細王舎の石碑 さいおうしゃのせきひ
とじる

関連:»「細王舎の歴史」

2017-07-27: 内容をよりくわしくしました。

 百合小開校前に私は西生田小に通っていました。  バスで通学し西生田小近くの「細王舎前」(さいおうしゃまえ)で降りていましたが、細王舎がどんな会社か全く知りませんでした。  今の高石歩道橋(たかいしほどうきょう)の前のガソリンスタンドのところに正門がある、大きな工場でした。  その細王舍はかつて全国に名を知られた優(すぐ)れた農業機械(のうぎょうきかい)の会社だったのです。

 細王舍の工場は今はありません。  細王舎(さいおうしゃ)を記念(きねん)する石碑(せきひ)が、高石歩道橋の足下(あしもと)にあります。 

 ガソリンスタンド横(よこ)の植え込み(うえこみ)の中にある石碑は、植物(しょくぶつ)が伸(の)びてうもれかけていたのですが、 次に前(まえ)を通(とお)ったときには、植木屋(うえきや)さんがちゃんと手入れ(ていれ)をしているところでした。

 碑文(ひぶん)を右に記(しる)しておきます。  書(か)いてあることは少し難(むずか)しいです。 

細王舎創業之碑 碑文

明治22年先々代箕輪正次郎翁、郷土細山にて細王舎工場を創設農蚕機械器具の発明改良製作に着手。  当工場は後、事業発展とともに当地に遷り、先代箕輪亥作の手で、農機具メーカーの元祖として当時神奈川県を代表する工場に発展するに至った。

この碑は昭和の激動の時代に相前後して細王舎の経営を受けついだ元細王舎当主の箕輪嘉夫と小松部品株式会社が、 当地の縁につらなる者として碑刻したもので裏面にその偉大なる先達の創業の精神と功労の一端を刻み永く後世に伝えると共に創業90有余年三代に亙る風雪をしのぶものである。

昭和54年8月吉日
元 細王舎当主 箕輪嘉夫
小松部品株式会社 取締役社長 佐久間志郎

明治22年=1889年、昭和54年=1979年

書いてある内容(ないよう)をかんたんにまとめると次のようになります。

創業者(そうぎょうしゃ=かいしゃをつくったひと)の一族(いちぞく)がこの地(ち)で会社(かいしゃ)を始(はじ)め、苦労(くろう)して発展(はってん)させてきた。  そして、すぐれた農業機械(のうぎょうきかい)を世(よ)に送(おく)りだしてきた。  このことを称(たた)え、苦労(くろう)を思(おも)いおこし、未来(みらい)に伝(つた)える。

なお、細王舎は別(べつ)の会社(かいしゃ)の一部(いちぶ)になり、 現在(げんざい)はありません。

こちらもごらんください »「細王舎の歴史」

社名(しゃめい)「細王舎」は会社(かいしゃ)を作った夫婦(ふうふ)の出身地(しゅっしんち)、 細山(ほそやま)と王禅寺(おうぜんじ)からとったものだということです。  また、「細」(小さなもの)からはじめて、「王」(王さま;大きなもの)になるというねがいもこめていたそうです。

当時(とうじ)の細山は生田村(いくたむら)の字(あざ=村の中のよりちいさいちいき)の1つ、王禅寺は柿生村(かきおむら)の字の1つでした。  それぞれ現在の小田急線の北側と南側になります。  現在の地名麻生区細山と麻生区王禅寺は、新しい地名が分かれてできたため当時よりかなりせまい範囲(はんい)になっています。

細王舎が作っていた農業機械(のうぎょうきかい)の一部(いちぶ)を、 細山郷土資料館(ほそやまきょうどしりょうかん)(川崎市麻生区細山3-10-10)で見(み)ることができます。

▲おしらせ
「細山郷土資料館」は 2015年5月に閉館(へいかん)し、その後建物も取りこわされてしまいました。 残念(ざんねん)です。
なお、展示(てんじ)されていたものは川崎市民ミュージアム(中原区)や 教育委員会(きょういくいいんかい)に寄贈(きぞう)される予定とのことです。(2016-06 記)

【農蚕機械器具】
[のうさんきかいきぐ]
米作りなどの農業(のうぎょう)と、蚕(かいこ)を飼(か)って生糸(きいと)を作る養蚕(ようさん)で使われる機械(きかい)や道具(どうぐ)。  生糸は絹糸(きぬいと)や絹織物(きぬおりもの)の原料。

細王舎跡(さいおうしゃあと)に残(のこ)る石碑(せきひ)。  「農機具之元祖 細王舎 創業之碑」(のうきぐのがんそ さいおうしゃ そうぎょうのいしぶみ)とあります。

さつえい:2010年6月21日(H.22)

飛び石(とびいし)をたどって碑の裏面(りめん)の記述(きじゅつ)「細王舎小史」(さいおうしゃしょうし)を読むことができます。 
»「細王舎の歴史」(「細王舎小史」のうつし)

さつえい:2011年3月9日(H.23)

細王舎のあった場所(ばしょ)
現在(げんざい)の高石歩道橋下交差点(たかいしほどうきょうした こうさてん)の横(よこ)。  敷地(しきち)には、今はガソリンスタンドとマンションがあります。 

 同じエリアに「箕輪」(みのわ)の名のはいったアパートがありますが、細王舎の経営者(けいえいしゃ)の一族(いちぞく)に関係(かんけい)があるのかもしれません。

 写真(しゃしん)は高石歩道橋の上から撮影(さつえい)したものです。

さつえい:2010年6月21日(H.22)

石碑(せきひ)はガソリンスタンド横の植え込みにあります。植え込みは現在でも定期的に手入れがされているようです。(石碑がたてられたのは 1979年(S.54))

