ジメテのハジマリ


04

 ディンプルをきれいに作るのはもう諦めて、せめて左右対称になるように、基本中の基本プレーンノットで結んで見ようと試みるも、何かうまくいかない。
 キッドの首元でニットタイを結ぶソウルの、手は先程からもたもたと同じ動作を繰り返しているばかりだった。

「…………っかしーな。こっち上で、…………こうだろ? ――……」
 そんなソウルの手元をしばらくじっと観察していたキッドが、ぼそりと素直な感想を口にした。
「下手だな」
「……、」
 むぐ、と小さく呻いたソウルの手が一瞬止まる。
 なるほど確かにキッドの言った通り、ニットタイは一般的な織物のネクタイに比べ、慣れぬとうまく結び辛いうえに、緩みやすい。
 けれど、――原因はそれだけでは、ないのだ。
(……平常心、)
 そんな言葉を何度唱えたかは忘れてしまった。ひとつ息を吸い、できるだけ不機嫌に見えるように眉を寄せて、ソウルはやや低いトーンでキッドの言葉に応えた。
「…………しゃーねェだろ! やっぱ人のだと、勝手が違うっつーかその、……」
 語尾が濁ったのは、それが理由の半分でしかないと分かっているからでもある。
「…………」
「……あの。そうじぃぃっと見られてっと、余計やり辛ェんですけど」
 そう、思ったより近い距離で、注がれる視線に不必要な緊張を覚えている。それが残りの半分だった。
 勿論甘い意味がある訳ではない。キッドとしてはただ、期待通りにシンメトリーに、ネクタイの形が整っていく様を観察していたい、それだけの事なのだと、分かってはいるのだが。
 あの金の双眸に、見詰められるとどうにもいけない。鼓動は明らかにいつもより早い速度で胸を叩き、必要以上に身体に送りだされた血液は、身体を駆け巡り不規則な揺れとなって指先の動きを狂わせる。
 そんな焦りを取り繕おうとして、咄嗟に言ってしまった言葉を、ソウルは三秒後にはもう後悔していた。
「そうか」
 それはすまない、と言ったキッドが、そのまま両の瞼を閉ざす。
 少し胸を逸らし、それまで引いていた顎を今度は軽く上げた姿勢で目を閉じる、その様は、まるで、

(――……!)

 ……まるで、キスを待っているかのように、見えてしまって。
 自ら墓穴を掘ったのだと、気付いてももう遅い。ただでさえ近い二人の距離に動揺して、もたつきがちであった手はもう完全に、動く意志を失ってしまったように固まっている。もはやこれは、なんらかの誘導ではないのか。誘惑だと、思ってもいいのではないだろうか――などと。
 あらぬ考えに囚われそうになって、形ばかり添えられているにすぎないソウルの掌が軽く汗ばんだ。
「……どうした?」
「!」
 薄く開いた瞼の隙間から、覗く金色に、思わず息を詰める。
「あっ……っと、」
 咽喉から絞り出した声が妙に掠れていた。知らず口の中が渇いていた事を知り、唾を飲む音は存外に大きく響いた気がした。そんな諸々をどうにか気付かれぬよう祈りながら、ソウルは唇の端を無理矢理引き上げてみせる。
「さ、左右が反対な所為かね……どーも、うまくいかねェわ……ハハ」
 空笑いなどして、平常心、ともうなんの効力も持たないお題目をそれでももう一度唱えたソウルの、掌にひやりとしたものが触れた。
 柔らかな感触。
 認識するよりも早く、鼓動が一際強く胸を打つ。
「……ふむ」
 小さく呟いたキッドの手が、その細くしなやかな指が、自分の掌に重ねられているのだ、と。
 過負荷になりそうな頭が、そう判断を下した時には既に、彼は次の行動へと移っていた。
「つまり、逆だから、いけないのだな」
 ソウルの手を取り軽く持ち上げたかと思うと、キッドはそのままくるりと身体をターンさせる。何かの舞踏のように優雅に、身を翻したキッドの動きに気を取られているうちに、くい、と再び手を引き寄せられて、――あろうことか。
「こうすれば、やりやすいのではないか?」
 一度は離れたソウルの両の掌は、先程と同じくキッドのニットタイを握りしめている。但し、キッドの肩越しに、だ。
 背中側から回された手は、まるでキッドを抱きしめるような格好になっている。
 先程の比ではなく明らかに密着した身体。鼻孔を擽る清潔な香りと、対照的に薄いシャツ越しに伝わる体温が妙に生々しい。
「…………、……、」
 衝動に駆られる。このまま何も余計なことを考えず、キッドを抱きしめたい。本能と恋情からくる情動が胸を支配する。内なる声に従えと、自分と彼とを隔てるもの全て、取り払ってしまえばいいと。タイに添えた指が微かに震えたところで、――キッドが少し身を捻り、その金色の瞳が、ソウルを捉える。

「? ……どうした、ソウル」
 
 口をついて出そうになったいくつかの言葉を、迸る感情を、それでも辛うじてソウルは飲み込んだ。これならば慣れた方向でできるだろうと言うキッドの声が、『とても良い事を思いついた』と言った風でしかなく、瞳には邪念の欠片すら見えなかった。
 そこには確かに『信頼感』としか呼べぬものがあったから。
(――――ああ、クソ、)
 気付かざるを得ない。臆する理由を。踏み込めぬその訳を。
 見たくないのだ。あの澄んだ金色の瞳が、驚愕と悲歎に染まるさまを。恐れているのだ。ただ欲望のままに情動のままに突き動かされた揚句、この無垢なる信頼を裏切ってしまう自分を。

 聞こえるか聞こえないかの舌打ちをして、ダセェ、と胸の裡だけで呟く。
 結局は、足りないのだ、と知る。例え傷つき、そして傷つけることになるとしても、それでも進みたいと思うだけの――勇気が。



 そして宙に掻き消えた言葉の代わりに、彼の頭に明確に残っていたのは、『限界だ』という理性の偽りなき悲鳴、ただそれだけであった。