02 視界の端、並ぶ机の間からむくりと起き上がった人影に少なからず動揺しつつ、しかしそれを顔に出さないでいられる程度には冷静でいられた。 影の動いた方へ、目だけを向ける。自分以外の『人間が』存在しないはずの教室。死武専七不思議でも目の当たりにしたかと思いきや、現れた見知った級友の顔に、ソウルは「驚かすなよ」と溜息にも似た呟きを漏らした。 椅子の上にでも寝ていたのだろうか、後ろ髪は少し乱れていた。寝起きの少し不機嫌な目を軽く擦ったあと、固まった身体をほぐす様に伸びをする。小さく欠伸を噛み殺したその瞳は潤みを持ち、薄暗い室内でも琥珀のように透き通って見えた。 「今、何時だ?」 「ん? あぁ……もう結構イイ時間、……ってか、何してんだよ、キッド。こんなとこで、……かくれんぼか?」 冗談のつもりで言ったソウルの脳内を、パティの天真爛漫な笑顔がよぎる。いつもマスターを振り回している彼女の事だ。様々な方法でもって彼を説き伏せ、広大な校内でのハイドアンドシークに興じる、というのも割とあり得そうな話だった。 「まぁ、……いつまでもピュアな感性を持ち続けるっつーのは、大事なコトだわな」 微妙に言葉をオブラートに包んで、労わりと同情を含んだ目線で見上げるソウルに、「そうじゃない」とキッドは軽く首を振って彼の想像を否定した。 その拍子にさらりと流れた前髪の白黒のコントラストを、なにか鍵盤のようだと思い、心が揺れる。そんな考えは一体いつから自分のなかにあったのかということを、我がことながらソウルは不思議に思う。 そこにどんな意味があるのかということに、考えを巡らせるより前に目の前の彼が口を開いたことで、ソウルの思考は中断された。 「三限目は一般音楽だったろう」 「ああ、そういや。あの時お前また、シンメトリーがどうとか言って倒れて……え?」 そこまで言って、ソウルは目を瞬かせた。 今は既に放課後だ。まさかあれからずっと、この教室にいたとでも言うのか。 そういえば、誰も彼を保健室に運ぶ所を見なかった。 仲間の誰もが『姉妹が運ぶだろう』と思い放置し、そして姉妹のうち妹は主人を置いてまっさきに教室を飛び出し(次のコマは彼女の最も得意とする体術訓練だった)、姉のほうはといえば、ベッド占領率が高すぎるとして注意勧告を受けたばかりのキッドを、当の保健室へ背負って行く事に二の足を踏んだ。運が良ければナイグスのお説教、悪ければシュタインのメス、……できればどちらの餌食にもなりたくないと判断した彼女を誰も責められまい。 かくして『放っときゃ起きるだろ』の精神で哀れ捨て置かれた死神Jr.は、こうしてここで放課後まで夢の中にいた、というわけだ。 安らかな(と言っていいのか判断に苦しむが)眠りを妨げた事を果たして謝罪すべきなのかと、迷いながらソウルは軽く頭を掻いた。潜在的な苦手意識だろうか、と先程キッドとピアノのイメージを重ねた事について、ふと思う。キッドの事は決して嫌いではないが、彼と二人でいるときはいつも何故か、気づまりな沈黙に支配される事が多い。 今もそうだ。他愛無い会話のなかですら最適解を探そうとしてしまう自分を意識し、そしてその事実はソウルをやや憂鬱な気分にさせた。『きっちりかっちり』でも伝染したのだろうか。実にらしくない。 (いいか、もう。……なんか、面倒臭ェ) パートナーでもない奴の性格が伝染るって。どんだけ影響されやすいんだよ、と少し疲れたように溜息を吐く。椅子を立ち、何事も無かったよう教室を出ようとキッドに背を向ける。 「もう、終わりか?」 掛けられた声に、反射的に足を止めた事を悔やむ。 なぜなら、止めたからには何かを答えねばならないからだ。 「……終わりだよ」 ごく短く事実だけを伝え、「起こして悪かったな」と結局は付け加えて会話を締めようとしたソウルの努力など知らぬふりで、キッドは明らかに不満気な表情で腕を組む。 