ジメテのハジマリ


05

『ソウル?』
 背中越しに伝わる体温を少しだけ擽ったく思いながら、キッドが恋人を振り返ったその時、果たして彼はぱっと掴んでいたネクタイから手を離し、ずざざざっと音でもしそうな勢いで後ずさったところであった。
『? …………おい、』
 困惑気味に、一歩踏み出したキッドは、歩を詰めた分だけさらに距離を取られた。まるで野良猫の様な警戒心でもって、接近を拒んだソウルは、なんらかの焦燥を訴えるような、僅かに癇を立てているような、複雑な表情を浮かべていた。
 開け放していた窓から室内に吹き込んだ風が、門扉を開く時の微かな音を運んだ。恐らく、外出していたリズかパティが戻ったのだろう。
 それは些細な変化であったが、それでも場の空気は確かに動いた。ふ、とソウルの強張った表情が少しだけ緩んだ、ような気がした。
『あ、…………いや。悪ィ、ちょっと急用、……てか、今日、飯当番だったの思い出して…………ごめん、帰るわ』
 二度も謝罪を口にして、ソウルは椅子に掛けていた自らのジャケットと鞄をひっ掴み、慌てた様子で腕を通しながら早足に部屋を出ていった――……


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(――……あの時に、たしか足を引っ掛けて転びかけたのだったな)
 常にないのろのろとした動きで、それでもきっちりと、皺の寄ったベッドカバーを整え終えたキッドは、ふぅ、と小さく息をついて、身に纏っていたものを脱ぎいつもの私服に着替え終えた。

 ソウルも、そしてリズも退室し今度こそ一人きりになった私室。
 何がいけなかったのだろうか、という考えがふと頭を過ぎり、金色の瞳に寂寥の色が滲む。
 服を選んでくれ、などと。
 自然に口をついて出た言葉に、寧ろキッド自身が驚いていた。衣服を他人に選ばせる事など、これまで考えたこともなかった。死刑台邸にある全ての生活用品も、纏う衣服も基本的にはすべて己が「きっちりかっちり」選別したものだったからだ。
 姉妹をパートナーとして迎えてから多少、その境界は曖昧になった。彼女らのいいかげんさが我慢ならなくて口論のようなものをしたことも、そういえばあった気がするなとキッドは昔のことを懐かしく思いだした。
(変われば変わるものだ)
 今では身の回りの物のいくらかは、彼女らが選んだものになっている。
 そうやって互いの価値観を少しずつでも、互いの中へ混じらせ融合させる行為が即ち、他者との交わりというものであり、――そしてそれは、恋愛の本質とでも言うべきものでもあるのかもしれない。
 そう、自分はきっと、ソウルともっと、近付きたいと願っている。
 友人、という枠では収まることのない思いに気付いた時から、恋人と言う新たな繋がりを築いた時から。ソウルの事をもっと知りたいと、もっと近くありたいという思いは常に胸にある。

(…………、)
 微かに目を伏せ、キッドは胸の上に手を置いた。病とは無縁のはずの死神の身体が、しかし何かを訴えるように、胸の内側から痛みを覚えることがある。
 確信が持てないでいる。確かに互いが互いを求めて手を伸ばしているのだ、と。
 近付こうと思うほどに、何故かソウルは遠くなるようにさえ、思えてしまって――

「……やはり、怒らせたのだろうか……?」
 何か我慢のならない事に憤りを抱いているような、ソウルの表情を思い出して、はぁ、とまた一つ溜息をつく。
 きっとリズが言うように、自らに原因があるのだろう。確かに彼女の言うとおり、自分の言動は少しばかりデリカシーに欠けるのかもしれない。繰り返し言われてきた言葉ではあるが、こんなにも重く感じるのは初めてだった。
 こんこんと聞かされた『初めての時の心構え』なるものを思い出しつつ、一体次にいつ、ソウルにネクタイを結んで貰う機会が訪れるのだかは分からないが、などと考えながら、キッドは開け放したままであった窓を閉めた。
 今後はもう少し、ソウルの意志を尊重してみようか。暮れかけた空をガラス越しに見上げ、「難しいものだ」と呟く。



 西に沈み始めた太陽と交代するかのように、東の空に昇った夕月を、それぞれ異なる場所で見上げていた恋人達は。

「なんでこう……」
   「……うまくいかないのだか」

 ほんの少しだけ食い違った意味でそれぞれに溜息をつき、






「うっわーうっわー……誰かに喋りてェー……でも喋ると絶っっ対にヤバいっつーこのジレンマがなーー……!」

 そして傍観者は180度違った意味で溜息をついて、三者三様の勘違いは正される機会を失ったまま、今日も平和なデス・シティーの地平へと太陽は沈むのだった。