初めて競馬に行く人に
よきコーチを求めよ
所謂競馬フアンが競馬に趣味を感じ、馬券を買ふことの面白さに心を奪はれる気持は同
じでも、しかし初めて競馬場の土を踏んで初めて馬券を買つた時の状態は一様ではないに
違ひない。つまり人が競馬フアンになるそのきつかけは人それぞれに依つて異なるであら
う。例へば人の話や広告などにちよつと心を動かされて、競馬といふものは如何にも面白
さうだから、それでは自分も見に行つてみやうか、といつた程度の漫然たる気持で、自分
一人だけで、のこのこ競馬場へ出かけて、勝つても負けてもいゝ、兎に角競馬を見に来た
んだから、自分も馬券といふものを一枚買つてみやう――そこで新聞の勝馬予想か何かを
頼りにするなり、或ひはその場の感じだけで何となくその番号の馬が勝ちさうな気がする
なりして、生れて初めての処女投票を試みる。――そんな人もなかにはあるだらう。一人
で漫然と競馬を見に行つたのが偶然競馬場で、この道では大分苦労を積んでゐるやうな知
合ひの人に出逢つて、思ひがけずその人の指導を受けて、馬券の味を覚えたと云ふやうな
フアンもあるであらう。自分一人でなしに、友人などにフアンがゐて、その友人に誘はれ
て出かけたのが病みつきになつたと云ふやうな人もあらうし、最初から相当に専門的な知
識を持つた此の道での、所謂玄人の指導を頼りに、馬券買ひの面白さと経験とを重ねるや
うになつたと云ふやうな人もあらうし、フアンになるそのきつかけは人に依つて一様では
あるまい。
ところでこれから初めて競馬に見に行つて、馬券の一枚も買つてみやうと云ふヅブの素
人の人は、若しもその人が競馬こそ見たことはないものの、曳馬だけを見て、ははアこの
馬なら良く走りさうな馬だと云ふくらゐに馬のわかる人なら格別、さもない限りはコーチ
があつた方が間違ひが少ない。勝馬予想が何かを頼りに馬券を買ふにしても、その予想に
対してある程度の批判をくだせるぐらゐの人のコーチは、出来るならあつた方がいい。全
くの無経験で、ただ何となく勝ちさうな気がしたからと云ふだけで、その馬の馬券を買つ
ても当ることはあるだらうが、しかしそれはまぐれ当りといふもので、所詮は無謀のこと
に属する。その上さう云ふまぐれ当りから馬券の味を覚え込むと、ともすると競馬の合理
性を閑却し勝ちになり、これを偶然だけが支配する類ひの賭博と同一視するやうになつて、
そこに多分の危険性が伴ふ。
まぐれ当りにしても、それでいつ迄も損をしないで済むなら結構な話だが、事実はさう
うまく行くものではない。競馬の勝馬と云ふものは、決してそんな風に偶然にして現はれ
るものではない。そこが賽の目の丁半だけの賭博と競馬との大いに異なる点であり、そこ
が競馬の妙味でもある。この事を理解しなければ競馬の本統の面白さと云ふものは有り得
ないと云つてもよい。その合理性を追究した結果に於いて馬券を買ふところに、ほかの賭
博類や遊戯に見出すことのできない競馬だけの特異な面白さと云ふものは潜んでゐるので
あつて、この事を理解して初めて競馬を楽しむと云ふ境地にはいることができるのだ。
同じく勝馬を当てたとしても、まぐれ当りと研究の結果狙ひ当てたのとでは、そこに大
きな気持の隔りがある。まぐれ当りなら結局はそれによつて金を儲けたと云ふだけの喜び
にしか過ぎない。それが研究の結果だとすると、金を儲けた以外に自分の合理性の追究が
見事に効を奏したと云ふ金銭以上の大きな喜びが伴ふ。これが競馬ならでは味はふ事の出
来ない喜びなのであつて、この喜びに迄到達できず。単に儲けづくだけの喜びに終始する
くらゐなら、寧ろ馬券で儲けやうなどと云ふ量見を起さずに、人それぞれの商売にいそし
んで、その商売に依つて儲けることを考へるに如くはない。
尤もいくら研究しても損することもある。しかしそれは研究したために損をするのでは
なく、研究が中途半端か、偏つてゐるためか、さもなければ時として起る偶然の事故――
つまり落馬とか、失格とか云つた結果のために損するのである。研究の結果狙つた馬が負
けて損した場合、その人が研究心強く、反省力盛んな人である限りは、容易に自分の買つ
た馬の負けた理由を見出すことができるのが普通である。そして自分の研究の結果の不満
足だつた事や偏つてゐた事を自覚して、次の機会には更に一層抜かりなく合理性を追究し
て、勝馬を発見しやうと云う気持になる。
