百合小開校前に、私は西生田小に通っていました。 バスで通学し西生田小近くの「細王舎前」(さいおうしゃまえ) で降りていました。
「細王舍」は、今の高石歩道橋(たかいしほどうきょう) の前のガソリンスタンドのところに正門がある、大きな工場でした。 しかし、いつも正門の前を通っていたのに、細王舎がどんな会社か全く知りませんでした。 その細王舍が、かつては全国に名を知られた優(すぐ) れた農業機械(のうぎょうきかい) の会社だったということは、かなり後になって知りました。
細王舍の工場は今はありません。 後からできた農業機械の会社との競争に負けてしまったようです。 でも、かつては全国に名を知られ、海外に輸出までしていた会社です。
現在は細王舎(さいおうしゃ) を記念(きねん) する石碑(せきひ) が、高石歩道橋の足下(あしもと) に残っています。
ガソリンスタンド横(よこ) の植え込み(うえこみ) の中にある石碑です。 いちど、前を通った時には植物(しょくぶつ) が伸(の) びて、石碑のまわりがうもれかけていたのですが、次に前(まえ) を通(とお) ったときには、植木屋(うえきや) さんが入ってちゃんと手入れ(ていれ) をしているところでした。
私は、はじめて碑文(ひぶん) を読んで見ました。 第二次世界大戦をまたいで、この地と日本の農業を支えていた企業であることがわかりました。 この地でがんばっていた当時の先進企業の記録です。
碑文の内容をここに記(しる) しておきます。 書(か) いてある内容は、少し難(むずか) しいです。
明治22年先々代箕輪正次郎翁、郷土細山にて細王舎工場を創設農蚕機械器具の発明改良製作に着手。 当工場は後、事業発展とともに当地に遷り、先代箕輪亥作の手で、農機具メーカーの元祖として当時神奈川県を代表する工場に発展するに至った。
この碑は昭和の激動の時代に相前後して細王舎の経営を受けついだ元細王舎当主の箕輪嘉夫と小松部品株式会社が、 当地の縁につらなる者として碑刻したもので裏面にその偉大なる先達の創業の精神と功労の一端を刻み永く後世に伝えると共に創業90有余年三代に亙る 風雪をしのぶものである。
昭和54年8月吉日
元 細王舎当主 箕輪嘉夫
小松部品株式会社 取締役社長 佐久間志郎
明治22年=1889年、昭和54年=1979年
❢背景が薄黄色の部分については、「つかわれていることばについて」をごらんください。
書いてある内容(ないよう)をかんたんにまとめると次のようになります。
創業者(そうぎょうしゃ=かいしゃをつくったひと) の一族(いちぞく) がこの地(ち) で会社(かいしゃ) を始(はじ) め、苦労(くろう) して発展(はってん) させてきた。
そして、すぐれた農業機械(のうぎょうきかい) を世(よ) に送(おく) りだしてきた。
このことを称(たた) え、苦労(くろう) を思(おも) いおこし、未来(みらい) に伝(つた) える。
使われていることばについて
米作りなどの農業(のうぎょう)と、蚕(かいこ)を飼(か)って生糸(きいと)を作る養蚕(ようさん)で使われる機械(きかい)や道具(どうぐ)。 生糸は絹糸(きぬいと)や絹織物(きぬおりもの)の原料。
「移り」と同じ。 移転(いてん=ひっこし) する。
世の中の急なうつりかわり。
石碑(せきひ) にきざむ(=石や金属にほりこんで書く) こと。
長い期間におよぶ。 現代は「渡る」または「亘る」と書くことが多い。
きびしい試練(しれん) や苦労のこと。
細王舎は別(べつ) の会社(かいしゃ) の一部(いちぶ) になり、現在(げんざい) はありません。
こちらもごらんください ➜「細王舎の歴史」
社名「細王舎」は会社を作った夫婦(ふうふ) の出身地(しゅっしんち) 、細山(ほそやま) と王禅寺(おうぜんじ) からとったものだということです。 また、「細」(さい=小さなもの) からはじめて、「王」(王さま;大きなもの) になるというねがいもこめていたそうです。
当時(とうじ) の細山は生田村(いくたむら) の字(あざ=村の中のよりちいさいちいき)の1つ、王禅寺は柿生村(かきおむら) の字の1つでした。 それぞれ現在の小田急線の北側と南側になります。
現在の地名、麻生区細山と麻生区王禅寺は、かつての地域から分かれて別の地名ができたため当時よりかなりせまい範囲(はんい)になっています。 新しい地名は次のとおりです。 (細山 と 王禅寺 の名前はそのまま残った上で、あたらしい地名が追加されています)
✱ 細山から分かれた地名:
千代ヶ丘(ちよがおか)、多摩美(たまみ)、向原(むかいばら)
✱ 王禅寺から分かれた地名:
虹ヶ丘(にじがおか)の一部、王禅寺東(おうぜんじひがし)、
王禅寺西(おうぜんじにし)、白山(はくさん)
