02 カリカリカリ、と紙の上をペンが滑る音だけを聞きとれるほどに、室内はしんと静まり返っていた。与えられた課題を暫く無言で解いていたソウルの手が、ふと止まる。手元のノートと教科書とに視線を走らせたソウルが、顔は上げないまま向かいに座るキッドに問いかけた。 「なあ」 「……」 「ここの公式ってさ、」 「…………」 「……? キッド、」 「………………」 反応の無さを疑問に思い、顔を上げれば、自分をじっと見ているキッドと視線がぶつかる。 「おい」 「?! ……な、なんだ」 明らかに慌てた様子で、ガタガタと椅子まで揺らしたキッドに、ソウルは訝しげに眼を細めた。 「なんだ、っていうか……さっきから、ジーーーっと見てたろ」 自分に注がれている視線はずっと感じていた。不必要なほどに注視するキッドの目がやり辛くて、敢えて顔を上げなかった、というのは確かにあった。 一つのミスすら許さないという意味を込めた視線だろうか、と妙なプレッシャーさえ背負っていたのだが、どうやらそうではないらしい。疑問に首を傾げたソウルは、頼りなく視線を宙に彷徨わせるキッドに何かを感じとって、ニヤ、と口元を歪めた。 「なに、見惚れた?」 「――…………、」 冗談のつもりで言って、反論が返ってこない事に逆に戸惑う。 オイオイそこは戯けだの虚けだのいつも通りに突っ込んでくれないと。俺一人、思い上がったバカみたいだろが。 そんな事を思いながらも、先程のリズの言葉がソウルの脳内にリフレインする。 (気にいってるって、……マジでか) リズの言葉に乗せられる形で、結局着たままの制服と、掛けたままの眼鏡と。キッドの頬が微かに赤らんで見えるのは、度の入っていないレンズによる収差のせいではないだろう。先程からどこか、心ここに在らずといった様子ではあったがまさか、本当に。 軽く息を吐いてペンを置いたソウルは、やや乱暴に頭を掻いた。 「やっぱこういう、……きっちりかっちりしたカッコのが好きだとか?」 似合うと言われて悪い気がする訳ではない。ただ、ほんのりと胸の奥に苦味に似たものを感じるだけだ。堅苦しく結ばれたネクタイが息苦しくて少し緩めたくなるのも、ワイシャツのボタンを一つ外したいと思うのも、――家にいた頃には、許されはしなかったことだから。 そんな感傷を極力抑えて問いかけたソウルに、漸く落ち着きを取り戻したキッドが、軽く息を吐いて答えた。 「そういう訳では、ないが……あまり見慣れないものだから、つい」 まるで自分でも解せないといった様子で首を捻ったキッドは、「ふむ」と先程と同じように小さく呟き、じっとソウルを見詰める。暫く居心地の悪い思いでその視線を受け止めたソウルは、やがてキッドが浮かべた表情に、一瞬言葉を失った。 「……うん。……何か、今まで知らなかった側面が見られたようで、――少し、」 嬉しかったのかも、しれない。 そう言って、涼やかな目元が柔らかく細められ、口元は笑みの形に綻ぶ。 幸福と言うものを表わそうとしたとき、人は自然、このような表情を作るのだろうか。そんな事を頭の片隅で考え、そしてその笑顔の眩しさが、ソウルから言葉を奪った。 「……? おかしな事を、言ったか」 「え。……ああ、……いいや、」 見蕩れていたのだと、気付き我に返った時には既に、いつもの仏頂面がそこにあった。見慣れないのはこっちの方だ、と胸の内でだけ呟いて、ソウルはずり落ちかけた眼鏡の位置をなおす。 「大袈裟だな、と」 「そうか?」 「そーだって」 「……そう、だろうか」 「しつこい。…………別に、いくらでも見られるだろ、んなの」 殊更素っ気なく言ったのは、照れ臭さを誤魔化すためだ。互いの知らぬ一面など外見内面問わず、まだいくらもあるに違いない。そんなことは分かっている。分かっているからこそ、先が思いやられて、頭を抱えたくなる。 もしも恋人がそう望むのなら、自分のファッションセンスを多少曲げることぐらい苦にはならないというのに、だ。そんな些細なことぐらいで逐一、あんな顔を見せられては、……処置に困る。高鳴る鼓動が煩わしくて、手に負えない。 「そうか」 そんなソウルの葛藤を見透かしたかのように、キッドがくすりと小さく笑った。先程とは少し違う、静かな笑みはそれでも、ソウルの許容を越えるに十分値するものではあった。 一瞬の沈黙の後、テーブルに手をついて身を乗り出し、キッドとの距離を縮めたソウルは、その日の『お勉強会』の成果として、新たな知識を一つ加えておかねばなるまい、と思う。 つまり、――恋人同士のキスをする時には、眼鏡は少しだけ邪魔だ、という事だ。 |