これなら損は損でも、損して尚ほそこに道を楽しむ喜びが心の何処かに有る筈であり、
諦らめることも容易だし、希望も残されてゐる。これに反して何等の研究もなしに買つた
馬券で損したのだとすれば、実に無意味に金をなくしたも同然で、例へば我々は競馬の各
レースごとに、全く何等の実力なく、どう理窟を歪めて考へてみても勝馬と見做すことの
不可能な馬にさへも何票かの票数の入つてゐるのを目撃する。恐らくこれ等の馬の投票者
は理窟などを考へて馬券を買つてゐるのではないと思ふが、果してレースになつてそんな
馬が、スタアト直後から些さかの良い所もなく、ただ単に他の馬の後について、馬場を廻
つたに過ぎないと云ふやうな光景を見せつけられたとしたならば、その馬に投じた馬券は、
実に競馬に於ける昂奮の代償にさへならないではないか。そしてその次の機会に買つた馬
券もまた何等の研究に拠るのでもないとしたならば、その人のそのレースに対する関心は、
実に当てのない空漠たるものではないかと想像されるのであつて、これではおよそ競馬を
楽しむと云つた境地から遠く隔つたものと云はなくてはなるまい。
研究しても落馬や失格の偶発的事故のために、その合理性が覆されるものでは詰らない
と考へる人もあるかも知れないが、実際に於いて落馬や失格がさう無闇とあるものではな
い。競馬の合理性が覆されるのは極めて少ない例で、これをさへ恐れるほど大事に取るや
うな人なら、所詮競馬はその人の性に合はないとでも云ふよりほかはなく、さう云ふ人は
最初から競馬場などに近づかない方がよい。
さて以上述べたやうに、これから競馬へ行つてみやうといふ人は、興味の重点を馬券の
損得と云ふ所におかずに、勉めてレースそのものの合理性、時にその合理性が覆されたり
もするレースそのものの面白味を味得するやうに心懸けていただきたい。それが競馬を楽
しむ道であり、金の損得よりも競馬を楽しむと云ふ気持は、やがてそれが競馬で損をしな
くなると云ふ秘訣でもある。
かう云ふことは言葉だけでいくら云つてみても、これから初めて競馬を見に行かうと云
ふほどの初歩の人には、よくは呑みこんで頂けないかも知れないが、兎に角競馬と云ふも
のはレースの大半が合理的に勝敗を決せられるものであり、その合理的な勝馬を発見する
ことに競馬独特の無限の興味が潜んでゐるのだと云ふことを念頭に置いて、その上で馬券
に手を染めるがよい。
そこで此の合理性によつて勝馬を見つけ出すと云ふことに慣れるためには、初めて競馬
へ行く人は、単独で馬券を買ふよりも、この道で相当の経験を積んだ先輩の指導――つま
りコーチを受ける方が賢明である。勝馬予想を参考にするとしても、そこの第一位なり第
二位なりに挙げられてゐる馬がその程度に問題にされてゐる理由を、大体なりとも推察の
できる人が一緒にゐてコーチしてくれるとすれば、馬券の損得以上の競馬そのものの妙味
を理解することも早いに違ひない。
しかし先輩とかコーチとか云つてみたところで、その先輩が余り競馬の合理性と云ふや
うなことを重視しないやうな人であつては困る。そんなコーチなら寧ろ受けない方がまし
なくらゐなもので、そこで初めての人にコーチは必要ではあるが、それには良いコーチを
求めるやうに注意しなくてはならない。
こつちが未経験なのに、コーチの良否を見定めたり撰択したりすることはできないと思
ふかも知れないが、事実は必らずしもさうではない。それはその人のコーチの仕方だけで
も感じることが出来るもので、例へば諸君が競馬に未経験なことを知つてゐながら、矢鱈
に単勝式の馬券をすすめたりする人があつたとしたら、さう云ふ人はコーチとして充分親
切な人ではない、従つてよいコーチではないかも知れない。
仮りに、このレースで買ふならこの馬を買つてみろ、などとコーチされて、そこでその
馬の有望な理由を聞くとする。その時コーチその人の性格なり、諸君との親密の度合ひな
どによつて、必らずしもコーチの説明の仕方は一様ではないであらう。人によつては得々
としてその理由を説明してくれるかも知れないし、人によつてはうるささうな顔をして余
り多くを云はないかも知れない。だからかうした事実によつてはそのコーチの良否は判断
できない。得々として説明してくれる人よりも実際はうるささうな顔をした人の方が競馬
に通じてゐないとは限らず、第一そんな説明を聞いたところで、競馬に未経験な人にはそ
