航空写真 こうくうしゃしん
とじる
2018-08-18: 文章を加え、人文字の航空写真をより詳しくしました。
2018-08-21: 人文字の航空写真「1968 ゆり小」をついかしました。

 学校では航空写真を撮影(さつえい)することがありました。 百合小50周年でも撮影したとききました。

 手元(てもと)に1968年(S.43) に撮影(さつえい)された百合小の航空写真がありました。   校庭(こうてい)に並んだ人文字をうつしたものと、もっと高(たか)いところから、百合丘の町(まち)とそのまわりをうつしたものです。  写真に当時(とうじ)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)などをいれてみました。  今とくらべると、百合丘とそのまわりがおおきくかわったことがわかります。

 これらの写真は、航空写真を撮影する専門(せんもん)の会社にたのんで撮(と)ってもらったものです。  できあがった写真(しゃしん)はほしい児童(じどう)が買(か)うことができました。

 写真をとるときはセスナ機(せすなき;アメリカの会社が作っているこがたのひこうき)が低(ひく)くとんできます。

 こどもたちにとってはその飛行機(ひこうき)を見るのも楽(たの)しみでした。

 撮影がおわったことをしらせるためにセスナ機からゴムまりが落(お)とされました。  とんでいる飛行機から落ちてくるので、うまく校庭(こうてい)に落ちるとはかぎりません。  遠(とお)くに落ちるゴムまりをひろうために足に自信(じしん)のあるこどもがはしってとりに行き、 見つけたゴムまりを先生のところに自慢気(じまんげ)に持ってきていました。

 当時(とうじ)は「自分の町の航空写真」(じぶんのまちのこうくうしゃしん)なんてめったに見られるものではありません。  できあがった写真を見るのはわくわくしたものです。  道(みち)のつながりと建物(たてもの)の場所(ばしょ)は地図(ちず)でもわかりますが、 「細(こま)かいところまでほんもの」の航空写真には迫力(はくりょく)があります。


 今はインターネットのおかげで、現在(げんざい)や昔(むかし)の航空写真(こうくうしゃしん)を簡単(かんたん)に、 無料(むりょう)で見ることができるようになりました。

 最近(さいきん)の写真は google maps(グーグルマップ)などで見ることができます。  こちらは飛行機(ひこうき)ではなく、人工衛星(じんこうえいせい)から撮影(さつえい)した衛星写真(えいせいしゃしん)です。

 少し前(まえ)やもっと昔の写真は国土交通省国土地理院(こくどこうつうしょう こくどちりいん)で公開(こうかい)しています。  神奈川県(かながわけん)が公開しているものもあります。

 たとえば、1960 年代(ねんだい)の百合丘と今の百合丘をくらべて見るのはとてもおもしろいことです。  写真の中に、人間(にんげん)が時間(じかん)をかけてどれだけ自然(しぜん)を改造(かいぞう)したか、 私(わたし)たちの生活(せいかつ)がどれだけかわったか、を見ることができます。


   ❢ 「説明と挿入(そうにゅう)写真あり」と「航空写真のみ」があります
1968年(S.43)にこどもたちが校庭(こうてい)につくった人文字(ひともじ)です。 南側(みなみがわ=しゃしんのした)校舎(こうしゃ)はほとんどができあがっていて、プレハブ校舎(こうしゃ)が2つもあります。

 南側校舎の西の部分(にしのぶぶん=しゃしんのひだり)が、まだ新(あたら)しいのがわかります。 同じ南側の校舎の東側(ひがしがわ=しゃしんのみぎ)を見ると、 わたり廊下(ろうか)より右のでっぱり部分(ぶぶん)はまだできていません。

さつえい:1968年(S.43)


 「1968」の文字(もじ)の下に見えるのはおおきな いちょうの木です。  その右側(みぎがわ)にたてよこに並(なら)んでいるのは、古(ふる)タイヤでつくったとびばこです。  自動車(じどうしゃ)のタイヤの下半分(したはんぶん)を地面(じめん)にうめて並べてあります。

 まんなかの下に見えるのはすべり台のようですが、のちになくなったようです。  回旋塔(かいせんとう)もありましたが、 危険(きけん)だからと使用禁止になり、のちに撤去(てっきょ)されました。(下記のコラムをみてください)

 写真ではわかりませんが、回旋塔の近くに「懸垂(けんすい)シーソー」(ぶらさがりシーソー)もあったとおもいます。  背の高さより高い場所にとりつけられたシーソーの両側に、すわるのではなく2人でぶら下がって上下します。  これも「きけんがおおきい遊具(ゆうぐ)」であったので、その後とりはずされたとおもいます。
 ウェブ上にある「懸垂シーソー」の画像 

 木でできた肋木(ろくぼく)もありました。  その後校庭の中でおき場所がかわっていますが、2012年の校舎の改築まで使われつづけていました。 長持ちです。


 左上はじに見える小田急線にならんでいる津久井道を見ると車はほとんど走っていません。  また、校庭の右側(東側)に走る柳通り(やなぎどおり;バス通り)にもほとんど車はみえません。

 撮影日付がはっきりしないのですが、校庭のイチョウの木の葉のようすや木の影(かげ)を見ると春先から初夏の昼前ではないかと思います。  小学生が学校にきているのでもちろん平日です。

 路上駐車が多いわりには、車の通行はまだまだ少ないということがわかります。  1968年といえば、大阪での万国博覧会(ばんこくはくらんかい=エキスポ70)の2年前。  日本の経済が伸びてゆくまっただ中ですが、百合丘では日常的な車の通行は多くはなかったようです。

