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第8章 さ ら ば な ん か ん 五期主計雲南始末記 いに所在する、既に先行している籾収集班に組み入れられた。収集班長は私を竜陵に残し、主計の総 引き揚げを行った柴田大尉でした。柴田大尉の所在を本部とし、5分隊が一斉に河を渡った。石川分 隊の右は宮川分隊、左は加賀分隊です。宮川中尉とは三度日の遭遇でした。5分隊のうち少尉は私だ けで、他は皆、中尉でした。私は大いに気負って、夜間渡河。先ず、機銃座を構え、前方部落に2名 の偵察を出した。無人部落なので入って小休止し、次々と奥の部落へと前進して、夜明けには郡長が 所在する部落に入った。 早速、郡長に会って来意を告げ、全村長の招集を依頼して村長の集まるのを待った。郡長婦人の心 づくしの朝食をとり、兵を寝かし、私一人は大きな座敷に切ってある囲炉裏を囲んで郡長と対座して いた。この郡長、頭はチョンマゲ風に束髪し、左脇に山刀をキチンと置き、姿勢を崩さず、日本の古 武士然と構えていた。婦人がこれ又、昔の日本婦人の立ち振る舞いそっくりなので意外に思った。 タイ高原にそう遠くない、もしや、山田長政の末裔ではないかと連想しているうちに村長らが集まっ て来た。先ずは、宣撫工作用にもって来たシルクハットや衣類などを配った上で、田圃に積んである 穂付きの籾を落とし、その籾を河岸まで運ぶよう依頼した。暫く、ガヤガヤしていたが、郡長の一声 で OK となった。今夜から始める、村長自ら、村人を連れて郡長宅に来るようにと言って、解散 させた。 私はどれ程、微睡んたか、兵に大変だと起こされた。見れば、村長が村人を引率して続々とやって 来て、郡長宅の庭は大混乱に陥って居る。ドンドン現地に行かせねば整理がつかない。人集めして、 実施計画をしていない私の不覚でした。兵をして割り当てた村人を引き連れ、何処でもよい郡長宅の 付近の田圃に入らせて積んである稲穂から籾を漕ぎ落とさせた。私は郡長宅にあって村長達の相手を していた。何せ、言葉が通ぜず、専ら、ジェスチャーで場を繕うていた。我ながら涙ぐましい限りで あった。時折、見回りに行く。未だ穂に籾が残っていて、いい加減な籾落としだが、成果は上がって いる。 この収集は短期戦と見る私は拙速な作業ぶりは容認出来る。なお、作業を中断し、落とした籾は即 日、本部前の渡河点まで搬送させる。頃合いを見て搬送を開始したが、夜が明けても搬送者が帰って 来ないので渡河点まで馬を飛ばしたところ、こりゃ、如何に。石川分隊の搬送者が持って行った籾を 河渡し、本部倉庫に搬入しているではないか。河渡しは本部の任務になっている。本部で準備が整わ ないうちに、籾が打ち寄せて大混乱しているところを偶々、状況視察に来た後方参謀の目に留まり、 参謀命により石川分隊の要員を使っている由。そんなのないよ、と腹を立てたが、一方、満足に思っ て郡長宅に帰った。短期戦とみての即日搬送でしたが、親方・柴田大尉を驚かそうとの下心は否めま せん。翌日から暫くは即日搬送は止めにした。 翌日、彼の参謀が当番兵を連れ、散開・匍匐前進の演習をしながらやって来た。その真面目さはそれ として、些か骨稽に見えた。彼の参謀はその後、装甲車に乗ってナンパカを脱出の折、壮烈な戦死を 遂げた由。 ● ● ● この収集作戦の成果は戦況変化までに如何ほどの籾を運び出せるかにあり、加賀分隊は経験的勘か ら、始めから収集を断念して、本日○○キロ収集したと報告しおき、結局、敵襲によりパーになった ことにした。