の説明が肯綮に当つてゐるかどうかが判断できないのだから、そんな説明を聞くことによ
つて、コーチの競馬通を試してみる必要などはない。それに聞いても余り深く判断できな
いのだとすれば聞くことが失礼にも当るわけだから、そんなことは控えた方がいいが、た
だ競馬場に行く前とか食事の時などに、呼馬と抽籤馬の差別とか新呼と云ふのは何だとか
ぐらゐの質問が却つてその人の競馬知識を試すのに良い場合が多い。
なかには一年ぐらゐも競馬場に通つてゐて一かどの通を振りまきながら、この呼馬、抽
籤馬、新呼ぐらゐの種別さへよく知らないでゐるやうな人がゐるから、そんな程度の知識
しか持合はせてゐないやうな人だつたら、それはコーチとして充分信頼するには足りない。
初めて競馬へ行く前に、呼馬、抽籤馬の種別の知識ぐらゐはよく理解しておいて、些さか
狡猾なやうではあるが、コーチしてくれやうと云ふ人に、そんな質問を発して、その人の
競馬知識を試しておくのも、諸君の安全のためにはやむを得ないかも知れない、何しろそ
のコーチが悪ければ、みすみす損をするやうな結果になるかも知れないのだから、その程
度の狡猾な質問は許されて至当である。
コーチが良いと悪いとでは、同じ損をするにしても損の程度に大分相違もできてくるし、
将来の勝馬の選定の方法にさへ影響してくるのだから、出来るならあの人なら間違ひはな
いとせめて友人間からなりとも云はれてゐるやうなコーチを求めるのが良策である。
尚ほその上の注意としては、自分が競馬が未経験ならはつきりとその事を言明しておく
べきことで、何か聞き齧ぢりの知つた風のことでも云つたりすれば、それが相手の感情に
影響して行くことは必定で、初めその人は極めて親切な気持でコーチしやうと思つてゐた
やうな場合にも、諸君の態度一つに依つてはその親切気が薄らがないとも限らない。コー
チを仰ぐといふからには、兎も角もその点では先生と生徒も同然なのだから、よきコーチ
を求め得た上は、飽くまでも素直にその人の意見を聴くべきである。
新聞予想の見方
近頃では都下の大新聞で勝馬予想を掲げない所は殆んどないと云つてもよい。そこで競
馬に初歩の人は馬券を買ふに当つては当然これ等の勝馬予想を参考にするであらう。新聞
を参考にすると云ふことは決して無意味なことではない、と云ふよりも寧ろこれは初歩の
人にはすすめたき事の一つでさへあつて、予想担当の競馬記者はそれぞれの方法と努力と
を以て適中率のよい勝馬予想を書かうと心がけてゐるのだ。決して無責任に出鱈目な馬の
名前を羅列してゐるのではない。若しも初歩の人が良きコーチを持たず、新聞などの勝馬
予想をも参考にするのでないとしたならば、全く可い加減な感じだけで、大した拠りどこ
ろもなく馬券を買ふといふ事になる。それでは一枚廿円の馬券に対しては余りに無謀であ
り冒険である、即ち新聞予想を或る程度まで尊重し、参考にするといふことは特に初歩の
人には極めて必要のことである。
しかし一口に新聞予想といつても、担当記者の性格なり、信念なり、勝馬探求に於ける
研究方法の相当なりによつて、同じく合理性の追究から出発するとしても、予想に挙げる
馬の名前は必らずしも一様にはいかない。甲の新聞では殆んど問題にもしてゐないやうな
馬を、乙の新聞では第一位に推してゐると云ふやうな例も大して珍らしくはない。同じ合
理性の追究から出発しながら、結果に於いてそれ程の差違を生ずると云ふことに、一見奇
異の感を抱く人もあるかも知れないが、そこが競馬の難しい所であり、馬券の複雑極まり
ないところである。
だから時には各新聞で第一位に挙げてゐる馬が殆んど全部違つてゐるやうな事もあり、
たつた一つだけの新聞がAといふ馬を一位に推し、他の新聞は悉くBと云ふ馬を一位に挙
げてゐるやうな際に、レースの結果は俄然その一つだけの新聞で予想してゐたAが一着す
るといふやうなこともある。
かうなると同じく新聞予想を参考にすると云つても、それ等の予想に対して殆んど何等
の批判力も持たない初歩の人は、それならどの予想に信頼すればよいのか大いに迷はざる
を得なくなる。甲の新聞ではAを挙げ、乙の新聞ではBを挙げ、丙の新聞ではCを推して
ゐる。さういふ際に総ての新聞の予想を読むとすれば、Aを買ふべきか、Bを買ふべきか、
或ひはCを買ふべきか、徒らに眼移りして、その撰定に苦しむことにならう。こんな事で
