12.正義の天秤 ――Sacrifice judgment――
いかに長年生きた者でもその英知には不備がある。
「…………毒、じゃよなぁ?」
しかし長く生きる者はそれを自覚することも出来れば、そこから何かを推察することもできた。
オックスには王都で医学を誰よりも学んできたはずだという自負があるし、
それ故に彼の病理知識が思い当たらないならばそれは疾病ではないのだろうとも。
「しかし、毒とはのぅ……まぁ、思い当たるところもあるにはあるか……?」
ティアナの額に乗せた布を取り替える。
荒い呼吸を繰り返す彼女の熱は、つい先程湿らせたばかりの布をすでに暖めていた。
布を水に浸しながら、彼女の穏やかではない寝顔を横目にオックスが微かに呟く。
「儂もたまには気合入れて頑張らないといかんって事じゃな。
さて、となると何から手をつけたものじゃろ?」
問いかける口調に反してその目に迷いの色は無い。己の為すべきを、既に老人は見出していた。
足音が階段を下る。
人の居ない広大な空間は、何の変哲も無い靴音を長く吸い込んで厳かな余韻へと変えていく。
だが足音を立てるレザミア本人にしてみれば、その余韻も聞きなれた音の一つに過ぎない。
足音が階段を下り終えた直後、見るからに堅牢な鉄扉の前で止まった。
その鉄扉に鍵を差込むと、開けると言うよりは押しのけるようにして中へと入る。
開いた隙間から流れてくる空気は使用頻度の低さ故か、埃臭さが鼻についた。
取り立てて気分の良い匂いでは無いが、此処が牢獄であることを考えればそう酷いものでもない。
使われない牢獄、戦わない騎士。どちらも無用となるに越した事は無いのだ。
「……飯にしちゃ早ぇな。何の用だ」
牢獄の奥から声が響く。日頃は空席の牢獄にも今は拘留者が居た。数日前にホッフルで暴れた男だ。
「貴方が短刀に仕込んでいた毒。あれが何なのか教えてもらうわ」
「身の覚えが無いな。毒って何のことだ?」
とぼけた口調で男が即答する。だが本当に知らないのならば、却って人は即答できない。
つまり、ただでは教えてやらない、という言外の主張だ。
「時間を浪費するのは、互いに無駄なことだと思うけど?」
「わーかったわかった。俺も無駄なことは大っ嫌いだ。
でも、世の中『教えてください』『はいどうぞ』って簡単にいくもんでもねぇよな?」
男の優位を確信した表情に、レザミアは嘆息を一つ。制服の胸ポケットから鍵束を取り出して、牢屋の鉄格子を開けた。
だが男の身が自由になるにはまだ足りない。その足に科せられた枷を外さなければ、鉄格子の開閉に大きな意味は無い。
だが男が何かを訴えるよりも早く、レザミアは鍵を手に男へと近づいた。
「女の癖に話が分かるじゃねぇか。あんたみたいな美人は大抵、頭が切れるのと難癖つけるのを勘違いしてる奴ばかりで――」
上機嫌で語る男を、レザミアの左足が鋭い蹴りで黙らせる。
完璧な不意打ちに膝の力を失った男が倒れこむ。その背へ突き刺すように、冷徹な言葉が降りかかった。
「私と交渉しようだなんて……何を勘違いしてるのかしら。貴方と私が、いつから対等の立場に?」
男が何かを反応する前に、レザミアの足が男の頭を踏みつける。口を塞がないように、僅かに横に傾けながら。
「貴方の無駄な企みに付き合う暇はないの。いま貴方に出来るのは無条件の情報提供だけよ」
「ふざけんじゃねぇ!俺が黙れば――」
その叫びを遮断する為に、レザミアの足がより強く力を込める。頭蓋が軋む痛みに、男は確かに口をつぐんだ。
「誰が吠えろと言ったかしら? もう一度言うけど、貴方が許されているのは只一つ。毒が何かを吐くことだけよ」
