馬券の金は小遣銭が限度

 競馬へ行くのに金はそのくらゐ持つて行つたらいいかと云ふのに、これはその人の収入
なり富の程度なりに従ふべきもので、その額は決定的に答へるわけにはいかない。月に千
円の小遣を使つてゐる人と、月に三十円ぐらゐしか小遣を使つてはならぬ人とでは同日に
論じる事のできないのは云ふまでもないが、いづれにしても競馬といふものは絶対に小遣
銭の範囲内で楽しむべきものである。

 小遣銭の範囲内でやつてこそ競馬は楽しめるのであつて、これが度を越えると最早楽し
みよりも寧ろ苦しいものになつてきはしないだらうか。この金を損したら生活にも影響す
ると云ふやうな金で馬券を買ふとしたら、少なくも虚心坦懐な気持で買ふことの出来ない
のは当然で、買つてもレースを見てゐるのさへ苦しくなるに違ひない。

 しかもその一種苦しい辛い気持を冒してもなほ無理な金を工面しては競馬へ出かけてゐ
る人もあるやうである。さうなると苦しくとも辛くとも競馬に惹きづり寄せられるやうな、
どうにもならない気持になるのであらう。さうした事は単に競馬の場合だけではなく、酒
とか女とかその他の遊びごとに於いても、最早楽しいよりも苦しい程の気持であるにも拘
はらず、づるづると深入りして行く人のあるのと同じことである。

 かうした競馬地獄に堕ちこむことのないやうに、これから競馬をやらうと云ふ人は、最
初から競馬で儲けやうと云ふ考へよりは、競馬を楽しむと云ふ気持を養ふやうに努められ
たい。楽しむとならば、その代償としてもある程度の損失は諦らめ得られる。諸君は映画
を見に行つても芝居を見に行つても、或ひはカフエなどに行くとしても何事に依らずそれ
相当のつひへを招くのであるから、競馬に於いてもまたある程度のつひへは覚悟すべきである。
その覚悟があつてこそ、信ずるところに従つて勇敢に馬券も買ひ得るのであつて、その結
果儲けることにでもなれば、その儲けた気持はまた格別といふことになるのである。

 しかし幾ら損は覚悟でも、心に自制心なく無節制に馬券を買つてゐたのでは、いつのま
にか損失がかさんできて、結局楽しみが楽しみでなくなる。そこで初歩の人は最初からそ
の分に応じて、損してもいい一定の金額をきめておくのが悧口である。一日幾らときめて
もいいし、一場所幾らときめてもいいし、或ひは一シーズン幾らときめてもいい。兎に角
損失が予定の額に達したら、その期間中は競馬を休む方が間違ひがない。競馬行きを休ま
ないでも馬券買ひは休むべきであらう。

 そしてその金額は絶対に小遣銭の中から捻出すること。例へば一場所二百円は損しても
いいと予算を立ててゐる人が初日に百二十円損したとして、二日目から最終日まで八十円
ではとても心細いと考へるなら、馬券買ひは返り初日まで休むとか、或ひは後は優勝日だ
けにするとか、も少し綺麗さつぱりと二日目にも馬券買ひを続けて、それで予定の二百円
を損してしまつたとしたら、優勝日にも何にも未練を残さず次の場所までは馬券を買はな
いと云ふのでもよい。さう云ふやり方は人それぞれの考へでよいと思ふが、要は損をして
もいいと決めてゐる予算額以上に無理をしないことである。

 予算をたてたら、それ以上の額を競馬へ持つて行くことも勿論いけない。いくら損して
もいい一定の額をきめておいても、それ以上に金を持つてゐればそれだけで止めると云ふ
わけには行かない。損してはならぬ金にまで手をつけてしまふのが人情だからである。

 それから競馬場に於ける友人などどの貸借りと云ふことも慎んだ方がいい。人によつて
は金を借りられる事を非常に厭がる。普段なら何でもない場合でも、競馬場では率が曲る
などと云つて、良い顔をしない人が多い。それに損してもいい一定の額をきめておきなが
ら、それをみんな損してしまつたので、また人から借金して馬券を買はうなどと云ふ量見
は余りにも自制心がなさ過ぎる。それ程までに自制心がないとすれば、いくら競馬に使ふ
金の額を一定したところで、何の役にも立たないといふ事になる。戒しむべき事の一つで
ある。


穴場の間違ひ

 競馬場では何と云つても気持が昂奮してゐる。そのためにどうかすると穴場の穴を間違
へる。五番の穴へ二十円を入れた積りのが直ぐお隣りの四番の穴だつたりする。これは相
当馴れた人でも、うつかりすると間違へる。まして初歩の人は充分に気をつけなくてはい
けない。

