はじまりのその前 はじまりのそのまえ
西生田小発祥の地
とじる

百合小のはじまり」では 百合丘小学校は西生田小学校(にしいくたしょうがっこう)の分校(ぶんこう)として始まり、 そのあとに独立(どくりつ)したと書きました。  その西生田小も実は分校から始まっていたのです。

西生田小のルーツ(=はじまり、おおもと)は、 百合小からも五重塔(ごじゅうのとう)が見える細山の香林寺(ほそやまのこうりんじ)にありました。

 西生田小学校の西側500メートルほどのところに香林寺があります。1525年(大永(だいえい)5年)に開かれた古いお寺です。  1875年(M.8)にここに生田学校細山分教場(いくたがっこうほそやまぶんきょうじょう)が作られました。  お寺の本堂を借(か)りて分教場にしたのです。

分教場は分校の昔の言い方です。 広い地域(ちいき)でこどもたちが本校に通うには遠すぎる時に、 本校の一部として本校から離(はな)れたところに作られる学校です。

 その後、分教場は何度か名前を変えながら 1947年(S.22)に西生田小学校として独立(どくりつ)しました。  その時の校舎(こうしゃ)は香林寺のとなりの、今のこうりんじ幼稚園(ようちえん)のさらに東側隣(ひがしがわとなり)にありました。  その場所は現在は細山中島第2公園と一般(いっぱん)の住宅(じゅうたく)になっています。

香林寺の本堂の前には「西生田小学校発祥之地」(…はっしょうのち=はじまったところ)のりっぱな石碑(せきひ)が建(た)っています。

石碑にほってある文字について、このページの下にあるコラムをごらんください。

 こうりんじ幼稚園の正門には西生田小学校の歴史(れきし)を伝える説明板(せつめいばん)「西生田小学校跡」(にしいくたしょうがっこうあと)があります。  ここにその内容(ないよう)を引用(いんよう=せつめいのためにほかのぶんしょうなどをかりてくる)させていただきます。

descriptionboard «« 説明板

説明板に書かれた内容はページ下のコラムをごらんください。

 たしか私が1年生の時、先生に昔の西生田小学校の建物(たてもの)の見学につれて行ってもらったことがあります。  小学校から西の方にしばらく歩いて行ったとおぼえています。  そこには古い、木でできた平家(ひらや=2かいいじょうがないたてもの)の古い校舎があったような記憶(きおく)があります。  古い記憶なのでまちがっているかも。

 その時に古い校舎の写真(しゃしん)をとっておけばよかったなぁ。 でもデジカメもってなかったし…

 昔の西生田小学校のまわりがどうなっていたのか確認(かくにん)するために、古い航空写真(こうくうしゃしん)を見てみました。  大きさを合わせた1947年の写真と1961年の写真をここに掲載(けいさい)します。  2枚の写真をかさねて切替(きりか)えられるようにしていますので、見くらべてみてください。

写真には百合小ができる前の百合ヶ丘駅前の様子(ようす)や、その百合ヶ丘駅ができる前の様子も写っています。  百合小のあるところは田んぼだったみたいです。
右のボタンで、キャプション(説明文)無しの航空写真を表示できます。»»

 私が見学につれていってもらった建物は西生田小学校の分校として使われていたということでした。  現在の西生田小学校の1つ前の校舎ができて、香林寺の隣(となり)から引っ越(こ)してきた後(のち)にも しばらくは分校として使われていたのでしょうか。

「1つ前の校舎」とは私が1年生と2年生の時に通っていた校舎です。 1960年(S.35)に完成した鉄筋(てっきん)コンクリートの校舎です。 この校舎は現在の校舎があるのと同じ敷地(しきち=たてものがたっているとち)にありました。  校庭の南の端(はし)を流れる小川(五反田川(ごたんだがわ))におりることができて、 ひるやすみにサワガニをつかまえて遊(あそ)んだのをおぼえています。