苦しむことになれば、結果はただ迷ひだけを多くするために多くの新聞予想を読んだだけ
のことにしかならなくなる。迷ひを少なくするために新聞予想を読むのが、却つて迷ひを
多くする結果になるのだとしたらこんな莫迦々々しいことはない。
そこで初歩の人が新聞予想を見るなら、総ての新聞に眼を通すと云ふことは止めた方が
いい。殊に六大新聞予想比較表などと銘打つた印刷物に余り興味を持つ事は賛成できない。
新聞によつて予想の書き方の形式は違ふが、註釈入りの予想などだとすると、その註釈を
読めばその新聞の第一位の馬が必らずしも有力でないと云ふ事を感得できる場合もある。
それは予想記者の逃げ言葉であるとしても、例へばあるレースに際して茲はABCの三馬
ながら優劣をつけ難い所で、ただ前の着順だけに基づいてAを一位に挙げはしたものの、
買ふならBが狙ひ所であらう、といつたやうな註釈が入つてゐたとすれば、その予想記者
の気のある馬は実はBと云ふ馬の方であることがわかる。それが馬名だけをずらずら並べ
た予想比較表と云つたものでは、予想者のそんな気持は推察もできず、時には予想者に対
して気の毒なやうな場合さへもないではない。
と云つたわけで、初歩の人が新聞予想を読むのは前述の如く結構なことではあるが、そ
れは総ての新聞を読むと云ふのでなく、各新聞のどれでもいいからただ一種に限定するこ
とが肝要である。どれでもいいからと云ふのでは諸君は何か頼りないやうな気がするかも
知れない。しかし実際の所現在の各新聞の勝馬予想の優劣を決定することは極めて困難で
ある。
仮りに一季間か二季間ぐらゐの適中率がよかつたとしても、今後も尚ほその適中率の各
新聞中に於ける第一位を保持することができるかどうか疑問であり、十一レース中の幾レー
ス適中と云つた適中率に於いては幾分劣ることがあるとしても、その適中した勝馬が他の
新聞予想の適中勝馬よりも好配当が多いとしたならば、適中率は兎も角儲かつた点ではそ
の新聞が第一と云ふことにもなる。さうかと思ふと第一位に挙げた馬の単勝式適中は幾つ
もなかつたが複勝式でなら殆んど大抵当つてゐると云ふやうな場合もある。つまり甲の新
聞の予想の第一位を単勝式で買ひ通せば、外づれた馬も相当に多いが適中した勝馬の配当
が多かつたために儲けとなり、複勝式では損と云ふ結果も起り得る。これに反して同じ日
の乙の新聞の予想の第一位を単勝式で買ひ通せば大分の損となるが、複勝式で買ひ通せば
僅かに一鞍ぐらゐが外づれただけで相当の儲けになるといふこともある。即ちこの甲乙の
新聞予想の優劣のつけ方は、単勝式複勝式の限定を加へない限り全く不可能の事とは云は
なくてはならない。
各新聞予想の大体の傾向、長所短所を指摘することはさして難しいわけでもないが、い
づれにしても予想その物としての優劣は決定し難い。ある新聞予想は比較的本命主義であ
り、ある新聞予想はともすると人気馬を嫌ふ傾向を示す。しかしそれは単に傾向だけに過
ぎないことで、特に初歩の人にはその新聞がよからうといふ程の自信を以てすすめ得るも
のはなささうだ。そこで新聞予想はどれでもいいから一種に限定せよと云ふのだ。
そして最初のうちはその予想を参考に、レースの経過を観察し、その結果に示される実
際の勝馬と入着馬とその他の馬とを、予想に挙げられた各馬と比較対照することを一種の
勉強の如く心懸けた方がいい。勉強と云ふと語弊があるが、競馬で勉強することはとりも
なほさず道を楽しむことになるのだから、それ程努力的なものではない筈である。
かうした予想とレースとの対照は次第に予想の利用法を自ら諸君に会得させることにな
るであらう。そして少なくもレースの半ば以上に於いては、予想に第一位、対抗馬、穴と
云ふ風な順に挙げられてゐる各馬の実力が、実際は1、2、3と云ふ風な、それ程の懸隔
を持つものではなく、殆んど力量互角とさへ見てよいのではないかと云ふ場合の多いこと
にも気づくやうになるであらう。
云ふ迄もなく予想は鵜呑みに信頼すべきものではない。これは批判的に参考にすべきも
のである。従つて初歩の間はやむを得ないとしても、なるべく速やかに新聞予想を批判的
に見られるぐらゐの気持になるやうに心懸けられたい。
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