「百合小のはじまり」 〜津久井道を行進したはなし〜 もごらんください。


とても危ない回旋塔

 回旋塔は、中央(ちゅうおう)の柱から鎖(くさり)で下げられた大きな鉄の輪(わ)に ぶら下がって柱のまわりを回る遊具(ゆうぐ)です。  大きな、骨(ほね)だけの傘(かさ)のように見えます。 

 2人いじょうのこどもが、重さがつりあうように鉄の輪にむかいあいになってぶら下がり、 柱のまわりを回ります。 ところが、こどもたちがわざとはやく回すので、振り落とされるこどもが出たりしました。 

 また、回っているときにだれかが落ちたり、わざと手をはなすと、つりあいがとれなくなって 回ったままとつぜんかたむいてしまいます。  こどもたちがはしゃいで使うほど危(あぶ)ないことがおこり、けがをする人も出ました。

 日本各地の学校や公園(こうえん)で回旋塔によるけが人が出たので、 ついに使用禁止(しようきんし)となり、 取り外されてしまいました。

 ウェブ上にある「回旋塔」の画像 

 ウェブの写真には、ボールのかたちのまるい「ジャングルジム」もあります。 これは「グローブジャングルジム」といって、回旋塔ではありません。  しかし、これも回転(かいてん)するので、やはりあそびかたによってはあぶないこともあります。

「グローブ」は地球儀や地球、球(きゅう・たま)のことです。英語(えいご):globe



前の写真よりも早い時期(じき)のもうひとつの1968年の人文字の航空写真です。 1968年には、少なくとも2回も航空写真を撮影(さつえい)していたのですね。

 漢字(かんじ)を描(えが)くには児童の数(じどうのかず)がたりなかったようで、ひらがなの「ゆり」です。  この人数と、まわりの木々のようすから1968年の年が明けてすぐから初春(しょしゅん)の間の撮影と思います。

さつえい:1968年(S.43)


 児童数がたりない、とはいっても今より多いです。 「1968ゆり小」を作っているこどもを数えてみました。  多くは3人が横(よこ)にならんで文字の太さを表しています。 ほそいところは1〜2人、もっともふといところで4人がならんでいます。

 正確(せいかく)ではありませんが見えるかぎりで数えると、約(やく)1,080人。  1968年は1年生から6年生までそろっていましたから、1学年平均(がくねんへいきん)で 180人ということになります。

 この年の4月にはじまる1968年度(ねんど)には、百合小の児童数は、 川崎市で一番(いちばん)の 39学級(がっきゅう) 1,622人だったといいます。  百合小は1964年の5月に西生田小の分校として、2年生と3年生だけで始まりましたが、 1968年度に急(きゅう)に人数がふえた理由(りゆう)が特別(とくべつ)にあるのかもしれません。


 このころのゆりっこ森の斜面(しゃめん)はほとんどまるぼうずです。  「森」になっていません。 土の斜面に雑草(ざっそう)がはえているだけだったので、 夏(なつ)にならないと緑(みどり)は見えません。

 南側校舎(みなみがわこうしゃ)の西側正門(にしがわせいもん)近くを作っているさいちゅうです。  工事の足場(あしば)に長くてなだらかな坂道(さかみち)の通路(つうろ)が見えます。  工事用(こうじよう)の資材(しざい)も人力ではこび上げていたのでしょう。 

 正門になる部分(ぶぶん)が工事用出入口になっているので、先生やこどもたちはバス通り側の門や、 南側の階段の下などから出入りしていたのだと思います。  このころは、まだ校庭のまわりにフェンスはありませんでした。

 校舎を建設中のなか、南側校舎のすぐとなりにはすでにプレハブ校舎があります。  このすぐ後に、さらにこのプレハブ校舎の西隣(にしどなり)(左側)にプレハブ校舎が増設(ぞうせつ)されます。

 プレハブ校舎西側(左側)に乗用車(じょうようしゃ)が止めてありますが、このすぐ南(下)に白いものが見えます。  これはたぶん気象観測(きしょうかんそく)のための百葉箱(ひゃくようばこ)でしょう。  旧校舎の解体(かいたい)の前に見学にいったら、百葉箱は校舎北西側の玄関(げんかん)のちかくにありました。

 まん中下の医院(いいん)の看板(かんばん)「星外科」(ほしげか)をぎりぎりでよむことができます。

 この航空写真からもこの時代(じだい)の百合丘にはまだまだ走っている車が少ないのがわかります。


➜ 写真をクリックすると大きく表示されます。
大きい写真ではちいさい字までよめるようになります。

❖  場所の説明の「細山派出所前交差点」(ほそやまはしゅつじょまえこうさてん)は、 現在は「細山交番前交差点」(ほそやまこうばんまえこうさてん)になっています。
❖  香林寺(こうりんじ)は五重塔(ごじゅうのとう)が有名(ゆうめい)ですが、塔ができたのは 1987年(S.62) です。  この写真(しゃしん)を撮影(さつえい)した時(とき)にはまだありませんでした。
「百合ヶ丘小 1968」の写真(しゃしん)と同じときに撮影(さつえい)した百合丘小学校を中心(ちゅうしん)にした、広(ひろ)い地域(ちいき)の航空写真(こうくうしゃしん)です。 当時(とうじ)の百合小の学区(がっく)をほぼカバーしています。

 1974年6月(S.49) に開業(かいぎょう)する新百合ヶ丘駅(しんゆりがおかえき)のまわりはまだ林(はやし)です。  むかしの小田急線(おだきゅうせん)の線路(せんろ)も見えます。  王禅寺(おうぜんじ)の住宅街(じゅうたくがい)は、まだまだ開発中(かいはつちゅう)です。

 送電線(そうでんせん)の高(たか)い鉄塔(てっとう)は、当時(とうじ)も今も変(か)わりなくそこにあります。

さつえい:1968年(S.43)