 見学した古い木造校舎(もくぞうこうしゃ)は、1936年(S.11)に新築(しんちく)された当時の校舎でしょう。  なお、生田学校の分校から独立して「西生田小学校」の名前がついたのはその11年後の1947年(S.22)です。   前記(ぜんき)の「西生田小学校跡」の説明板を見ると、『現幼稚園(げんようちえん)の下に新校舎が建築(けんちく)され』とあります。  「下」とは幼稚園の東どなりでいちだん低くなっています。 古い航空写真を見るとこの西生田小学校の校舎を確認することができます。

NishiikutaES «« 現在の西生田小学校(1960年(S.35)からこの場所)

写真を見て気づいたのですが、2枚の写真が撮影(さつえい)された年は西生田小学校が生田学校から独立した1947年と、 現在の場所に新しい鉄筋コンクリートの校舎が完成した翌年の1961年でした。  ちょうどこれらの年に航空写真が撮影されたのは、興味(きょうみ)をもった私にとってはラッキーでした。

 西生田小学校の「親」は当時の「生田学校」でした。 さらにもっと前の歴史(れきし)があったはずです。  でも、ここでは百合丘のとなりの細山にあった西生田小学校の始まりまでにします。

 ところで、香林寺の五重塔(ごじゅうのとう)は西生田小学校が香林寺のおとなりさんだったころにはありませんでした。  今は、百合丘からながめると百合小の新校舎の後ろに五重塔を見ることができます。(五重塔は1987年(S.62)に建立(こんりゅう)

もっと詳しく知るには:
西生田小学校の歴史は、1875年(明治8)の生田学校細山分教場が香林寺本堂に設置(せっち)されたのを始まりとしています。 2017年度は開校142周年ということになります。
より詳しい歴史は、2005年出版の西生田小学校編『にしいくた -創立130周年記念副読本-』(そうりつ130しゅうねんきねんふくどくほん)に記(しる)されているということです。 (私は見たことがありません。麻生図書館と中原図書館の蔵書(ぞうしょ)にあります)

●「西生田小学校発祥の地」の石碑にほってあること

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 石碑の「発祥」の「発」は見かけない漢字(かんじ)です。  異体字(いたいじ=かたちがちがう字)といって、漢字の意味は同じですが見かけが異(こと)なる字が使われているのです。  現代ではほぼ使われない文字です。 また「之」はひらがなの「の」と同じ意味です。 「発祥之地」はものごとが始まった場所という意味です。 すなわち西生田小学校がここで始まったということです。

 石碑の左下には「当山十五世無影書(とうざんじゅうごせいむえいしょ)」とほってあります。  石碑の字を書いた人が、このお寺の15代目の住職(じゅうしょく=お寺でだいひょうをしているお坊さん)の無影(むえい)さんであるいうことです。  「世」ということばを使っているので、代々親から子に伝えられたものと思います。

 石碑の文字は、まず紙に墨(すみ)で書かれ、それをもとに石工(いしく=石を加工するしょくにん)が石に文字をほります。  (最近だとコンピュータ制御(せいぎょ)の自動彫刻機(じどうちょうこくき)が紙に書かれた文字を写しとってそのまま石に彫(ほ)ることがおおいようです)

 石碑を初めて見たとき「影」は「景」のつくりが「久」で同じ意味の文字に見えました。お寺に確認したところ「影」だそうです。  さらに確認したところ、つくりが「久」のほうは「影」の異体字(前にのべた「発」の字と同様)でした。

 「当山」の「山」はお寺の意味で、「当山」(とうざん)は「このお寺」 ということです。 寺はその正式な名称(めいしょう)の上にもう一つの名前をつけて長い名前で呼ぶことがあります。  香林寺を長くいうと「南嶺山香林寺」(なんれいさんこうりんじ)です。  寺号(じごう)はお寺のおおもとの名前。山号(さんごう)はお寺がある山の名前や仏教用語(ぶっきょうようご)からつけるよりくわしくした名前です。

