イノニア


04

「……そう、だな。確かにちっとばかし、COOLじゃなかった」
「ソウル」
 空気とともに、視線が緩む。声には先程までの固さは無く、安堵したよう柔らかく紡がれた自らの名に、途端落ちつかない気分になる。ソウルは声のトーンを上げ、できるだけ自身の言葉が軽薄に響くよう祈りながら、ひらりと手を振って見せた。
「他の奴には、黙っといてくれよな?」
 ピアノを弾いて聴かせたことを。そしてその旋律が孕むものを。二つの意味を込めて、頼むわ、と軽い調子で言う彼の赤い瞳に、懇願するような色が滲んで見える。軽く首を傾げ疑問の意を示したキッドに、ソウルは少しだけばつの悪そうな顔で肩を竦めて見せた。
「……また、気にすんだろ。あんま余計な事、言いたかねーし」
 明確な指示語がなくとも、それが彼のパートナーの事を指しているのだと理解する。キッドはそこに普段は表出しない彼の優しさと、決して曲げられない矜持とを認め、それでもその願いをただ容れることはできなかった。
「二人でなら、乗り越えられる事もあるだろう?」
「かもな。けど、向き合う時は一人だ」
 キッドが僅かに怯んだのを感じとって、反射的に返した言葉が思ったより強い意味を持って届いてしまったことを知る。そうじゃない、とソウルは微かな焦燥に駆られた。突き放すつもりでも、背を向けるつもりでもないのだということを、伝えるための適切な言葉を探し、そしてそんな瑣末毎に拘る自分はやはりらしくないなと、こそりと苦笑する。
「なんとかするさ。……できんだろ、俺なら。何せ次期死神様の保証付きだ」
「……調子の良いことを!」
 ふ、と小さく笑みを溢し、キッドが瞳を伏せる。僅かに俯いた拍子に音もなく前髪が揺れ、彼の嫌悪する三本の白いラインもまた同様に揺れた。
 決して周囲の薄闇に紛れることのない、内側から光を放つかのようにも見える白。それは集積した光の帯なのだろうかとぼんやり考え、ピアノとは異なるその質感を思い、ごく自然にそんな事を考えた自分の思考に狼狽する。
(…………別に。意味なんてない)
 そうだ、意味など無い。彼とピアノのイメージを重ねたことにも、冷えた白鍵のそれとは異なる滑らかな指通りと質感を想像したことにも、そしてその艶やかな髪に触れてみたいと思ってしまったことにも。
 かつん、と革靴が床を叩く音が、あたりの空気を震わせる。キッドが歩を詰めるのに合わせるよう、何気なく扉側へ距離を取った自分が、一体何を恐れているのかソウルにはよく分からなかった。

「……黙っていて、やってもいいぞ。但しそれなりの対価が必要だ」
「対価ァ? ……金ならねーよ?」
「戯け、誰も期待しとらんわ」
「じゃあなんだってんだよ。魂でも取ろうってのか」
 軽口を叩きながら、それでもじりじりと、二人の距離が狭まるほどに、まずい、という思いがソウルの頭を占領する。何がまずいというのか。先程から散乱する思考はうまく纏まらず、どころか思考することを脳が拒否しているようにさえ思える。
 真っ直ぐに伸ばした背筋と曇りのない瞳。自分のピアノに対する蟠りを察してなお、自らの感性に嘘をつかない次期死神。友人としての彼に覚える微妙な距離感に名をつけるとするならば、それはきっと『羨望』なのだろう、とソウルは思っていた。誰といても何処にあっても、崩す事のない折り目正しき姿勢が。自らの持ち得ない、……気が付けば失ってしまっていた、その真っ直ぐな気性が。太陽を宿したような瞳がただ眩しくて直視し難い、それだけの話なのだと。

 さりげなく後ろに伸ばした手が扉に触れ、ソウルは何かに救われたようにキッドに背を向けた。開こうとして二、三度揺すり、そこでやっと鍵を掛けたままだったことに気付く。残念ながら、平静を装う事さえ今の精神状態では困難なようだった。
「続きを」
 かしゃんと小さく響いた解錠音に、キッドの声が重なる。
「……いずれ、聴かせてくれるか」
 完全な、お前の音を。
 呟きは思ったより近い位置から聞こえた。
 迷いながら振り返る。少し手を伸ばせば届くような、先程の他愛無い空想さえ現実にできてしまうような距離に彼が在る。認識した途端、どくん、と胸が波打つのが分かった。
(意味なんてない、……はず、だ)
 再三繰り返す。死神Jr.の要望は、何事にも完璧を望む彼の性癖故だ。途切れた演奏など虫酸が走ると、先程言っていたではないか。
 そう思おうとして、しかしそうではない答えを望み、そこに特別な意味を見出そうとする自分を意識する。名状し難き感情は羨望とも憧憬とも似て、しかし明らかに異なる色をしていた。
 少量の愚かさと、有り余る好奇心。
 そんな風に形容される情緒的感情。それはこの些細な交わりが齎したものなのか、もっと以前より無意識の内に存在していたものなのか、そこまでは分からずそして出来ることなら、これ以上分かりたくもなかったけれど。

「…………そのうち、な」

 結局のところ自分は、告解すべき事柄をいたずらに増やしただけだ、ということだけは認め、どうにかそれだけを口にする。
 それは至極曖昧な、約束とも言えないような言葉、であるにも関わらず。まるで嘘というものに耐性が無いのか、あるいは分かった上で許容しているのか。印象的な金の瞳がすっと細まり、キッドの頬から耳にかけてうっすらと血の色が翳す。唇を彩った笑みに目を奪われ、ソウルは一瞬自失する。今まで認めた事のない彼のそんな表情に、胸は締め付けられるような痛みを覚えた。
(あーーー、…………面倒臭ェ)
  耳を塞ぎ目を閉じて、頭を抱え込み蹲ってみたとてきっと無駄な事なのだろうと、また一つ諦めを重ねる。不規則に胸を叩く鼓動を押さえ、あらぬ言葉を口走ってしまいそうになるのを飲み込んで、ソウルもまた、笑みの形に唇を歪める。
 随分自然な表情ができているという自覚はあるのに。
 静かに扉を開きながら、もしかしたら俺は泣きたいのかもしれないなと、彼は思っていた。