Lunatic Side 〜Past〜
第∞話:チョコフレーク
第2西暦二〇三七年。
「うふふ、かわいいなぁ」
……この男、毎日これである。
小さくぷっくりとした手で眠そうに目をこする妹の様子に、幸せそうに目を細めている。
職場では天才の名をほしいままにし、コンピュータですらお手上げになるような思考センスの持ち主である。
しかもGDISのエース、敏腕操作員である。
しかし……家へ帰ればこの有様だ。
珍しく仕事は定時で終わり、必要な買い物だけすませてそそくさと帰った彼は、着替えすら後回しで可愛い妹の顔をのぞき込んだ。
モデルハウスのように手入れの行き届いた室内は、だが生活感が漂い、温もりを感じさせる。
文句の付けようもないほどに整頓されているが…見ればあちこちに散歩途中に手折ってきた草花や縫いぐるみが飾られ、床には巨大な犬が寝そべっている。
これ、全部妹のものである。
可愛い妹のために、兄は毎日これらを拭いたり埃を払ったりと、世話や手入れに余念がない。
親ばか。
いや、実際には兄弟なのだから兄ばかというのかもしれないが、年の差だけ考えれば親子のようなものだ。
……シスコンというやつである。
兄の帰宅を待ちくたびれ、熊の縫いぐるみを抱えたままソファでうとうとしていた妹がようやく目を覚ました時、この男……シリスは彼女のすぐ前で、テーブルに頬杖を突いてほほ笑んでいた。
彼の家族はこの小さな妹マリアとそのペットの犬のみ。父はおらず、母は入院中だ。
シリスは着慣れたセーターとジーンズ姿になると、三人分の食材を適当に切り、夕食の準備を始めた。
まるでそれを見計らっていたように招いてもいない客が来る。
「今日は君も定時あがりかい?」
「ああ」
チャイムすら鳴らさずに上がり込んできた客……ディネンにとりあえず缶コーヒーを投げ渡すと、シリスはお湯を沸かし始めた。
「夕飯はなんだ?」
「シチューだよ」
「時間が掛かるか?」
自分の家のようにくつろぎながら問い掛けてくるディネンにシリスは苦笑しつつうなずいた。
「そうだね」
「……じゃあ外で食ってくる」
「………………」
……どうやら家で自分で作って食べる気はないらしい。
あきれたように溜め息をつくと、シリスはディネンの車の音が遠ざかるのを確認してから、隠しておいた小さい箱を取り出した。
スーパーで買い物ついでにこっそりとケーキを買っていたのである。
小さい子供を抱えている上に自分でも甘いものに目がない彼は行きつけのケーキショップもあるのだが、あいにく今日はバレンタイン当日、ごった返す女性客の群れに、店に近付くことすら適わなかった。
バレンタインなどに全く縁のないシリスには迷惑な話である。
……いや、彼にも一応付き合っている女性はいるのだが、あいにく彼女は仕事でソシアナシティまで出張中である。
ゆえに今年はこのお祭り騒ぎに縁がない。
逆に……ディネンの方は身に覚えのないチョコレートを大量に机やロッカーに押し込まれ、これはこれで迷惑な日であるらしい。
しかも。
甘いものなど僅かにしか口にしないディネンがこの大量のチョコレートを捌ききれる
はずもなく、例に漏れず、大量のチョコが無造作に詰め込まれた紙袋がさりげなくシリスの家の玄関に置き去りにされている。
「う、置いていったな」
どうやら今年もシリスがこれをゴミの日に処分することになりそうである。
何が悲しくて他人のチョコの始末を付けなくてはならないのやら。
シチューを仕込み、コーヒーを沸かすとシリスはケーキを取り出して、マリアと仲良くつついた。
マリアはシリスの母の再婚相手の連れてきた子供で、こうやってシリスと暮らし始めて二年目、やっと懐いてきて可愛い盛りである。
もっともまだ幼いので会話はおぼつかないものの、たどたどしい喋り方がまた一段とほほえましい。
熱いコーヒーで口をなおすと、シリスはTVをつけた。
背後のキッチンではシチュー鍋がうっすらと湯気を吐き始めている。
「あ、おいしそう……」
何も当日になって特集を組まなくても良さそうだが、チャンネルには三番ストリートのブランドチョコショップ内部が写し出されている。
バレンタインが終わったらちょっと立ち寄ってみようかなと思いながら眺めていると、不意に小さい手でセーターの袖口を引っ張られた。
「あげる」
マリアのベタベタの手のひらに、チョコレートフレークのかけらが握られている。
「……え? あ、ああ、ありがとう……」
そういえば今朝の出勤前に、今日のおやつにとチョコフレークを確かに渡してはあったが……。
はて?
テレビには相変わらずバレンタインににぎわう店や街が写し出されている。
これはバレンタインチョコのつもりなのか、それともただ単におやつの残りなのか?
吹きこぼれる鍋すら気付かず、シリスは真剣に悩んだ。
‐完‐
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