流石、高野山の坊さん、先を見越しての方針には脱帽するが、私は私、わが道を行く。 敵機が来襲して[君達は見捨てられた星屑だ]という伝単(宣伝びら)と航空写真を撒いて行った。 稲穂の山に頭を突込み、尻隠さずの日本兵の写真は誠に可笑しい。郡長宅のある部落から渡河点まで の収集は終わり、これからは、もっと奥の収集にかからねばならないが、雲行きが怪しくなって来た。 某村長が便衣隊(地方の住民と区別できない服装で敵地に入り、謀略・ゲリラ活動を行う中国軍部隊) にリンチされていると通報があり、兵を率いて急行したが、宅に夥しい血糊を残し、村長は拉致され ていた。裏藪を捜索したが、無駄でした。 敵情から隔離されている我々にとり市場は唯一の情報源です。市場での情報は我々にとっても、敵 にとっても give & take の関係にある。両者がぶつからないように住民が誘導してくれる。私は 魔がさしたとか言いようのない失態をしでかした。郡長宅の庭にある籾が一杯詰まった五つの大きい 竹篭が目に入った。郡長には奥から収集する籾を以て充当するからと言い聞かせて搬送に手をつけて しまった。その晩、家族あげての協力をしてくれた郡長一家は姿を消してしまった。後味の悪い、嫌 な予感。奥の部落に行ったが、戸を閉ざして出て来ない。これでは仕事になりません。敵の情報も途 絶えたので住民に気付かれないように渡河点まで後退して元旦を迎えることにした。 大晦日、新居に村長らが酒を持ってやって来た。不気味だが、警戒態勢をとって村長等と酒宴を張っ た。彼らは何の拘りもなく、はしゃぎ過ぎている。一層の警戒を下命して私は 状況の人 となる。 宴終わり村長らは私が贈ったシルクハットを冠って帰って行く、恐らく、シルクハットは今では権威 の象徴になっているのであろう。兄らよ、厄病神去る日近しと見て、自身を祝っていたのではなかろ うか。それにしても、我ら去っても次の厄病神が来るであろう。所詮は己が庭が戦場となった住民は 浮かばれない。 明くれば 昭和20年の元旦 今から本部に表敬訪問をせんと兵3名を連れて出発。帰りに三本の酒 を抱えて渡河中、敵機が飛来した。対岸へ漕げ、漕げ、船頭多くしては船は対岸に頭を向けない。 又、又、飛来して掃射してゆく、それ漕げ、やっとのことで対岸の蛸壷に飛び込む、キャーッ、先住 者が居た。又、来た。去るや、前方の森に走り込む。酒はいっぺんに覚めて帰隊し、抱えてきた酒で 飲み直した。 時に、右隣の宮川分隊に敵襲あり、左隣の加賀分隊はもう、本部に撤収済み、石川分隊も3日に引 き揚げた。収集した籾は輸送隊が来ないので処分した。 この度の籾収集はスリルを感じつつも思い どうりにことが運び、可なりの成績をあげたと自負しているが、郡長との経緯、悔やんでも拭いきれ ない、私、一生の汚点です。 対岸で捕らえた白馬は、お気に入りの馬でした。日吉上等兵に調教と世話をさせていたが、転進前 夜、放馬してしまい、鬣を振りながら河を渡る健気さに苦笑してしまった。 英印軍のカタビラを耳にし、河沿いの公路を通って椀町に引き上げた。このナンカンの引揚げが懐か しく私は今でも一杯の晩酌に『ラバウル小唄』、ラバウルをナンカンに代えて「さらばナンカンよ、 又、来る日まで---」と馬鹿の一つ覚えよろしく、歌っています。 ~~♪ラバウル小唄(YouTube)♪~~ 椀町に転進したナンカン籾収集班は填緬公路の起点であるビルマのラシオに向かって発進した。 椀町以降はビルマである。されば「さらば雲南よ---」であり、雲南始末記の終わりと致します。 |