EARLY IN THE MORNING


04

「じゃ、私出かけるけど」

 リビングのソファに突っ伏したまま、軽く片手だけをあげて応えたソウルに、玄関口へ向かおうとしていたマカの足が止まる。朝からどこへ行っていたのだか、汗だくで帰ってきたなりバスルームへ直行、よろよろとした足取りで出てきたと思ったらもう電池が切れたように動かない。そんなパートナーの奇異な様子に、マカは軽く首を捻った。
「どこ行ってなにしてきたら、そんなヘロヘロになれるのよ?」
「キッドと……」
「? うん」
「……鬼ゴッコを」
「なにそれ」
 機動力で右に出るもののない筈のキッドを、それでも撒いてソウルがアパートまで辿りつけたのは、かの死神の奇妙な拘りに因るところが大きかった。右左右、ときたら次は必ず左に曲がらなければ気がすまない偏執狂。複雑に入り組んだデス・シティーの路地裏をすべて、踏破することなどキッドには不可能なのではないだろうか。

 そんなんでアイツいままでどうやって生きてきたんだ。ああスケボーか、そんでスケボーなのか。何もかもを、矯正することを諦めて一足とびに前へ進むための、手段としてのスケボーなのか。死神家の躾ちょっと甘すぎなんじゃねーのか。
「イチから説明すんのがダルい」
 つらつらと、意識の表層を流れる取るに足らない思考と、疲労感とがあわさって次第に眠気を誘う。ぐったりとソファに身を横たえたまま、黙秘権を行使したソウルに、「あっそ」とマカは意外なほどあっさり引き下がった。
 背を向けた拍子にふわりと揺れたツインテールを、見送るようにごろんと体勢を入れ替えたソウルは、しかし自分を見下ろした翠の目が、確かに笑っているのを見た。
「じゃあいい。後で聞くから」
「…………」
 聞きだすのは確定なのか。
 問い返す前に彼女の背中はもうドアの向こうへと消えていた。確定なのだろう。一度宣言したことは絶対に曲げない奴だ。夕飯時までにせいぜい、食卓を盛り上げるべく面白おかしい話を練っておくべきかもしれない。はぁっとひとつ、疲れた溜息を零す。


「にゃーにやってんの?」
 舌ったらずな声で呼ばれて、見上げればソファの影からひょこりと覗いた黒い魔女帽。同居人、いや同居猫のトレードマークだ。
「……昼寝。Don't disturb」
「じゃあー、ぶーたんが添い寝してあげよっか!」
 すとんとソウルの胸に降りた黒猫が顔を覗きこむ。人間形態に戻んなよ重いから、と軽くいなせばブレアはその頬をぷうっと膨らませ、「つまんにゃーい」とそっぽを向いて、猫形態のまま腹の上で丸くなった。
「んん〜〜。おなかはやっぱり女の子の方がー、ほわほわやーらかくて寝心地いいよねー」
「……おまえそれ絶対マカに言うなよ、腹やわいとか」
「? なんで。いーじゃにゃい、女の子はやらかいもんでしょ?」
 小首を傾げた猫に、苦笑いだけで応える。『女子力』か『職人力』か、どちらを重要視するのかという話だ。職人の能力とはなにも、筋力差で決まるものでは決してないのだが。死武専生そしてEATの鑑とも言える相棒は、埋めようのない肉体的差異を、案外気にはしているのだ、と。

(腹筋……)
 言いかけてふと、脳裡を過ぎったモノクロの面影。
 『職人としては』という前置き付きで、貧相だと嘆いていたキッドの腹筋が、
(……………………)
 思い出されて、なんとも言い難い気分になる。筋肉が付かないのだという死神の身体。晒した肌、女性的な丸みでこそないが未だ性差を感じさせぬ痩身は、未踏の雪を思わせるような白さがあって。すらりと引き締まった細い腰の真ん中に、くっきりと深く窪んだ臍。胸板がどうのと言いながら、キッドが捲りあげたシャツからちらりと、覗く胸元の淡い色付きが、なにか、こう――、





「――……ち、がう、だろっ、が!」
 思わず自己ツッコミを、してしまってから自分で驚いた。ああもう何考えてんだ、とわしわし髪を掻き毟る。妙にうしろめたい気分を散らすかのように。なにもやましい事など、無い筈だと念じる程に言い訳じみて聞こえる気がする。
 腹の上で丸まっていた猫が、うるさいなぁと言わんばかりに不機嫌な声で一つ鳴いた。はたと我に帰ると、片目だけ開けたブレアと視線がかち合う。
「あ、……悪ィ」
 どんな奇行に映ったろうか。ばつの悪い思いで詫びれば、「もー。変なソウルくん」とだけ返ってきた。彼女なりの優しみか、もしくは触るのが面倒だっただけかもしれない。思春期? と言い残して、欠伸をするとブレアは再び目を閉じた。
 丸めた背を、機嫌を取るように撫でるうち、高い体温がじんわりと移って、誘われるようにソウルもうつらうつらとし始める。
 眠気にたゆたう意識の裏側で、巡る思考。
 あの時本当は、何を言いかけたのか。
 古疵、キッド、不可思議な嘘。
 ぐるぐるとかき混ぜられて、瞼の裏にマーブル模様を描く。深くを考えようとして、けれど疲労した身体がそれを拒否している。下手糞な言い訳を透かして、もう少しで、何かが、見えそうな気が、するのに。
 ああこりゃ寝落ちるな、と意識を手放す間際。


(……ブラック☆スター用のメニューは勘弁だけど)
(少しぐらいなら、自主トレも、付き合ってやっても――)


 そうすれば、彼の『何か』に手が届くのだろうか、
 ――――そんな思考も全て、おぼろな夢の底へ滑り落ち、やがて淡く溶けていった。