競馬雑筆

馬券の二枚買に就いて

 昨年の競馬事故の中に於て、根岸に於ける馬券の二枚買に対する検挙位、不愉快な事は
なかつた。春季は、七百人余検挙せられたと云ひ、秋季も相当多数検挙せられたやうであ
る。

 競馬法中、馬券の枚数を制限した条文位可笑しな項目はないと思ふ。単複二枚はいゝが、
複々二枚、単々二枚は違法である。かう云ふことは、我々の常識とも道徳とも一致しない
のである。大抵の法律は、道徳圏の範囲内で罰するものである。道徳は、十まで追及する
とすれば法律は、八位で止まるものである。たゞ競馬法だけは、我々が道徳的に邪しくな
いことを罰してゐるのである。違犯者が続出するのも当然である。

 単複二枚はいゝが、複々二枚はいけない。それは、銀貨と紙幣とで十円盗むのはいゝが、
銀貨ばかり盗んだら処罰するといふのと同じである。

 射倖心を警めるための法律ならば、単複二枚よりも、もつと堅実なる複々二枚の方をな
ぜ処罰するのであらうか。

 複一枚はいゝが、二枚は罰する。かう云ふことも、可笑しな法律である。徳川時代に、
一度に十両までの泥棒は罪が軽いが十両以上になると首が飛んだ。何だか、それと似てゐ
るやうである。

 とにかく、馬券に就いての競馬法は、我々の道徳観念と一致しないのである。誰も悪い
事だと思つてゐないから違犯し易いのである。

 しかし、かう云ふ法律がある以上、それを励行するといふのなら、これは止むを得ない。
たゞ、それを励行するに際しての警察の態度と倶楽部の態度である。

 近代の警察は、予防警察が本位ではないのか、殊に競馬法違犯の如き微罪に於てだ。競
馬法を励行したいと云ふ誠意でやるのなら、なぜ検挙を始める前に、

『馬券の二枚買は、法律の禁ずるところですから、御注意下さい。犯すものは検挙されま
す』

 といふ注意書を、穴場を初め、場内数ケ所に掲示しないのであるか。『のみや』に対す
る掲示などを親切にしてくれる警察が、なぜ二枚買を警告してくれないのか、この方が、
フアンは陥り安いのである。七百人も検挙する前に、なぜ、一言警告してくれないのか、
法の励行が本位なら、七百人を検挙する前に、なぜ警告をしないのか。

 しかし、我々フアンが縁も由緒もない警察に、そんな註文をするのは、無理かも知れな
い。

 たゞ我々がいかにも不審に堪へないのに倶楽部の態度である。倶楽部が、なぜ一言忠告
しないのだらうか、フアンが続々検挙されてゐるとき、なぜ
『馬券を二枚買ふことは、御慎み下さい!』
と言ふ掲示を場内所々に出してくれないのだらうか。

 一人でも検挙されたら、すぐに出してくれてもいゝと思ふ。
『のみや』に対する注意には、用意周到なる倶楽部がなぜ、フアンがもつとも犯し易い競
馬法違犯を警告しないのであらうか。

 七百人のフアンが留置されて、不快なる一夜を、罪ならぬ罪に悶えるやうな悲惨事が起
つてくるのに、倶楽部はなぜ、一枚の掲示をも出さないのであらうか、私は、その点がフ
アンに対して、不親切を極めてゐると思ふ。

 フアンに違法を働かせて、そのために検挙せられるのはまゝよ、なるべく馬券の売上を
増さうといふわけではないと、我々は信じてゐるのではあるが。

 農林省の監督官なども、倶楽部に勤めて二枚買を警告する掲示位出させてもいゝのでは
ないかと思ふ。七百人も罪人が出てゐるといふことは、大問題ではないのだらうか。

 私は、競馬フアンとして、枚数に対する制限の撤廃を望む一人である。然し、その撤廃
が容易でないと云ふのならば、法律は法律としてその適用に手心を加へて貰ひたいのであ
る。然し頓狂な警察官がゐて、それを励行する場合には、倶楽部は極力犠牲者を出さない
やうに、善後策を講ずることがフアンに対する親切ではないかと思ふ。入場者が、七百人
も検挙せられてゐるに拘らず、何等の善後策も取らず、当然出すべき掲示をも出さないと
いふことは、倶楽部当事者の態度としては、遺憾千万といはなければならぬ。今後のため、
どの倶楽部にも、私はお願ひして置く。もし、馬券を二枚買つて検挙せられるフアンは一
人でもあつた場合は、早速穴場その他に『二枚買は検挙されます』といふ掲示を出して一
般フアンを警戒して頂きたいのである。その位の親切は、倶楽部として当然の事だと思ふ
のである。


新抽新呼の前評判

 新抽、新呼の評判位、当にならぬものはない。殊に根岸の新呼キングブラザー、府中の
新抽コレマサなどは、その評判を裏切ること甚だしかつた。

 新抽、新呼は、元来今までレースをしない馬ばかりであるから、調教時計をたゞ一つの
材料としての評判であるが、調教時計といふものが、甚だ当にならぬものである。厩舎に
よつて、時計を出さぬ厩舎もあり、出し過ぎる厩舎もあるのである。

 それに、調教で走つたからといつて、レースでその通り、走るかどうか疑問であり、飼
食の良否、癖の有無、気質の如何など、いろいろ条件が加はつて、レースの実力となるの
であるから、新抽新呼の予想は、至難といはなければならない。

 が、各雑誌各新聞の予想記者諸君は、なるべく断定的な予想を書く必然上、わづかに一
つか二つの同じ材料で、各記者が一斉に書き立てるため、人気が片寄つてしまふのである。

 新抽新呼の予想は、あまり重視しないことが、フアンの方の心得の一つであるが、予想
記者各位も、あまり断定的な筆を弄さないやうに、自重してほしいものである。

 根岸のラツプ、中山のヘキライ、府中のマナヅルなど戦前殆んど評判されなかつた馬が
活躍してゐるのを見ても、新抽新呼の予想が至難であるかゞ分ると思ふ。


競馬場に対する註文

 食事は、府中が一番よくなつた。中山は、いくらかでも、改善の努力が見えるが、根岸
に至つては論外である彼処の食事は『一円で、いかにして一番まづいものを喰はせるか』
と、いふ問題に対する解答を示してくれてゐるやうだ。いろいろの情実があつて、食堂の
改良が出来ないならば、横浜駅で売つている汽車弁当と、支那料理の焼き飯とを、競馬場
内で売らせて頂きたい、これは、ゼヒお願する。フアンもきつと同感に違ひない。

 中山倶楽部にお願ふすることは、便所を拡張して頂きたいことだ。殊に婦人客が、男子
と同じ便所で、他人の出るのを待っている図などは、見られる方も見てゐる方も甚だ辛い。
これは、春季競馬までに、ゼヒお願ひしたい。スタンドの改築まで待てなどいはないで、
ゼヒ早くして頂きたい。正門の横の便所などは、在つても役に立たないのである。僕など
も、中山で便所の順番を待つなど、どう考へても不愉快である。便所に行くのが苦になる
のである。其処に行くと府中や根岸はよい。殊に、根岸の婦人客優待などは我々男性にも
感じがよい。(昭和十一年一月「競馬フアン」所蔵)


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