02 死刑台邸の広々としたリビング。姉妹と四人でいた時だっていいかげん広くて落ち着かなかったが、二人きりとなるとさらに広く感じられる。教科書をすっかり片づけたテーブルに新聞を広げ、俺とキッドはさっきと同じように向かい合って座った。 「くれぐれもシンメトリーに頼むぞ」 「わーかってるって…じゃ、顔、ちょっとこっちに」 言われたとおりに少し首を伸ばしたキッドにケープを掛けてやり、ヘアクリップで両サイドの髪を留めた。目閉じてろよ、と前置きして、霧吹きで少し前髪を湿らせる。中身は水かと思ったが、ハーブウォーターか何からしく、あたりに一瞬ふわりと良い香りが漂った。 飛沫を感じたのか、キッドの閉じた瞼がぴくりと震える。飛沫を指で拭ってやると、僅かに緊張が緩むのがわかった。そういえば、こんなに近くでまじまじと顔を見たことがない。ある意味、貴重な体験だな。 髪と同じ色、漆黒の睫毛が意外に長いことを知る。それは白い肌に濃く影を落とし、妙に絵になるなとぼんやり思う。しっとりと濡れた前髪からは微かにカモミールの香りがした。 …なんだかやけに近くないか。 気付けばキッドの整った顔立ちが、吐息を感じるほど目の前にある。手にしていたはずの霧吹きのボトルは、テーブルの上に置きっぱなしになっていた。いつのまにこんなに距離を詰めていたんだろうか? 普段はまずお目にかかれない、相手に全てを委ねるような無防備な表情が間近にあって、少しどぎまぎする。それはまるで、キスを待つ恋人のようで。 (キスだって?) 自然に唇に目がいく。…いやいやいや。俺は何を考えてるんだ? 「…ソウル?」 薄く開いた唇が自分の名前を形作り、くらりと眩暈にも似たものを覚えた。頭の片隅で、やばい、と思う。これ以上近づけば、きっと取り返しのつかないことになる。理性ではそう分かっていても、何かの引力に囚われて抜けだせない。今の自分は、どこか、変だ。 距離がゼロになる間際、ふいに金色の瞳が見開かれ、互いに硬直したのはほんの数秒。瞬間、側頭部に鈍い衝撃を感じた。我に返ると共に、今度は別の意味でくらっとする。どうやら結構な威力で手刀を打ち込まれたらしい。うあ、と短く呻いて頭を抑えた俺に、キッドの怒声が飛んでくる。 「お、前は!?何を、するつもりだ、戯け!!」 「え?……いや、えっと」 …何だろう? とか言ったら多分もう一発殴られる。かといって、何をするつもりだったかなんて、そんなの俺が聞きたいぐらいだ。 考えろ、考えろ、何でもいいから適当な理由を。痛む頭をさすりながらとりあえず視線を上げる。目に入ったのは、キッドの険しい表情と、濡れて額に張り付いた前髪。咄嗟に浮かんだ言葉は多少反則かなとも思ったが、他に良い言い訳も思いつかないからしょうがない。 「髪の、三本線が、あいかわらずアシンメトリーだなあと思っ」 言い終わる前に再びチョップが飛んできた、今度はさっきと反対側から。…なるほど左右一発ずつでバランスを取ったというわけか?都合両手で頭を押さえて、俺は再び呻くハメになった。 「…ってぇな!ちょっとは手加減しろよ畜生…!!」 ああくそ、この攻撃力はマカチョップといい勝負だ。脳が揺れたんじゃないか。死神の力で本気チョップとか、しかも二発だ、マジでシャレにならない。ぐらつく頭を抑えて項垂れていると、今度は怒声ではなく、まるで生気の無い声が聞こえてくる。 「……どうせ俺は左右非対称のクズ神様だ……」 急激にトーンの落ちた呟きに顔を上げると、ついさっきまでは耳まで赤くして声を荒げていたキッドが、今度はがっくりと肩を落とし、今にも机に突っ伏しそうな勢いだ。ぶつぶつと呟いているのは、自分はゴミ溜め的存在だとか、燃えないゴミの日にでも出してくれだとか、お決まりの口癖。 …あー、鬱スイッチ入っちまった。 迂闊な言動を後悔してももう遅い。鬱モードに入ったキッドをなだめるのが如何に大変かというのは、日頃からリズが愚痴っているからよく知っている。 「あ〜…えっと…悪ィ…その…」 こういうときは何て言えばいいんだ?無駄に広い室内に落ち着きなく視線をさ迷わせて、結局何も取っ掛かりを見つけることはできず、やり場を無くした手はただガシガシと頭を掻くだけに留まった。面倒くせぇなあもう、どうしたらいいんだよ。とにかく自信に繋がりそうなことを言ってやればいいのか? 「…俺は好きだぜ、その、髪とか、えと、そうそう今日の服も左右対称だし、邸内の蝋燭もキッチリカッチリ同じ長さだったしトイレットペーパーも綺麗に三角に折ってあったな、額縁も傾いてないし本棚の配置まで左右対称でもうほんとシンメトリーバカでお前はすごいよ、だから機嫌直せよな…!」 もう何を言ってるのかよく分からないが、自分で突っ込みを入れる気にもならない。とにかく彼がいつも気にしていそうなことを、半ばヤケになって羅列してみただけだ。効果の程は、どうなんだ? キッドが俯いた顔を少し上げる。漆黒の隙間からちらりと覗いた金色。拗ねた子供のように上目遣いで見つめられて、訳もなく心臓が跳ねる。 「…シンメトリーに、なっているか?」 「あ…ああ、うん、屋敷内も、お前も、ちゃんとシンメトリーだぜ」 「そう、か」 小さく一つ息をついて、キッドは再び顔を上げた。目には生気が戻っている。…どうやら鬱モードを解除できたらしい。思ったより素直に聞いてくれてよかったと内心安堵していると、額に三発目のチョップが振ってきた。今度は、軽く。 誰がバカだ、と、まだ少しだけ不機嫌な顔をしたキッド。あれだけ訳の分からない台詞のなかで、そんなところをしっかり聞いていたのかと、妙に感心した。 仕切直しだ。 外れてしまったケープをかけ直してやる俺の手を、キッドの瞳が追っている。 何か言いたげな顔をしている、と思う。じっと見られると何か落ち着かない。言いたいことがあるなら言えよ、と目で促すが、一瞬だけ絡んだ視線はすぐに外された。 …なんなんだよ。 まあいいか、そう気を取り直してハサミに手を伸ばしたところで、逸らされた視線が戻る。 「…ソウル、その、」 「ん…?」 キッドが何か言いかけて、ハサミを構えた手を止める。言葉の続きを待つが、しばらく口篭った挙句、なんでもない、と呟くように言って、また沈黙が下りた。 ああ、もう、だからなんなんだよ。言いかけて止めるとか、COOLじゃねえな。気になるだろうが。 今日はなんだかおかしい。モヤモヤして気持ちが悪い事ばっかりだ、俺も、こいつも。 再び目を閉じたキッドの、柔らかな前髪を軽く撫でてみる。さっきから継続中の不可解な動悸は治まりそうに無い。どころか、余計に早くなって。 落ち着け、ハサミがぶれるだろ。 そう自分に言い聞かせる。手にしたハサミをちゃきちゃきと意味もなく開閉させて、なんとか気を落ち着かせようと試みる。取り敢えず、考えるのは後回しにしよう。そう決めて、白いラインの入った前髪を梳いた。 |