01 芝を踏む気配がして、重い瞼を開けるとキッドが傍らに立ちこちらを見下ろしていた。ちょっと前にもこんな光景を見たような気がするよなあ、丁度このアングルで、とぼんやり思い出していると、起きろ、とキッドの声が響く。腰に手を当て自分を覗き込むように上体を傾けているキッドの表情は、やっぱり逆光になっていてよく見えないが、あまり上機嫌ではないようだという事だけは、その剣呑な声を聞けば分かる。 「復帰早々サボリとは、いい度胸だな」 午前のコマを一つ二つ飛ばした事にご立腹の様子で。というか、今はまだ授業の最中のはずだが、お前はなんでここにいるんだと逆に問いたい。そもそも俺が朝登校したとき教室にはリズとパティしか居なかったはずだし。訝しげな視線で察したのか、キッドはさも当たり前の様に理由を述べた。 「俺は今登校したところだ」 額縁の傾きが気になってな、と。形のいい顎に指を沿え、何事か深く思案するような顔で言うことがソレかよと脱力しそうになる。額縁やら蝋燭やらのせいでキッドが遅刻するのは確かに珍しいことではないが、死武専トップの死神様の息子さんともあろうものがこんな体たらくでいいんだろうか。 でもまあ教室へ向かわずわざわざ第二校庭へ来たって事は、魂感知で俺を探して、ってわけか。 なんてちょっとばかり気持ちが浮き上がる俺とは対照的に、共鳴連鎖の訓練もないのにこんなところにいるからおかしいと思ったんだとキッドは渋面を作る。これはまたお説教タイムへ突入の予感だ。正直遅刻常習犯のお前にとやかく言われたくねえよという言葉をCOOLに飲み込んで、よっこらしょと上体を起こした。 「病み上がりの身体が辛くってもう……」 背を丸め軽く咳き込むマネなどしてみせる。まぁこんな小芝居に乗ってくるほど付き合いのいい奴ではないよな、と思いつつちらりとキッドに目をやった。当然の如くふざけるなと返ってくると思っていたのが意外なことに到って真面目な顔で、まだ本調子ではないのか、なんて言うもんだから逆にこちらが返答に困ってしまう。 どれ、と傍らに膝をついたキッドの手が俺の前髪を掻き分け、スッと額に触れる。若干体温の低いその掌が気持ち良い。片手は自分の額に置き、そうしてしばらく温度差を比べていたが、わからんなと首を捻ったかと思うと額にやっていた手を後頭部に回し、頭ごと軽く引き寄せられた。 額と額がこつりと当たる。 近い。ものすごく近い。彼らしからぬ大胆なスキンシップに、一瞬頭が混乱する。こいつはこの間から俺を混乱させっ放しなんだが、一体なんの罠なんだ? 「熱は……ないようだが」 息がかかるほどの至近距離でそう呟く、その唇の動きに釘付けになり、思わず唾を飲み込んだ。 ……この距離で恋人にキスするなってほうが無理な話だ。うん、しないほうが失礼に当たるよなと一人納得すると、あわせていた額を外し、代わりに唇を近づける。驚いて身を引くキッドと、逃がすまいとして距離を詰める俺と、そんな状態でのキスなんてまあ上手くいくわけがなく。 ガチ、と鈍い音がして口元に衝撃を感じ互いに身を引く。それが互いの歯が接触したことによるものだと気付くまでそう時間はかからなかった。つまるところ二度目のキスは失敗に終わったわけだが、しばらく口元を押さえて呆然としていたキッドが我に返ると同時に手が飛んできて、俺はといえば口ではなく頭を押さえて蹲るハメになった。 「……痛いわ!戯け!」 ……今殴られた俺のほうがよっぽど痛いんだが、それは考慮していただけないんだろうか。 なんていう無言の訴えが通るわけも無く、人が真面目に心配しているのにお前と言う奴は、とキッドの声に刺々しさが増した。どうやら完全に機嫌を損ねてしまった様だ。キッドは一つ大きく溜息をつくと芝の上に姿勢を正して座る。……何で正座? ぽかんとした顔でその様子を見ていた俺にキッドが口を開く。そもそも自己管理がなっていないから体調を崩す事になるんだ大体こうやって普段から事あるごとにサボっているから鍛え方が足りてないんだろうちょっとそこに座れそうじゃないキッチリ正座だ!いいか鍛錬と言うものは当座は喜ばしい物ではなくともだな、と矢継ぎ早に投げられる言葉に思わず身体が従って、気がつけば芝の上に正座して向かい合い、なんだかよくわからないままキッドの説教を受けている。 拍子抜けするほどにいつものキッドだ。普通あんな事があったら照れくさいとか気まずいとかそういった感情が先に立つもんだろうが、そういう可愛らしさはないのかね、……ないんだろうな、と目の前の恋人を半ば諦めの混じった思いで見据える。 「……聞いているのか?」 不機嫌に睨み返された。可愛げとかそういう単語とはまったく無縁な、極めて平常通りのその様子は俺を少し安心させると同時に軽く落胆もさせる。そりゃあそうだ、あんな告白めいた言葉を投げかけておいて、再会したとたんこれじゃあな。あれはキッドにとっては大した意味を成すものではないということかもしれない。 こっちはおかげさまでやたらと落ち着かない週末を過ごしたんだよ、おまけに久々に登校してみればお前は来てないし。そんな風に空白を作られると変に意識しちまって、これはもしかして俺のせいなのか、だとしたらどんな顔してキッドと顔あわせればいいんだろなんてまったく勘違いもいいところだ。言葉一つで振り回されている自分がなんだかバカらしくなる。 そしてちょっとばかり調子に乗ってみた挙句がこのザマだろ、ほんと俺は時々何もかも投げ出したくなるよ、取り敢えずは確実に血の巡りが悪くなってきたこの両足を、だ! だからこの正座ってやつは嫌いなんだ。さっきからじわじわと痺れが足を蝕んでいくのをなんとかやり過ごしてきたが、さていつ逃げ出そう、今逃げ出そうとタイミングを計っているうちにもう感覚がなくなりつつある。キッドの方はといえばキッチリ正座のうえピシッと背筋を伸ばし、懇々と説教を続けている。よくそれだけの言葉が次から次へと出てくるもんだと感心さえするが、さすがにそろそろ限界だと思ったところで遠くで午前の授業の終了を告げる鐘が鳴った。 「……と、もうこんな時間か。思ったより長居をしてしまったな、……どうしたソウル。妙な顔をして」 気付くのが遅ぇよ、と言うより先に、俺は予てからの希望通り芝の上に両足を投げ出して大の字に倒れこんだ。急激に血が通い始めた足先に徐々に感覚が戻ってくるに従い、猛烈な痺れと刺すような痛みが襲ってくる。声にならない呻き声をあげてのた打ち回る俺を、きょとんとした目でキッドが見下ろしている。死神の身体ってやつは足の痺れとも無縁なのかそれとも普段の鍛錬の成果なのか、機会があったら聞いてみたいものだが、今の俺にとっての最重要事項はまずこの痺れをどうにか治める事、だった。 |