細王舎創業之碑の裏(うら) には、「細王舍小史」の表題で会社の歴史(れきし) が小さくまとめてあります。 ここにその内容をそのまま掲載(けいさい) しました。 本物の石碑の碑刻(ひこく=碑にきざんであること) は腐食(ふしょく=さび) がすすんで読みにくくなっています。
碑文は 1979年(S.54)8月の日付です。
情報端末で表現可能な範囲で、旧漢字は原文のまま残しました。 小さな文字の振り仮名(ふりがな) は掲載にあたって追加したものです。
❖ (小学生にとって) 意味がわかりにくいことばやせつめいが必要であろうことばについては、本文中では黄色の背景として、せつめいを後にまとめてあります。 ➜ ことばについて
細王舎」なる名稱(めいしょう) は、創業者箕輪政次郎翁(おう) 夫妻出生の地たる、生田村細山(ほそやま) と柿生村王禅寺(おうぜんじ) 両地の字名(あざめい) に由来し、亦(また) 細より出で王にいたるを念ずるに由来するという。
いづれも翁の強烈な創業者精神を象徴するものであった。
翁(おう) は明治維新よりわづか20数年にして座繰機械(ざぐりきかい) を発明し世に出したが、我国産業界一般頗る(すこぶる) 幼稚なる当時ではまさに一大快挙とも謂(い) うべく、さらに相ついで世に出された撚蔟(まぶし) 製造器、足踏式糸繰機械(いとくりきかい) TM式製縄機(せいじょうき) 、製筵機(せいえんき) 、藁打機(わらうちき) 等々その悉(ことごと) くが農家の必需品と化し、農村作業の改善に貢献(こうけん) するところ多大なるをもって、時の日本発明協会長渋沢子爵(ししゃく) より表彰される栄誉に浴した。
けだし当時の農機具業界にあっては極めて異例のことであった。
その跡を襲(おそ) った先代箕輪亥作も創業の精神そのままに一意農村の為なる信念をもって機械の発明に没頭し、その蘊蓄(うんちく) を傾注して大正初年ミノル式稲麦扱機(いねむぎこきき) 親玉号、大正式廻転桑刻機(かいてんそうこくき) その他数種の発明を完成した。
これらの新製品は、発売されるやたちまちにして全国津々浦々(つつうらうら) まで普及し、各地博覧会(はくらんかい) 、共進会等に於(おい) ていづれも最高賞を授与された。
就中(なかんずく) 親玉号は斬新(ざんしん) な三角形の意匠が注目を集め、業界に三角形の模倣製品(もほうせいひん) を流行させたが、元祖親玉号はその堅牢(けんろう) さと回転の軽快な事で他の追随(ついずい) を許さず全国の市場を圧倒した。
そのせいか単に「神奈川県細王舎」のみの宛名で郵便物が間違いなく配達されて来た程に「細王舎」の名は全国に轟(とどろ) いた。
昭和に遷(うつ) り、当主箕輪嘉夫が事業を受けつぎ、太平洋戦争敗戦後の混乱の中で食糧増産、農業機械化の機運を察知し、昭和28年に米国メリーティラー社と技術提携をなし小型では本邦初の空冷エンジン搭載の耕耘機(こううんき) メリーティラーを在来品の1/3 の価格で世に問うた。
同機は軽量コンパクトにして諸作業機の完備により1台であらゆる管理作業を可能にした。 しかも故障絶無にして安かったのでたちまち全国の農村から部落単位の大量の注文が殺到した。 この結果メリーティラーは耕耘機の代名詞となり、当時の農村の必需品となるに至った。
その後耕耘機の発展性に着目した大手メーカーの業界進出模造品(もぞうひん) の新規参入が相つぎ、それらを契機(けいき) として業界再編成の動きが活発化する潮流の中で細王舎も、昭和35年12月に(株)小松製作所と業務を提携し、さらに昭和43年11月に社名を小松部品(株)と変更した。
現在では所在地も厚木市小野に移っているが、細王舎の従業員とその創業の精神を受けつぎ、土木建設機械用油圧機器製造に新しい歴史を築いている。
なお同社はさらに昭和54年10月1日に同じ小松製作所系列のゼノア(株)と合併し、新生「小松ゼノア(株)」という証券取引所第1部上場企業の有力工場として発展の道を邁進(まいしん) せんとしている。
以上。
さらにその後 (2011年現在)
小松ゼノア(株)は建設機械の油圧器機(ゆあつきき) 作っていましたが、2006年12月にスウェーデンの会社ハスクバーナABのグループ会社として、ハスクバーナ・ゼノア(株)と社名を変えています。
本社は埼玉県にありますが、厚木市小野の工場は売却してしまったようです。
小野にあった小松ゼノアの工場は、すでに他の機械メーカーの工場になっています。