「……クソ、が。こんな扱いで、誰、が、吐くかよ」
怒りと痛みを押し殺しているせいか、男の声は低い唸りの様だった。
だがレザミアの圧力に屈しないと言う事は、まだ交渉の余地が有ると踏んでいるのだろう
確かに解毒治療とは種類にもよるが、おおむねは時間との勝負でもある。
長期戦に持ち込まれれば、レザミアも譲歩せざるを得ない筈だ。
だが、男を踏みつける女騎士はあっさりとその予測を覆した。
「そう。なら、食費も勿体無いし――」
彼女の口調に劣らぬ、冷たく硬い鉄擦の響き。
踏みつけられて自由の効かない視界の外側と言えど、その意味が分からないほど男も愚かではない。
「もう貴方、火葬場送りね」
アディカトレースから発祥し、大陸に広まった女神信仰。
その神話の序章では、荒廃した大地を女神の祝福が再生させていく様子が描かれている。
故に生命とは全て等しく大地から生まれ、例外なく大地に還るモノだとされているのだが、
その循環には唯一の例外が含まれる。
その例外が、生物が火葬に処された場合である。
本来は埋葬されて地に還り女神の祝福と共になる筈の生命は、
火葬されると火と煙に送られて空と風に乗り、大地へと還れぬ為に永遠の苦悩と共に彷徨う。
この信仰が故に、女神信仰と密接な文化圏において火葬刑は死刑よりも上の最も重い刑罰とされており、
アディカトレース王国の法律もまた火葬刑を最高刑として定めていた。
「くだらねぇハッタリかますんじゃねぇ!本気で俺を殺せやしねぇ癖に!!」
突きつけられた鋭い剣先の痛みに震え男がもがく。だが下手に動けば剣が刺さる以上、大した抵抗は出来ない。
「あら、何故?」
背に切っ先が触れる鋭い感触に慄きながら、男が必死に叫ぶ。
「何故もクソもあるか!? 俺を殺せば毒の正体が分からなくなるじゃねぇか!?
だいたい、こんなちんけな村の騎士隊長が火葬刑を下す権限はねぇだろ!!」
触覚と聴覚で服が裂けた事を悟り、遅れて痛覚がそれを肯定する。
流石に男も自分の優位を疑い始めたのか、その表情に狼狽の色が滲みだした。
「確かに貴方が毒の正体を吐かないなら、状況は好転しないわ。
でも、別に貴方が黙秘したところで状況が好転しないだけで、悪化するわけじゃ無いのよ。
この村にもちゃんと医者は居るの。彼は優秀な人だから、貴方が黙っててもその内に毒の正体を割り出してくれるわ。
それと貴方の言う通りここはちんけな村よ。だから、此処では私の指先が示せばそれが事実になる」
レザミアが言葉を切り、男が息を呑む。その意味が、理解したくなくとも分かってしまった。
彼女の言葉に、嘘が無い、と。
「理解できたかしら? それじゃあ、さよなら」
「レザミア! 何じゃい今の悲鳴は!?」
牢屋が地下階に有るとはいえ、男の上げた絶叫は耳が痛くなる程度には大声だった。
開け放したままの鉄扉から漏れた悲鳴に導かれたように、階段からぺたぺたと軽履きの音を鳴らしてオックスがやってくる。
聞かれたレザミアが何かを答える前に、老人は牢獄の中を見て事態を把握したらしい。
怒りを込めてレザミアを一瞥すると、彼女を押しのけて男の前に屈みこむ。
「お主が何と言おうと儂は医者じゃ。怪我人は治すぞい」
「ご自由にどうぞ。私はもう上に行くから、鍵だけは閉めておいてね」
冷徹な隊長から奪うように鍵を預かり、オックスは男に向きなおる。そして激痛にあえぐ男へと言葉をかけた。
「しっかりせい。いくらお主が罪人と言っても、儂は医者じゃ。怪我人を放置する事は出来ないでな。いま直してやるぞい」
やりとりを最後まで見届ける事無くレザミアが牢獄を後にする。その表情に、微かな呆れを浮かべながら。
