イノニア


01

 鍵はギターの練習のためと言う名目で拝借した。
 扉の前で足を止める。そこが確かに目的の場所だということなど今更確認する必要もない筈だのに、ルームプレートを見上げる彼の表情は常になく硬い。
 時間にして数秒にも満たない僅かな間の後、何らかの覚悟を決めたかのように手を伸ばす。差し込んだ鍵が鈍い音を立てて回り扉が開く、とほぼ同時に素早く内側へ身を滑らせ元通り施錠して、ソウルは小さく息を吐いた。
 慣れた場所であるにも関わらず、いつでも軽く緊張する。
 静まり返った教室内にぐるりと視線を巡らせる。階段状に配置された机には、勿論今は誰も座ってはいない。
 持ち込んだガットギターは準備室にある。
 ソウルの足はしかしそこへ向かうことはなく、室内窓側にある一台のグランドピアノの前で動きを止めた。
 手にした薄い鞄にはギタースコアが入っているし、それを実際なぞってみる事もある。
 アパートの壁は意外に薄く、そして彼のパートナーはやや神経質だ。こと音楽に関心の薄い同居人に気を使いながらでは思うような練習は難しい。どうせなら、防音設備の整った場所で誰憚ることなく楽譜を音に変えたい日だってある。
(……今日はそう、気分じゃなかった、ってだけで)
 胸の内でひとりごち、鏡面のよう磨き上げられた鍵盤蓋を撫ぜる。
 彼の『気分』はしばしば、弦楽器よりも鍵盤楽器に吸い寄せられる。
 自覚していながらなお、それを認めることは未だできず、誰が問うでもない問いに逃げ道としての答えを用意するのは慣習になってしまっていた。
 その表面を数度、トン、トンと苛立たしげに叩いた指先は僅かな躊躇いをみせた後、結局いつものようにゆっくりと蓋を持ち上げ、冷えた白鍵に添えられた。


 ロスト島以来だ、と思ってしまってから、体の下で椅子が軽く軋む感覚が随分と懐かしく感じて、実際のところかなりの期間が空いていたのだと言う事を思い出す。魂でピアノを弾く、なんて特殊な事例を除けばピアノに触れたのはもう随分と前だったろうか。
 鍵盤に向かい姿勢を正す。軽く打鍵すれば、伸びやかに広がる硬質な音。年季の入ったピアノではあるが、その音はいつでもきちんと調律されズレはない。
 目を閉じ、肩で息を入れ呼吸を整える。瞼が薄く開くのに合わせ、指先は静かに旋律を紡ぎだした。
 暗譜していたいくつかの曲のうち、ショパンのノクターンを選んだことに特に意図は無かったように思う。間は空いていたはずだが、感覚に狂いはない。もう幾度も辿ったその音を彼の指は覚えていて、孤独が純粋結晶したような音階を、直前にイメージした通りに歌い上げていく。

 曲尾の反復にさしかかり、ふとソウルの掌は鍵盤の上で静止する。
 魂で弾くピアノと、直に触れる質感とではどれほどの差異があるものなのか、……そんな瑣末事を確かめるためなら、ここまでで十分のはずだった。
 霧散する余韻。消えゆくその瞬間でさえ、甘美で感傷的な旋律。

…………こんな音じゃない。

 ただ一言。胸を過った言葉を切欠にして、宙に留まったままの両手は鍵盤目掛け力任せに叩きつけられた。
 騒音が空気を劈く。
 こんな音じゃない、こんな音じゃない、俺が、欲しいのは、…………こんな音じゃァない、
 呪詛のごとく繰り返し、調性の瓦解した残響に重ねるよう荒々しく指を走らせる。
 連続する転調、繰り返される変調。聴く者の不安を煽るような不協和音の調べ。あの時覚えた血が沸き立つような昂揚感が、再び体内を満たしていく。
 かけのぼり、かけおりる嵐のような音階が一閃する。刃の如く肌を裂く兇器のような旋律に、狂喜に染まる小鬼の顔が脳裡を掠める――
「…………っ!」
 陰鬱な主題を憑かれたように奏する掌を、非自我の力によって引き摺られる腕を、ソウルは意志の力でねじ伏せた。がく、と椅子から前のめりになる体を支えた手がでたらめに鍵盤を押さえ、旋律は始まりと同じに騒音によって引き裂かれる。
 不満気な余韻を残し、残響が消え去っていくのを認識できるころになってやっと、肺が新鮮な空気を求めている事に気が付いた。
 つまり呼吸を忘れるほどに飲まれていたという事だ。踊る指に、荒れ狂う音に。……内側から体を食い破ろうとする、何かに。
 ひとつ忌々しげに舌打ちをして、深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
 『足りない』と催促するのは彼の肺臓器官だけではなく、しかし調息を繰り返すうち暴力的ですらあった昂揚感は徐々に凪いでゆく。そのことに安堵を覚え、そして同時に軽い失望を覚えている事には気付かぬ振りをして、椅子の背に深く体を預ける。
 軋んだ音は、誰もいない教室内に小さく響いた。