現在の製品は、主に農業・林業・造園関係の機械で、刈払機(かりばらいき=下草を刈る) 、チェーンソー、薬剤散布機(やくざいさんぷき) などの製造・輸入・販売をしています。
細王舍の流れはすでに途絶(とだ) えているように感じます。
使われていることばについて
歴史(れきし) を簡単(かんたん) にまとめたもの。
「名称」とおなじ。 なまえ。
男性の老人を敬(うやま) っていうよびかた。
村や町の中のより小さい区画や地域の名称である「字」(あざ) の名前。
「いずれ」(何れ) の歴史的仮名遣(かなづか) い(旧仮名遣い)による表記。 現在一般に使われているのは 1946年(S.21)に告示された現代仮名遣い(新仮名遣い)
この文章は 1979年(S.54)に書かれたものであるが、文体や言葉の選び方はその時代よりも古く感じる。 書いた人はけっこうな年配者であったと思われる。
後に出てくる「わづか20数年」の「わづか」も「わずか」(僅か) の歴史的仮名遣い表記。 さらに後に出てくる「共進会などに於いていづれも最高賞を授与された」の「いづれ」も同様。
蚕(かいこ) の繭(まゆ) から生糸(きいと) を引き出す装置。 生糸は絹糸、絹織物の原料。 蚕は蚕蛾(さんが) の幼虫でありそれが蛹(さなぎ)になる時に、口から長い糸を出して自らの周囲に繭を作る。
当地(川崎市北部)でも、当時(明治〜昭和初期)は蚕を飼育して生糸を生産する養蚕業(ようさんぎょう) が、稲作とならんで重要な産業であった。
❖ 細王舎の座繰機械の現物は、細山郷土資料館(川崎市麻生区細山3)に保存・展示されていた。 しかし、細山郷土資料館は2015年5月に閉館した。 展示物は川崎市で引き取るような話は聞いたが、詳細はわからない。
私も百合小の高学年の時(1967,8年ころ)に、理科の観察として校舎の廊下にダンボールの飼育箱を作り、蚕を育てたことを覚えている。 卵から生まれたばかりの蚕は身体に毛が生えている。 これを「ケゴ」と呼んでいた。 漢字では「毛蚕」と書くという。
餌の桑(くわ) の葉はどこから手に入れたか覚えていないが、まだ近所の農家に桑の木が残っていたのだと思う。
芋虫(いもむし) にしても毛虫にしても、ふつうは気持ち悪いものであったはず。 でも、なぜか毛むくじゃらの蚕は多くのこどもたちがかわいがっていた。
たいそうに。
蚕が繭を作るときに糸を支えるための枠組み。
藁(わら) 、ボール紙などで作られる。 例えば、ボール紙で碁盤目状(ごばんめじょう) の枠を作り、1枠に1匹の蚕を入れて枠内に繭を作らせる。
撚蔟([よりまぶし]か?)はこの蔟の1種と思われる。 「撚」の文字から和紙を細く捻って作るひも状の「こより」を思い浮かべるが、調べた範囲では「撚蔟」の実態はわからなかった。
繭を作る直前まで育った蚕を蔟(まぶし) に移す作業を上蔟(じょうぞく) という。
藁(わら) を原料に縄(なわ) をなう機械。 藁をより合わせて縄を作る動作を「なう」[綯う]という。
藁は、稲や麦の茎(くき) をかわかしたもの。
筵(むしろ) を作る機械。 筵は い草、竹、藁(わら) 等で編んだ敷物。(藁で編むものが多い)
全て。
「渋沢」姓の「子爵」ということで、渋沢栄一(1840-1931、官僚、実業家、日本の資本主義の基礎を作った)のことと思われる。 渋沢氏は、1908年(明治 41)2月より没するまで発明協会の名誉会員であったという記録が、「渋沢栄一記念財団」の資料にある。 しかし、「発明協会会長」であったという記録は見あたらなかった。
社団法人 発明協会=1904年(明治 37)創立。 名称は変わってきている;「工業所有権保護協会」(1904-)→「帝国発明協会」(1910-) →「発明協会」(1947-) →「一般社団法人 発明推進協会」(2012-)
「子爵」は明治憲法下での華族(かぞく) の位の1つ。 身分が上から順に公爵(こうしゃく) ・侯爵(こうしゃく) ・伯爵(はくしゃく) ・子爵(ししゃく) ・男爵(だんしゃく) の5つあるものの上から4番目。
華族は近代日本の特権的階級(とっけんてきかいきゅう) で、明治期以前に高い地位を持っていた人々と、明治期以降に国家への功労(こうろう)などで位を授与(じゅよ)された人々を含む。
華族の位は世襲(せしゅう) された。 第二次大戦後 1947年(S.22) に華族の制度は廃止された。
かなり確かだと思ったうえでの「おそらく」「たぶん」
親の跡を継ぐ。