レザミアが隊長室に篭ってからオックスが訪れるまでの時間は、彼女の予想よりもはるかに早かった。
「まぁ、チンピラなんぞそんなもんじゃよ。
なにやら偉そう踏ん反りかえってても、ちょっと痛い目にあうとすぐに泣き言わめくんじゃから情けないわなぁ。
もっと皆にイヂメられてても挫けない儂を見習うべきじゃよ」
若干憂鬱そうなレザミアとは対照的に――とは言え、彼の場合は日頃からそうなのだが――オックスの口調は明るい。
威張る方向性を間違えている気がしないでもないが、そこは敢えて無視しておく。
「それで、どうだったの。私にあんな演技をさせてまで聞き出したのが、見も蓋もない命乞いって訳じゃないんでしょう?」
「うむ、まぁ、肝心な事とそれ以上の事を聞き出せたんじゃが……
ちーっと、思ってた以上に今の状況は厄介みたいじゃぞい?」
オックスの報告に耳を傾けていると、その一語一語が段々とレザミアの表情を険しくしてく。
そしてチンピラから聞き出した情報を一通り報告し終えた時、
レザミアは無言でせわしなく指先で机を叩きオックスは所在無さ下に肩を落として縮みこんでいた。
「……あー、その、なんじゃ。儂、悪い事はしとらんよな?」
「そうね。別に貴方が悪い訳じゃない。でも」
でも。その先を語るべき言葉が続かない。
何か言葉を続けようとするが、かぶりを振る彼女は立ち上がると捨てるようにまったく別の事を話す。
「洗濯してくるわ。誰かが探してたら、共同水場に居るって伝えて頂戴」
「う、うむ……行ってらっしゃいでな」
今にもため息をつきそうな顔でレザミアが隊長室を後にする。
ドアが閉まる音までを見送ると、その表情につられたわけでもないのだがオックスも軽いため息を一つ。
「大変そうじゃが、儂はもう人を導いても率いることはしないって決めたしのぅ……
押し付けるようですまんが、レザミアに頑張って貰うしかないわな」
ヘルザ村の中央からやや北よりに、東西に横断する形で流れる用水路。
村の北を流れるヴェザルト川から引き分けてきたもので、いつから有るのか分からない城壁と同じ程度には歴史があるらしい。
用水路、とは言うが市街に引かれている整備の行き渡ったようなものではなく、
実際には大人の腰よりやや低い程度の深さと走って跳べば超えられる程度の幅を持つ小川でしかない。
その一画を申し訳程度に段状に掘り下げ、それなりに作業しやすくした場所を共同水場として
ヘルザ村の住民は生活に必要な水仕事の大半をこの用水路でまかなっていた。
そして今も、洗濯に没頭してる者が一人とそれに近づくものが一人。
「……急に洗濯なんて、どうしたの?」
あくまでも穏やかな副隊長の言葉に振り返る事無く、レザミアは作業に没頭している。
ロクスもそれを不快に感じた様子はなく、ただ座り込んで返事を待つ。
川のせせらぎと鳥の鳴く声と無言に浸っていると、レザミアが振り向かずに小さな声で呟いた。
「やっぱりね、立場が立場だし判断はついてるのよ。でもそれを決断出来ない。
……いえ、決断したくないって言ったほうが正しいんでしょうね。
だから洗濯してるの。ただの先送りにしかならないって、分かってても」
返答は無い。
二人は幾ら洗い流そうとも落とせないものを知りながら、それでもそれを重ねるしかないと覚悟していた筈だった。
川の水が流れて行くように時間もまた流れていく。いつまでもその覚悟を揺らがせたままでは居られない。
――そして、レザミアは決断を下す。
あまりにも正しく公平な、平和の為の決断を。
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