「悪いと思うなら」 社交辞令の部分に反応され、ソウルは内心舌打ちした。 友人の四角四面な性質を計算に入れず迂闊に言葉を足した自分のミスだというのなら、これで累計二つ目だ。全くもってらしくない、COOLじゃァない。 「半端なところで演奏を切るな。……しかも二度もだ、虫酸が走る所業だな」 「っせーな、タダ聴きの挙句文句つけんのかよ」 ほら、やっぱり足など止めるべきではなかった。 かつん、とキッドの革靴の底が床を叩く音が控えめに響く。気配が近づくに従い、ひたりと重なる後悔は次第に諦めへと形を変えていく。 「ピアノは。共鳴の精度を上げるため、か?」 「……まあ……そんなトコ……」 珍しいな。自主的にか。それは感心なことだが、まぁお前はいつも授業をさぼりすぎだ。それぐらいで丁度いいのかもな。そんな言葉を連ねながら、キッドの足音が止まる。丁度ピアノの傍らで。 会話を繋いでしまえば、触れざるを得なくなる。だから彼が次に言うだろう台詞も、もう分かっていた。 「……先程の曲は、お前の?」 ピアノの表面を撫でたその目線が自分に注がれるのを感じ、ソウルはのろのろと顔を上げた。即興で弾いた、後の曲の事を指しているのだろう、と推察して、肩越しに視線を投げ沈黙で肯定を示す。 拒絶することはできた。何も聞こえなかったかのように退室してしまえば良い。そう理解していながら、それでもここに留まり続ける自分は一体どうしてしまったのか。らしくないにも程がある。 どこか気乗りのしない顔をしているだろう自分とは対照的に、さっとキッドの表情が明るくなったのをソウルは訝る間がなかった。それはひとえに、耳に届いた友人の言葉の所為だ。 「凄いな」 端的かつ素直な称賛は予想の範疇外であったのか。自分に向けられた赤い瞳が僅かに見開かれた事に、気付かなかったようキッドはやや興奮気味に言葉を繋ぐ。 「素晴らしく精密、かつ大胆な演奏だ」 世辞や冗談がうまい奴ではない、とソウルは友人の性質を理解していた。それは善意などではなくキッドの真意なのだろう、だからこそ一体どんな顔をしてその言葉を受け止めるべきかを判断しかねるものでもある。 そうやってソウルの視線が宙を彷徨う間にも、彼の友人は一人自らの言葉に頷き、感嘆の溜息を漏らした。 「音階の自在さと堅固な様式感の両立はなにか……神がかり的なわざを思わせる」 『神がかり』、って。 神サマに言われてりゃ世話ねーや、と大仰な褒め言葉に逆に居心地悪そうに肩を竦め、曖昧な苦笑いを浮かべたソウルは、「確かに『暗くてヘンな曲』だったが」と後に続いた無慈悲な宣告に、がく、と肩を落とした。 「……そこは否定しねーのな」 それは彼が以前にパートナーから受けた言葉そのままだ。 順当な評価ではあると思うが、しかし。 「お約束もいいとこだ」 持ちあげておいて落とすかよ、とソウルが呆れたような視線を投げて寄越したのを、涼しい顔で受け流してキッドは薄く笑みを浮かべた。 「いつか落ちついて聞きたいと思っていた所だったから、な。……期待を裏切らない演奏だった」 「そりゃあ…………どーも、」 率直な感想が擽ったくて、ソウルは人差し指で軽く頬を掻いた。 決して不愉快では無いのだが、しかしこの面映ゆい感じはどうしたものだろうか。 友人との微妙な距離感に戸惑うばかりのソウルには構わず、キッドはそのまま言葉を続ける。 「音楽の事はあまり明るくないが、……」 やや躊躇いがちな前置きに、何か予感のような物がソウルの背を走り抜ける。 言うな、と耳を塞ごうとした彼を押し留め、言えとその言葉の先を渇望したのは彼の内側に潜むものだった。同じ顔をしていながら相反する二つの自我に苛まれ、身動きの取れないままソウルの目はただ、キッドの唇が自分の予測通りの言葉を紡ぐ様を見詰めていた。 |