細王舎が作っていた農業機械(のうぎょうきかい) の一部(いちぶ) が、細山郷土資料館(ほそやまきょうどしりょうかん) に展示されていました。 しかし、残念ながら郷土資料館は2015年5月に閉館し、その後建物もとりこわされてしまいました。
展示(てんじ) されていたものは川崎市民ミュージアム(中原区)や教育委員会(きょういくいいんかい) に寄贈(きぞう) される予定とのことです。(2016-06 記)
➜ ページ先頭
❖ 細王舎工場正門跡(せいもんあと) の石碑(せきひ)
「農機具之元祖 細王舎 創業之碑」(のうきぐのがんそ さいおうしゃ そうぎょうのいしぶみ) とあります。
画像をタップ/クリックすると、碑刻部分を拡大します。
さつえい:2010年6月21日(H.22)
❖ 横から見たところ
飛び石(とびいし)をたどって碑の裏面(りめん)の記述(きじゅつ)「細王舎小史」(さいおうしゃしょうし)を読むことができます。
➜ 「細王舎の歴史」(「細王舎小史」のうつし)
さつえい:2011年3月9日(H.23)
❖ 細王舎のあった場所
現在(げんざい) の高石歩道橋下交差点(たかいしほどうきょうした こうさてん) の西側の区画です。 現在、敷地(しきち) には、ガソリンスタンドとマンションがあります。
同じ区域に「箕輪」(みのわ) の名のはいったアパートがありますが、細王舎の経営者(けいえいしゃ) の一族(いちぞく) に関係(かんけい) があるのでしょう。
写真(しゃしん) は高石歩道橋の上から撮影(さつえい) したものです。
さつえい:2010年6月21日(H.22)
❖ 石碑のある小庭園
石碑(せきひ) はガソリンスタンド横にしつらえられた植え込みの中にあります。
ちょっとした小庭園(しょうていえん) になっており、植物も豊富で、敷石が配置されています。 植え込みは定期的に手入れがされています。
石碑がたてられたのは 1979年(S.54)です。
右側が高石歩道橋(たかいしほどうきょう:1982年(S.57)3月完成) です。 かつては踏切だった、歩道橋につながる小田急線の跨線橋(こせんきょう=せんろをまたぐはし) 部分は、1972年(S.47)8月に完成しています。
ガソリンスタンドの屋根の色が上の写真とちがうのは撮影日が異なり、塗り替えられたためです。
さつえい:2011年2月21日(H.23)
❖ 細王舍工場の跡
細王舎工場は左側のマンションから道路の先のほうのガソリンスタンド(右側;オレンジ色のやね)のあたりの広い土地に建っていました。 交差点の角のガソリンスタンドの前に工場の正門があり、その場所に小田急バスの「細王舎前」停留所(ていりゅうじょ) があったと思います。
道路と並んでその右側には小田急線が走っています。 (川崎市麻生区高石3丁目付近;道路は津久井道(つくいみち) で写真手前が百合ヶ丘駅方面)
細王舍工場の近くに西生田駅(現在の読売ランド前駅)が作られた時のエピソードが残っています。
小田急線は、原則(げんそく) として1つの村に1つの駅を作るということで、当時の生田村には駅を1つだけ作る予定でした。
多摩川を渡(わた) )ると 稲田多摩川(現登戸)、稲田登戸(現向ヶ丘遊園)、生田、柿生、… と駅が並ぶはずでした。
(小田急線は、1927年(S.2) に新宿・小田原間が開通)
ところが、有力企業(ゆうりょくきぎょう) であった細王舎が「ぜひうちの近くに駅を」と強く働(はたら) きかけ、生田駅が「東生田」と細王舎近くの「西生田」に分かれたとのことです。 駅が細王舍工場の正門の前にならなかったのは、小田急線の南側が急に高台になる地形のせいでしょうか。
❢「撮影時カメラ位置」ボタンで、周辺の地図を表示
東生田は現在は名前を変えて生田、西生田は読売ランド前になっています。
百合ヶ丘駅や新百合ヶ丘の駅ができたのはもっと後のことです。
➜ 年表を見る
さつえい:2011年2月21日(H.23)
❖ 細王舎工場周辺の航空写真
1971年(S.46)に撮影(さつえい) された細王舎工場付近の航空写真(こうくうしゃしん) です。
タップ/クリックすると、拡大されて写真内の小さい文字が読めるようになります。
紫色の太線で囲んだ部分が工場のあったところです。(範囲(はんい) はおおよそのものです)
西生田小学校と西生田中学校も写っています。 いずれもその後改築・増築(かいちく・ぞうちく) されています。
右下のほうに川崎市営高石団地(高石耐火住宅(たかいしたいかじゅうたく) )も写っています。
この団地は建築後(けんちくご) 50年はこえていますが、現在も改修(かいしゅう) を加えながら現役(げんえき) です。
(2015年に高石団地のたてなおしがはじまりました)