●「西生田小学校跡」の説明板の内容

ふりがなとことばのいみのせつめいは mKm が追加したものです。

 明治八年(1875)細山村の香林寺本堂(ほんどう)を仮校舎(かりこうしゃ)として細山分教場が設立(せつりつ)された。 香林寺に西生田小学校発祥の地の記念碑(きねんひ)がある、(原文のまま読点(とうてん))本校は生田学校(五反田学舎)(ごたんだがくしゃ)である。

 明治十四年(1881)頃(ころ)、草ぶき屋根(せつめい下記↓)の校舎を細山村七八一番地他、現在の香林寺幼稚園の所に新築(しんちく)した。

 明治二十五年(1892)第二生田小学校として、生田小学校より独立したが、明治四十五年(1912)一村一校主義(いっそんいっこうしゅぎ=1つの村に1つの学校をたてるという考え方)の体制(たいせい)のもとに、再び生田小学校の分教場となった。

 昭和十一年(1936)には更(さら)に、現幼稚園(げんようちえん)の下に新校舎が建築され移転(いてん=ひっこし)した。昭和二十二年(1947)多年の念願(ねんがん=一つのことを長くのぞみ、おもうこと)であった独立がかない、川崎市立西生田小学校として発足(ほっそく=学校などがはじまること)した。 公園(今の細山中島第2公園 場所は下記↓)の階段を上がってゆくと桜の大木があり校地の名残(なごり=むかしあったものを思いおこさせるしるしやあと)がある。

 この桜の木は昭和二十二年から始まった西生田小学校気象観測(きしょうかんそく)のさくら開花予想初代(かいかよそうしょだい)の木である。 昭和二十四年(1949)から約十年間、東京天文台(とうきょうてんもんだい)(現国立天文台)によって流星写真儀(りゅうせいしゃしんぎ=せつめい下記↓)が置(お)かれ、 わが国最初の流星二点写真観測(りゅうせいにてんしゃしんかんそく)に成功(せいこう)し、太陽系(たいようけい)の研究に貢献(こうけん=ものごとのためにどりょくして良いけっかをもたらすこと)した。

 昭和三十五年(1960)十月、現在の西生田小学校に移転した。

細山郷土資料館(ほそやまきょうどしりょうかん)

HosoyamaMuseum «« 細山郷土資料館があった場所
HosoyamaMuseum «« 細山中島第2公園
「細山郷土資料館」は香林寺の北側向かいにあった小さな博物館(はくぶつかん)
次の様なものが展示(てんじ)されていました。
  • 稲作(いなさく)などの農機具(のうきぐ)、養蚕用(ようさんよう)の器具(きぐ)
  • 生活用具・衣類(せいかつようぐ・いるい)
  • 全国的に有名だった農機具メーカー「細王舍」(さいおうしゃ)の製品(せいひん)
  • 地元の文学作品(ぶんがくさくひん)
  • 地元発掘(じもとはっくつ)の埋蔵文化財(まいぞうぶんかざい)
    埋蔵文化財=地中からほりだしたふるい建物のあとや土器(どき)など
細山郷土資料館は2015年5月に閉館(へいかん)しており、建物(たてもの)もとりこわされています。  跡地(あとち)には各種の記念碑(きねんひ)がのこされています。
グーグルマップスの衛星写真やグーグルストリートビューの過去の写真を見ると建物が写っています。  ➜ ストリートビューに写る細山郷土資料館(2014年3月)

「草ぶき屋根」(くさぶきやね)とは、茅(かや=ススキ、ヨシ、チガヤなどのせがたかい植物をまとめていうことば)や藁(わら=いねやむぎなどのくきをかわかしたもの)などの植物(しょくぶつ)でおおった屋根です。

「流星写真儀」とは、カメラに回転(かいてん)する扇型(おうぎがた)のスリット(すきま)があるシャッターを組み合わせて、 流星(りゅうせい=ながれぼし)の動きを1枚のフィルムに連続的(れんぞくてき)に写せるようにしたものです。  流星が光っている時間や動く速度(そくど)などを知ることができます。

「香林寺幼稚園」は1995年(H.7)に「こうりんじ幼稚園」に名前を変えています。

【文章作成 2017-08 mKm】