 また一種の心理的な錯覚のために間違つた馬券を買ふこともある。例へば自分の気持と
しては五番の馬を買ふつもりでゐる。ところが競馬場で偶然遇つた友人などに、このレー
スの穴は三番だよ、などと云はれる。さうかなア三番はそんなに強いかなア、と一度は自
問してみるけれど、やつぱり最初にきめた五番を買はう、さう決心をつけて窓口へ行つて、
買つてしまつて気がついてみると、それが五番ではなく三番なのである。これは穴は三番
だよと云はれた言葉が心理的に潜在して、かう云ふ間違ひを起すのである。
「これは間違つたのです。五番を買ふつもりだつたのに、うつかり此処へ手を入れてしま
つたのです。ね、お金を返して頂けませんか。五番の馬券と換へて頂いてもいいのです。
あら、いけないの。困つちやつたわねえ。」

 そんなことを云つて嘆いてゐる女の人の姿などを時には窓口に見かけるやうな事もある。
かうなると一旦買つた馬券は、他の馬券とは換へられない、と云ふやうな規則も一通り心
得ておいても損はないであらう。

 どうかすると払戻口で、「この馬券は違ひますよ」などと突返されながらも、「いいえ、
そんな筈はありません。私は五番を買つたのです。五番を買つたに違ひありませんわ。」
と未練がましく押問答をしてゐる人の姿などもたまには見かける。そんな人は恐らく五番
を買ふ積りでゐて、うつかり隣りの窓口の四番か六番でも買つてしまつたのに違ひない。
払戻所へ行く迄自分の買つた馬券に気づかないやうなことだつてたまにはあるのである。
二十円と云へば、そんなに安つぽい金ではない。かうした間違ひをしないやうに気をつけ
るべきである。

 間違へて買つたら、その馬が大穴を明けて、意外の配当にありついたなんて話もたまに
はあるけれど、まぐれ当りと云ふものに同感することの出来ない自分などは、さうした幸
運を競馬道のためには充分には喜び得ないのである。

 窓口へ金を入れる前に、諸君はもう一度出馬表を見直して、自分の買はうとしてゐる馬
番号を確かめ、それから更に窓口の上へかかつてゐる番号と照らし合せるがよい。競馬場
では兎もすると気持がそはそはし勝ちになる。常に何事にも心を冷静に保つやうに気をつ
けられたい。


注意すべき馬券詐偽

 競馬場にはフアンを相手の競馬詐偽師が相当に入り込んでゐる。大抵一人で一枚を買ふ
一等館ではそれ程ではないが、乗合ひの多い二等館の穴場ではこの種の詐偽に引つかかる
連中が相当に多い。

 詐偽の方法は色々あるらしいが、一例を挙げると、自分が五円だけ誰かに乗せて貰はう
と思つて行つた窓口で、頻りに乗合ひを勧誘してゐる男がゐる。そこでその男に買つた馬
券を見せてもらふと、まさにその窓口の番号の馬券に相違ない。そこで五円その男に預け
て、はぐれないやうに一緒についてスタンドへ行く。

 やがてスタアトが切られる。自分の乗つた馬がなかなか鮮やかな脚捌きで先行馬に追つ
て行く。既に直線コース。遂にその馬が先駆の馬を追ひ抜いてゴールになる。審判台前の
標柱にスルスルと勝馬番号が上る。まぎれもなく自分たちの買つた馬だ。
「一ですよ。勝ちましたよ。」
 とわくわくしながら五円預けたその男をせき立てて払戻所に行く。ところが払戻所へ行
かないうちに、妙にその男がそはそはし出して、
「おや、ないぞ、落したかな。」
 などとぶつぶつ呟きながら、袂や懐ろを手探りしてゐる。そして結局その男は今の馬券
をなくしてしまつたと云ふのである。
「そんな莫迦なことがあるか。なくしたなら弁償しろ。貴様、スヰツチなんだらう。」
 一緒に乗合つた仲間の一人が到頭おこり出して、そんなことを喚き出す。

 スヰツチと云ふのは電気のスヰツチの切換へから出てゐるらしく、つまり馬券詐偽の一
種なのである。とどのつまり乗合つた連中は警官詰所へその男を連れて行つて、その男の
懐ろを調べて貰ふ。しかしその男の懐ろからは馬券一枚小銭一つ出てこない。蟇口一つ持
つてゐない。その男は乗合つた連中の知らない間に、その馬券は仲間に渡してしまつてゐ
るのである。

 そしていくらそんな男を警官詰所に連れて行つてみたところで、乗合つた連中の損失は
恢復もされなければ弁償もされない。ただその男が警察に連れて行かれるだけのことであ
る。そしてその男に乗合つた不幸な連中は、折角狙ひ当てた配当金が貰へないどころか元
金までもふいにしてしまふのである。馬券詐偽にひつかかつたのである。

「さア行きませう、行きませう。」
 などと云つて後ろから此方の背中に手を当てて押してくるから、安心してゐるうちに、
ひよつと気がつくと、自分の後ろから押してゐるのは全くの見ず知らずの人で、自分が馬
券に乗合つた当の相手の姿は見えない。これは馬券を持逃げされたのであつて、矢張り馬
券詐偽の一種である。相手をごまかすために、背中などを後から押して行くところから、
この馬券詐偽の方法にはオセオセなどと云ふ妙な名称が与へられたらしいのである。