研究を重ねて蓄(たくわ)えた知識。
稲や麦の脱穀(だっこく=もみがらを取る) をする機械。
蚕の餌となる桑の葉を刻む機械。
「廻転」は「回転」と同じ。
全国のいたるところまで。
農家に農業機械を紹介するための展示会と思われる。
産業の発展をはかるための農産物や工業製品の展示会。
多くの中でもとりわけ。特に。
形、色、大きさ、模様、質感(すべすべとざらざらの違いなど) などを含むデザインのこと。
すでにあるものをまねして作った製品。
広く世に知れる。名高くなる。
「移り」 と同じ。かわること。
英語では "Merry Tiller"。 直訳すれば「陽気な農夫」もしくは「楽しい耕し機」 なお「耕耘機」の英訳は "cultivator" と辞書にある。
米国では "tiller" と "cultivator" では違いがあるようである。 なお、「耘」は草を取るという意味で、「耘る」で くさぎる あるいは くさきる と読む。
細王舎が米メリーティラー社と提携したのは 1953年(S.28)のことになる。
「メリーテーラー」と記述されている資料があるが、当時はこのように発音されていたのかも知れない。 でも、これでは Merry Tailor = 陽気な仕立屋 になってしまう。
メリーティラーは現在家庭菜園用に販売されているバッテリーや小型ガスボンベで動く小型の耕耘機を大きくしたようなもので、手押し車のように手で支えて歩行しながら使うものだった。 左右に並んだ2輪で自走するが、手で持たないと走れない。 現在小さな田畑でも使われている乗用トラクターとは異なる。
ウェブでメリーティラーの画像を検索すると、初期型は前述の小型耕耘機をふたまわり位大きくした程度であったのが、その後の改良とともに大きくなった様である。
農村では各種機械の動力源として、ベルトでいろいろな機械に接続できるプーリー付回転軸を持った多目的の石油発動機が使われていた。(燃料は灯油) メリーティラーは田畑での耕耘作業だけでなく、エンジンの回転をベルトで外部の機械に接続できるようになっており、発動機のかわりとしても使えるようになっていた。
現在米国では Merry Tiller は、会社名としてではなく、機械の後を支えて歩きながら操作する小型の耕耘機のブランド名として残っているようである。
私が百合丘小学校に通っていたころ(1960年代)には、百合丘周辺の田畑でも小型の耕耘機が使われていたが、その中にメリーティラーもあったと思う。 耕耘機の後部に運転者1人分の簡単な座席がついたリヤカーを牽引(けんいん=ひっぱること) して、作物や農機具を運ぶ姿が見られた。
走行速度は徒歩並に遅かったが、農道だけでなく、現在のバス通りが田畑に面したところでは耕耘機が普通に走っていた。 当時はまだまだ自動車の通行が少なかったために可能であったと思う。 たとえば現在のバス停原店前あたりでも走る耕耘機を見た記憶がある。
❖バス停原店前(はらみせまえ)=川崎市麻生区の小田急線百合ヶ丘駅前から出ている小田急バスの停留所の1つ。 現在(2011)では周辺は住宅地だが、わずかに農地も残っている。
耕耘機を耕運機とも表記する。 これは、耕耘機が田畑での農作業の他に、リヤカーを牽引(けんいん) して資材や作物の運搬作業も担っていたからだという。
まねてつくったもの。 真正品(しんせいひん=ほんもの) に似ているが「それより品質が悪い」「真正品を作っているところの許可を得ていない」などの意味があると感じられる。
碑文原文では「厂」(がんだれ) に「止」と記されているが、これは一部で使われることがある略字(りゃくじ) 。正式な漢字ではない
1960〜1970年ころの学生運動の立て看板(おおきな板にメッセージを書いて大学構内などに立てかけてあったもの) で見かけた記憶がある。 なお、「歴」の字を略す例では「厂」だけに略すことのほうが多いようだ。
元気よく、ひたすら目的に向かって進むこと。
細王舎創業之碑(さいおうしゃそうぎょうのいしぶみ) の裏面(りめん) にしるされた「細王舍小史」
川崎の地元(じもと) で生まれて多くの発明品を作り、全国に製品を販売(はんばい) していた大きな会社であったことがわかります。 当時の農業機械の先端企業といえるでしょう。
銅板にエッチング(薬品を使って金属を彫る) で文字が刻まれているようです。 道路ぎわでもあり、環境による汚れがすすんでいるのが気になります。
さつえい:2011年3月9日(H.23)