高石歩道橋(たかいしほどうきょう)は建設前(けんせつまえ)で、航空写真には写っていません。 歩道橋につながる跨線橋(こせんきょう) もまだ建設前で、線路を渡る踏切らしきものが見えます。
百合ヶ丘駅は左下の写真の枠(わく) の外にあります。
小田急線沿いには、川崎市の生田下水処理場(げすいしょりじょう) も見えます。 この施設(しせつ) は、現在は川崎市上下水道局の事務所(じむしょ) になっていて、下水工事の資材(しざい) などが置いてあります。 現在の麻生区と多摩区の下水処理は、柿生駅近くにある麻生水処理(みずしょり) センターと中原区の等々力(とどろき) 水処理センターで行われています。
さつえい:1971年(S.46)
初期文書:2012年(H.24)5月 / 改訂:2020年(R.2)9月
こちらに細王舍工場を含む1947年(S.22)と1961年(S.36)の航空写真があります。
➜ 西生田小発祥の地
✚細王舍工場の前を通って西生田小に通っていた
百合丘小学校ができる前、百合丘団地とその周(まわ) りから西生田小学校に通う児童(じどう) は、通学用(つうがくよう) の小田急(おだきゅう) バスを使っていました。
公団坂上を出発したバスは百合ヶ丘駅前を通り、津久井道(つくいみち) を走って「細王舍前」に到着(とうちゃく) します。 なぜか西生田小学校までは行かず、細王舍前と西生田小の間(やく700m)は歩いていました。 道が細すぎたのか、バスが折り返す場所がなかったのかもしれません。
「公団坂上」は、小田急バスの百合ヶ丘駅前から百合丘団地に向かう路線(ろせん) の終点で、当時は現在の「百合ヶ丘三丁目」にあたる停留所が「公団坂上」でした。 その後、すぐにバスは延長されて、現在の「団地坂上」まで走るようになりました。 その時もバス停名は「公団坂上」でしたが、のちに「団地坂上」に変更されています。
バス停名の変更は、団地を運営している主体が当初の「日本住宅公団」から、いくつかの変遷を経て「公団」のことばが入らない「独立行政法人 都市再生機構」に組織替えされたことによるものと思っていました。 でも、それは2004年のことです。 もっと前からバス停名は変わっていたように記憶しているのですが… (「都市再生機構」は、愛称として「UR都市機構」を使っています)
✚通学路途中のお店にあったあやしいモノのはなし
この細王舍前と小学校の間の通学路(つうがくろ) にこどもがあそべるおもちゃなどを売っているお店がありました。 駄菓子屋(だがしや) か模型屋(もけいや) だったとおもいます。
そのお店では 夜光塗料 (やこうとりょう) を売っていました。
それをものにぬって暗いところで見ると、ぬったところが白みがかかった緑色に光るのです。 小学生にとっては好奇心(こうきしん) をそそられるもので、私もそれで遊びました。
夜光塗料は、目ざまし時計の針(はり) や飛行機(ひこうき) の計器(けいき) の文字などにぬってあり、暗いところでも文字や指針(ししん) が見えるようにするためのものです。
コルクふたつきのこどもの小指ほどのとうめいなガラス管に入れて売られており、明るいところで見るとわずかに緑色がまじった白い色をした絵の具のようなものでした。 これを、つまようじなどで少しずつとって、ものにぬって光らせてあそんでいました。
後で知ったのですが、当時の夜光塗料には放射性物質(ほうしゃせいぶっしつ) ラジウムがごくわずかに含まれていました。 ラジウムが出す放射線(ほうしゃせん) の力で塗料(とりょう) を光らせていたのです。
放射性物質は放射能(ほうしゃのう) を持った物質(ぶっしつ) です。 すなわち放射線(ほうしゃせん) を出しています。 ごく、ごく弱い放射線しか出さないので、からだに影響(えいきょう) はないということでしたが、今になってふりかえるとちょっとこわいかも。
かつて、放射線のこわさが一般に知られていなかったころのはなしです。 アメリカ合衆国(がっしゅうこく) の時計の工場で、毎日素手(すで) で文字盤(もじばん) に夜光塗料を塗っていた女性の工員さんが、死亡に至る例も含めて、ひどい放射線障害(ほうしゃせんしょうがい) を受けたという記録が残っています。
ごく少量の夜光塗料ならともかく、毎日大量にごく近い距離(きょり) で、それも長い期間にわたって放射線をからだに受けていたので、目に見える障害につながったようです。 夜光塗料を塗る筆をくちびるで整えながら作業していたということです。 そういえば、口紅を筆で塗るのが普通だったころ、女性が筆の先をくちびるではさんで整えるのはごく普通のやりかたです。
その後、放射性物質を使わない夜光塗料が開発(かいはつ) され、放射性物質を含む夜光塗料は1999年ごろに生産(せいさん) が中止されたそうです。