 と云つたやうなわけで、競馬場に詐偽は相当に多い。諸君はこれ等の悪漢に充分気をつ
けなければならないのは勿論だが、それよりはいつその事見ず知らずの人間との馬券の乗
合ひを避けると云ふことが、これ等の詐偽に引つかからない最良の方法である。

 時に乗合ひもよろしい。しかしその時は見ず知らずの人と組まずに、なるべく知合ひの
人と組むやうにしたいものである。

 一緒に乗合つた人を、ひよつとしたら此の人は馬券詐偽の仲間ぢやないだらうか、馬券
を持逃げされはしないだらうか、などと疑心暗鬼にでもなつてゐればレースを見てゐる楽
しみも減殺される。此方が人を乗せて馬券を預つてゐる場合なら、今度は相手の方でそん
な疑惑を自分に向けて用心してゐるかも知れない。人を見たら泥棒と思へ、と云ふ言葉が
あるが、たとへ他人にもせよ、同じ趣味のもとに同じ場所にきてゐて、同じ馬を一緒に買
つてゐる人を、仮りにもそんなふうに疑つたりしなくてはならないのは、実に不愉快で憂
鬱な話である。


場内コーチ

 関東ではそれ程にも思はないけれど関西の穴場へ入ると所謂コーチ屋が相当にうるさい
「旦那、ここは二番で勝負して御覧なさい。あの馬が目一杯に追つたら、てんで取つつけ
る馬はないんですから。」
 さも人には内緒の特別な情報ででもあるやうに、このコーチ屋が傍へ寄つてきて、声を
潜めて云ふのである。

 競馬場では誰だつて迷ひ易い。絶対の確信などと云ふものを持てるものではない。だか
ら穴場へは八番を買ふ積りで入つても、それで二番の方が強味があるのではないかと云ふ
気がしてきて、つい心がぐらついて二番を買つてしまふ。するとレースの結果は自分の考
へた通り八番の一着で、二番は着にも来ない。二番が着にも来なければそれでよいのだが、
時にはそのコーチ屋の指摘した馬が一着にきたりすることもある。

「どうです?旦那、やつぱり二当が来たでせう。」
 そのコーチ屋がやつてきて得意さうな顔をする。しかしそんな穴場まで出てきて、人に
勝馬を教へてゐるのはコーチ屋の趣味でも何でもない。金がほしいからやつてゐるので、
得意さうな顔をしたその次には、その馬の配当の何分の一かの謝礼金を貰ひたいと云ふの
である。外づれた時は何の責任を持ちもしないのに、当つた時は礼金を寄越せと云ふのだ
から、これが商売なら相当に虫のいい商売だ。

 そんな金はやらなくともいいだらうけれど、実際にそのコーチ屋の言葉で取つた配当だ
とすれば、先づ大抵の人なら幾らかは金をやることになるする。とそのコーチ屋はいい旦
那でも見つけたやうな積りで、レースごとに、旦那旦那と云つて傍へ寄つてくる。

 事実さう云ふコーチ屋は馬丁ぐらゐに一通りの予想ぐらゐは聞いてくるらしい。しかし
馬丁の予想などは、特にその馬丁の扱つてゐる馬でも出走馬のなかにゐる場合に正直に教
へてくれるのならいいけれど、大体はこの道で少し苦労したフアンなら、誰にでも予想を
くだせる程度の予想と大した違ひのあるものではない。

 それがどうかした拍子で、そんなコーチ屋の指摘した馬が二三度当りつづけて、実は私
は厩舎で飯を喰つてゐる人間だとか、年ぢう何処そこの厩舎に出入りしてゐる人間だとか
云はれると、普通のフアンは大抵これを信じてしまふ。最初よかつたために飽くまでその
男の言葉を信じてゐて、しまひには手痛い損失を重ねたと云ふやうな例も聞いてゐる。

 その男がそれ程馬券に確信を持つてゐるなら、何もそれを人に教えて礼金に有りつかう
などと考へずとも、それこそどんな無理をして工面した金ででも自分で馬券を買つて自分
で儲ければよいわけである。それが出来ないのは、大抵はかう云ふ男は馬券買ひで失敗し
た男だからであり、自分では馬券を買ふ金にも乏しく自信もないので、そんなコーチ屋な
どをやるのである。そんな男を信用するのは信用する方が悪い。第一かう云ふ男の言葉を
信じて馬券を買ふやうでは、勝馬に対する自分自身の研究と云ふものは全くないことにな
つてしまふ。ただ慾得だけの気持であつて、競馬を楽しむ心とは遥かに隔つたものである。

 自分でいろいろに調べて研究して勝馬を見つけ出すことに、本当の馬券の面白さを感ず
るやうになれば、頭からこんなコーチ屋などは信ずる気にはなれぬものである。しかし馬
券を楽しむと云ふ境地にまだ達してゐない初歩の人は、うつかりするとかうしたコーチ屋
にひつかかる。ついコーチ屋の言葉に耳を傾けやうとする気持になつたりもする。諸君は
いかに穴場などで「旦那、旦那」などと云ひ寄つてくる男があつたとしても、最初からこ
れを相手にしないことが賢明の策である。


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