……パートナーが自分より数段頑丈な、まず絶対に死にそうもねェそれこそ神サマだったとしても」
言いながらソウルの目が、トンプソン姉妹の姿をちらと見た。包帯をぐるぐると無駄に巻いているのは、アヌビスのミイラを再現しているのかもしれない。
「あいつらはそうする、絶対」
「……」
無言は即ち肯定だった。彼女らだけではない。死武専に属するものなら誰しもが、己の身を呈してパートナーを守る。デスサイズを筆頭とするデスサイズスも無論、いざという時には死神様の前に立つのだろう。
「…………もし俺が。デスサイズになったとしても、きっと同じだ」
「ソウル、」
何か言いたげな声音で名を呼ばれ、ソウルはゆるゆるとキッドに視線を合わせた。
己が主の剣であり盾。それが魔武器、それがデスサイズというものだ。
だがそれも、真実の一欠片でしかない。
「特別扱いなんかしやしねェよ、誰も。パートナーだろ。…………仲間、だろ」
だから守る。ただそれだけだ。強者であるなら、周囲の誰よりも痛みに耐えられるなら、傷付いてもかまわないなどという理屈は、少なくとも此処には存在しない、筈だ。例えそれが、自分より遥かに高い強度と性能をもつこの神様だったとしても。それがいかに非効率で、無謀とも思える行動だったとしても。
(ああ、そうか)
理解する。きっとそうするだろうと、分かっているからこそ彼の言動に苛立ちを覚えるのだ。遠まわしに自分達を、――自分の真情を、排除されているような気がして。
やっかみと言えばそうかもしれない。それは彼の言葉の端々に見える、神と人との境界線に。自らが寄る辺とされるに足る存在ではないと、感じとっての不満、単純に言ってしまえば拗ねているだけなのだと。
吐露するには少し気恥かしい心情を、どう表したものかと言葉に迷うソウルを、じっと見据えた金色の瞳は、微かなやるせなさを帯びて、静かに伏せられた。
「すまない」
「……え、」
不意を突かれて、漏れ出た声がひどく間抜けに響いた。何に対しての謝罪かと、問う視線に答える様に、キッドは逸らした視線を再びソウルへと戻した。
「そのようなつもりは、無かったのだが。自分だけが特別だという考えが、無意識に顕れていたのかもしれない、…………そうか。そんな俺の中の驕りに、気付いておまえは怒っていたのか?」
「…………いや、それは」
「こんなことを言うと、呆れられるかもしれないが、」
言いながら、ソウルを見据えるキッドの瞳は曇りがなく、幼い子供のように真っ直ぐだった。それは受け止める側が、気圧されるほどに。
「自分の未熟さが恥ずかしいと、思うと同時に嬉しくも思う。一人では気付き得ぬ事を、気付かせてくれるものがある。若輩たる己を、支える仲間があることを」
次第に言葉が熱を帯びてくる。思わぬ方向へ転がっていく話にたじろぐうち、じりじりと距離を詰められ、挙句しっかと手を握られて、ソウルはぎょっとしたような顔で彼を見た。
「おい、ちょ、」
「何度でも詫びよう。どうか、俺の浅慮を許してほしい」
「…………いやあの、手……」
まるで祈りでも捧げるかのように、ソウルの手を両手でしっかりとホールドしたキッドは、支え合い、調和することの重要性を重ねて語る。
授業の終わりを知らせるチャイムは、一体いつ鳴るのだろうか。簡単な実習レポートも書き終えお喋りに興じる者、一足早く食堂へと向かうため既に席を立つ者と、教室内は決して静かでは無かった。それでも、キッドの熱弁は周囲の生徒の耳目を引くに十分なボリュームがある。
何事かと注がれる視線の半分は、どうせまたいつもの左右対称論だろうと結論付けたか、助けを求めるような目をしたソウルに憐れみの一瞥をくれてふいと逸らされた。下手に触って巻き添えを食らいたくないという考えは同様か、残りの半分は遠巻きに成り行きを見守るだけだ。くすくすと、小さく笑う声が耳に痛い。
(てか、制御役!)
勢いに押されながら周囲を見渡す。本来彼を諌める役目を負う筈の、姉妹の姿を探すソウルの目が、丁度教室を出ようとする女生徒の一団を捉えた。
「おい待て! コラッ! 置いてくな!!」
「あー、席取っといてやるから心配すんなって」
「キッド君につきあってたら、お昼食べ損ねちゃうしネ!」
キャハハとパティが笑い、あと宜しくとリズはひらひら手を振る。椿が申し訳なさげな顔で小さく頭を下げ、マカはといえば意味ありげな流し目をくれたのみだ。何が言いたいのか。何を知っているのか。後で問い詰めるべきか、それとも触れずにおくのが我が身のためか。
「な、なあ、キッド?」
ともかく、頼れそうなものは何もない。自力でこの状況を脱出せざるを得なくなったソウルは、引き攣った笑みをキッドに向けた。早いところ話を切り上げて、まずは早急にこの手を離してほしい。重ねた掌の滑らかな質感を、決して高くはない体温を、感じるほどに焦りが募る。それは今日まで必死に忘れようと努めていた何かを、――――あの薄暗い体育倉庫での一件を、思い起こさせるような気がして。
「――……すまん、話が長くなったな。簡潔に言えばつまり、」
話の終わりが近いことを感じ取り、じわじわと嫌な予感に支配されつつあったソウルの表情がほっと緩む。このまま席を立ち、他愛ない世間話など交わしながら、マカ達と合流して昼食を取る。それで何もかも元通り、何事も無かったようにこれまでと同じ日常の延長を、紡ぎ直して行ける筈なのだと。
「不甲斐ない俺を支えて欲しい、できることなら、いつまでも!」
「っ?!」
――――そのようなソウルの希望的観測は、チャイムの音と同時に告げられたキッドの言葉によって打ち砕かれた。
思考が固まる。身体が強張る。息が詰まり、心臓の拍動が自分で感じられる程に動悸がする。完全な不意打ちをくらって、それまで感じていた蟠りも折角導き出した結論も、一切が吹き飛んでしまった。
半ばショートした頭で考える。今、こいつは、何と言った?
“いつまでも、傍にいて欲しい”
彼の立場と、これまでの行動言動とを冷静に考えれば、それは多少オーバーな友愛の表現、おかしな言葉では無いと、思えた筈だった。そう、クールになって考えることさえできれば。
けれど今は。戯れに肌を合わせ、その柔らかさに妙な罪悪感さえ感じてしまった今では。目の前のこの友人を、友人としてではなく意識してしまいそうになった今では。熱烈に手を握られ、きらきらとした瞳で真摯に見詰められ、懇願するようにそんな事を、言われてしまうと――――
「……」
「? ……ソウル? ………………おい、」
キッドの訝しげな声も、最早届かない。今まさに、彼の裡では感情の激しい揺らぎが、その言葉を『未来の死神からデスサイズへの要請』として捉えようとする理性と、『そうではない意味』で捉えたがる衝動とのぶつかり合いが、巻き起こっているのだと。
「ソウル、………………うむ……」
知る由もないキッドは、固まったまま動かなくなってしまった友人を前に、また自分は何か失言をしてしまったのではないかと少し落ち込んだ表情を見せ、途方に暮れたようにひとつ、溜息をついたのだった。