イノニア


03

 『俺はソウルの音、好きだぞ』

 一言一句違えることなく。
 苦い記憶をなぞられて、ソウルは思わず息を詰めた。目の前の友人の姿に重なる影。ピアノから手を離したあの時の、兄の幻影。やめろ、と声にすることも、目を背けることもできずただ立ち尽くす、ソウルを捉えた視線は温度というものを感じさせなかった。やがて酷薄な笑みを浮かべた口元が、なにか言葉を形作るため歪む――

「? ……ソウル?」
 名を呼ばれ、意識を揺り戻される。明晰でよく通るその声は記憶に遠い兄のものではなく、影は瞬く間に掻き消えて後には怪訝な顔をしたキッドだけが残る。
 紛れもなく幻だ。記憶の中のウェスは、一度だってあんな表情を見せたことは無かった。ならば何故。今更。未だに。
「……どうした?」
 ほんの瞬間的に眇めた瞳、或いはささやかな呼気の乱れであるとか。そういった類のものからどれだけの人の感情を読み取るのか、キッドの視線が案じるような色を帯びる。形のいい眉を僅かに寄せ、探るような視線はしかし不躾ではなく、それがかえって居心地の悪さを加速する。
――――ク、」
 自らの劣等感が依然兄の姿をとって顕れることを、逃げて逃げて逃げ切った筈のものから未だ逃れられない自分を、嗤ってやるつもりで開いた唇は歪に固まり、声は妙に掠れてまともな音を発しなかった。
「………………狂気、だ」


 音楽とは本来、道徳的な力を持つものであり、心の慰めであるべきものだ。
 それは物ごころつくより以前から繰り返し教えられ、そして周囲を満たす音から自然に学びとったことでもある。
(……なら、俺のピアノは、)
 自問する。黒血。ブラックルーム。小鬼。精神に巣食う狂気の象徴、それらの存在を自分の中に認識した時から、或いはもっと以前から。 
 唇が自動的に動き、自分の咽喉が妙に平坦な声を放つのをソウルは聴いた。
「狂気は人を惹き魅せる」
 ピアノには狂気があった。
 胸の内で荒れ狂う感情の波を、吐き出す術としてのピアノは狂気を孕み、旋律は黒血を走らせる。
 鬼は嗤う。どこまでも連れていってやるさ、お前の望む場所へ指を指してみろ。奈落の底へと誘う声に、意識も感情も持っていかれそうになる。
 冷えていく指先、体の芯まで焦がすような酷熱に神経を蝕まれながら、それでも彼の客観視は彼自身の異常性を弾劾する。狂った音の洪水に、好きなように喰らい尽くされるようでいて、同時に欠けた部分が満ちゆくような錯覚に囚われるそれは、果たして音楽と定義されるべきものなのだろうか。足りないと言う、ならば自分はなにを求めるというのか。答えの出ない問いに溺れ、今の自分が正気であるのかを保障する術もないまま憑かれたようにピアノを弾き続ける。それが異常でないというのなら、一体正常とは何だというんだ?


 物言わぬ視線が交錯する。
 その重さに耐えきれず視線をほどいたのはソウルの方で、沈黙を払ったのはキッドの方だった。
「……告解のためか、ソウル。俺に、ピアノを、聴かせたのは」
 偶然が齎したようなこの邂逅を、指して告解であると彼は言う。自らが望み、そして彼を選んだのだと言わんばかりのその口調に、ソウルは軽く動揺を覚えた。ばかな、と反論しようとして言葉は咽喉の奥で絡まる。否定の言葉はいくつも浮かび、そのどれも口を突いては出てこない。彼の無意識は自身を沈黙させることで、その指摘が事実であることを示していた。

「俺はお前の音が好きだ」
 繰り返す。感情の起伏を伺わせない平坦な声で、相手の意志など知った風ではないといった調子で。
「たとえそれが音楽として『正しく』なかろうとも、……お前自身が認めることが出来なくても、だ。俺は好きだと思った。それを否定する権利は誰にも、お前にだってない。そうだろう」
 一息に言って、小さく息を吐く。問いかけるような語尾は、しかし答えを期待している風でもなく、それはまるで独白のようにソウルには聞こえた。
「自ら枠を作り敢えて嵌ろうと言うのなら、それもいいだろう。きっちりかっちりと型に嵌った生き方が出来るのも、一つの才だ。……しかしその枠はなんのためにある? 枠に嵌れない自分を、絶えず断罪するためか? だとすれば、随分と悪趣味が過ぎるな」

 挑発的な響きすら持ったその台詞に、食ってかかる気にはなれなかった。救いは断罪の果てにはないのだと、語るその目は執行者のものであり、そして友人としてのものでもあったから。向かい合う彼の瞳に射抜かれ、ソウルはただ無言でキッドの言葉を受け止める。
「俺はお前を裁く気も無ければ、赦すための言葉ももたない。……人の本質と特徴とが、絶望の存するところにあるというのなら、その狂気もまた人の本質に他ならないからだ」
 ただ静寂を湛える金色の瞳が、何を映し何を思うのか、正確に察することはひどく困難なように思われた。共に学び、歩みを重ね、同じ時を過ごすうち忘れてしまいそうになる、けれどやはり彼は、自分とは類を異にするものであるのだということを思い出す。成程自分は死神としての彼に、自らを委ねたいと思っていたのかもしれない。なんとも説得力のある話だと、どこか他人事のように思う。冷えた頭の斜め後ろあたりから、俯瞰で自分を見下ろしているような感覚を振り払うよう、ソウルは強張った指先を軽く握る。
 何かを、答えなければならない。
 そんな思惟が形となるより早く、しかし、とキッドの唇が静かに言葉を繋いだ。
「……惹かれたというなら。それはきっと、そこにある強さに、だ。傾き揺れ続け、けれどそこから目を背けず向き合う事が出来るものにしか、あの音は出せない。……俺はそう、思う」
 日没間際の夕照が差し込み、窓を背にして立つキッドの姿を茜色に淡く縁取る。
 その表情は逆光でよく見えず、しかし見ずとも彼がどんな表情でそこに在るのか、ソウルには分かる気がした。
 張り詰めた空気を吸い込んで、ひゅっと咽喉が鳴る。そうやって人を受け容れることが彼の示した誠実であるというのなら。苦い思いを抱きつつも、乾いた唇を軽く湿す。対峙する自分もまた同様にあるべきではないだろうか。せめて今、この時だけでも。浮かべた笑みはぎこちなく、しかし先程よりはよっぽどマシな顔をしているハズだと、願望を込めてソウルは思った。