 右側が高石歩道橋(たかいしほどうきょう)1972年(S.47)8月建設

訂正: 高石歩道橋ができたのは 1982年(S.57) 3月でした。 歩道橋とつながっている小田急線の跨線橋(こせんきょう=せんろをまたぐはし)が1972年(S.47)8月にできあがっています。(2012-06-03)

さつえい:2011年2月21日(H.23)
(ガソリンスタンドの屋根の色が上の写真とちがうのは撮影日が異なり、塗り替えられたため)

細王舎の工場は左のマンションから道路の先(右側;オレンジ色のやね)のほうのガソリンスタンドのあたりの広い土地に建っていました。 確か、ガソリンスタンドの前あたりに小田急バスの「細王舎前」停留所(ていりゅうじょ)がありました。

 道路の右側には小田急線が並んで走っています。  (川崎市麻生区高石3丁目付近;道路は津久井道(つくいみち)で写真手前が百合ヶ丘駅方面)

 ちなみに小田急線(1927年(S.2) 新宿・小田原間開通)は、原則(げんそく)として1つの村に1つの駅ということで、 当時の生田村には駅を1つだけ作る予定でした。  多摩川を渡(わた)ると 稲田多摩川(現登戸)、稲田登戸(現向ヶ丘遊園)、生田、柿生、… と駅が並ぶはずでした。

 ところが、有力企業(ゆうりょくきぎょう)であった細王舎が「ぜひうちの近くに駅を」と強く働(はたら)きかけ、 生田駅が「東生田」と細王舎近くの「西生田」に分かれたとのことです。 東生田は現在は名前を変えて生田、西生田は読売ランド前です。  百合ヶ丘駅や新百合ヶ丘の駅ができたのはもっと後のことです。
→年表を見る

さつえい:2011年2月21日(H.23)

1971年(S.46)に撮影(さつえい)された細王舎工場付近の航空写真(こうくうしゃしん)です。  紫色の太線で囲んだ部分が工場のあったところです。(範囲(はんい)はだいたいのもので正確なものではありません)

 西生田小学校と西生田中学校も写っています。 いずれもその後改築・増築(かいちく・ぞうちく)されています。  右下のほうに川崎市営高石団地(高石耐火住宅(たかいしたいかじゅうたく))も写っています。  この団地は建築後(けんちくご)50年はこえていますが、現在も改修(かいしゅう)を加えられて現役(げんえき)です。  (2015年になって、高石団地のたてなおしがはじまりました)

 高石歩道橋(たかいしほどうきょう)は建設前(けんせつまえ)で、航空写真には写っていません。

 百合ヶ丘駅は左下の写真の枠(わく)の外にあります。  小田急線沿いには下水処理場(げすいしょりじょう)も見えます。  この施設(しせつ)は現在は川崎市上下水道局の事務所(じゅむしょ)になっていて、下水工事の資材(しざい)などが置いてあります。  現在の麻生区と多摩区の下水処理は柿生駅近くにある麻生水処理(みずしょり)センターと中原区の等々力(とどろき)水処理センターで行われています。

しゃしんをクリックして大きくすると小さい文字までよめます。

»»  こちらに細王舍工場を含む1947年(S.22)と1961年(S.36)の航空写真があります。

さつえい:1971年(S.46) 初期文書作成:2012年(H.24)5月

 百合丘小学校ができる前、百合丘団地とその周(まわ)りから西生田小学校に通う児童(じどう)は、通学用(つうがくよう)の小田急(おだきゅう)バスを使っていました。

 公団坂上(現在の「百合ヶ丘三丁目」;すぐに現在の「団地坂上」まで延長(えんちょう)されました)を出発したバスは百合ヶ丘駅前を通り、 津久井道(つくいみち)を走って「細王舍前」に到着(とうちゃく)します。  なぜか西生田小学校までは行かず、細王舍前と西生田小の間(やく700m)は歩いていました。  道が細すぎたのか、バスが折り返す場所がなかったのかもしれません。


 この細王舍前と小学校の間の通学路(つうがくろ)にこどもがあそべるおもちゃなどを売っているお店がありました。 駄菓子屋(だがしや)か模型屋(もけいや)だったとおもいます。

 ここでは 夜光塗料 (やこうとりょう)を売っていました。  それをものにぬると、暗い場所ではぬったところが白みがかかった緑色に光るのです。 小学生にとっては好奇心(こうきしん)をそそられるもので、私もそれで遊びました。  夜光塗料は、目覚まし時計(めざましどけい)の針(はり)や飛行機(ひこうき)の計器(けいき)の文字などにぬってあり、暗いところでも見えるようにするためのものです。

 こどもの小指ほどの小さくとうめいなガラス管にに入れて売られており、明るいところで見るとわずかに緑色がまじった白い色をした絵の具のようなものです。  つまようじなどで少しずつとって、ものにぬっていました。

 後で知ったのですが、当時の夜光塗料には放射性物質(ほうしゃせいぶっしつ)ラジウムがごくわずかに含まれていました。  放射線(ほうしゃせん)の力で塗料(とりょう)を光らせていたのです。  放射性物質は放射能(ほうしゃのう)を持った物質(ぶっしつ)です。  つまり放射線(ほうしゃせん)を出しています。  ごく、ごく少ない放射線しか出さないので、からだに影響(えいきょう)はないということでしたが、今になってふりかえるとちょっとこわいかも。

 その後、放射性物質を使わない夜光塗料が開発(かいはつ)され、放射性物質を含む夜光塗料は1999年ごろに生産(せいさん)が中止されたそうです。

»  ウェブ上にある「夜光塗料」の画像