ルコールの過剰摂取が魔武器とその主に及ぼす影響あれこれ


01

「んあ〜……魂……うめェ……」 

 そんなクールな寝言をほざきながら、微睡みに揺蕩う思春期の頃は、とっくに過ぎた筈だったが。
 その日の朝は久々に、目覚めた後にさえ引きずる飢餓感ではなく、満腹の幸福感に包まれて、ソウル=イーター=エヴァンスは目を覚ました。
 遮光カーテンの隙間から、差しこむ陽の眩しさに目を眇める。口元の冷たさでだらしなく零れた涎の跡に気付き、手の甲で軽く拭う。なんとなく、常とは違う傾向の夢を見たような、気がしたが瞼を持ち上げた瞬間に、内容はすべて霧散してしまった。いつもの事だ。
 光の差す角度と強さから、結構な時間を寝過ごしたらしいと分かる。高い天井と照明の装飾をぼんやりと眺め、辺りに視線を巡らせてから、ああ自室だな、とソウルは遅れて理解した。明るさの割には静かすぎて、一瞬場所と時間の感覚を狂わせる、死刑台邸の朝は未だ少し、馴染まないところがある。越してきてまだ間も無い。それも時間の解決する問題であろうと、思ってはいるのだが。
 ベッドに横たえた身体がどことなく怠く窮屈で、身につけているものが、寝巻きではなく昨日着ていたワイシャツであることに気付く。ネクタイはない。下はトランクス、靴下は履いたままだった。

(どうしたんだっけ……あれから)

 二次会だなんだと引っ張っていかれた店で、少し飲み過ぎた、ということだけはかろうじて思い出せた。のろのろと身を起こす。否、正確には起こそうとした。背と首に力を入れ、頭を上げようとした途端、ぐわんぐわんと頭の中に盛大に鐘が鳴り響き、ソウルは思わず呻いて抱え込んだ頭を再び枕に沈めた。

「ぐおぉ」

酷い頭痛、胸のむかつき、体全体にまとわりつく倦怠感。
(ああ、こりゃ間違いなく、)

「二日酔いだろう」

 よく通る声が部屋の空気を震わせた。聞き間違えるはずもない、屋敷の主の声だ。ぐらぐらと揺れる頭を押さえながら、ちらと目線だけそちらへやると、いつからそこに居たのか、部屋の扉にもたれ掛かるようにしてキッドが立っていた。

「ひどい有様だな」
「……」

 事実だけに返す言葉もなかった。
 憮然とした顔でソウルのベッドへ歩み寄り、キッドは手にした銀盆をサイドテーブルに置く。
 水を満たしたタンブラーと、何かの錠剤。胃腸薬だろうか、とキッドの顔を窺うが、いいから飲めと言わんばかりの目で睨まれた。少し機嫌が悪いように見えるのは、気のせいではないだろう。昨日、余程面倒を掛けたのだろうか。覚えていないのがまた怖いな、と思う。
 サイドテーブルに置かれた銀盆の上で、錫製のタンブラーが汗をかいている。水はよく冷えているのだろう。酒気にべたついた咽喉と乾いた身体は可及的速やかな水分補給を必要としている。手を伸ばしたいのは山々なのだが、しかし如何せん身体は鉛のように重く、頭は頭痛を訴え続け、時折キーンと耳鳴りさえする。無理に起こせば吐き気までも催しそうな気がした。

「う〜ー……」
「なんだ。起きられないか」

 枕に沈めた頭をゆっくりと縦に振る。それだけが精一杯だった。

「…………仕方がないな」

 ふ、とキッドが溜息をついた。惰弱な奴だとでも思われているのだろう。なにしろ昨日は記憶が無くなるほど飲んだようだし、酒に飲まれ正体をなくして挙句がこれだ。反論する余地も気力もなく、ソウルは萎んだ気分で身を縮め、ただ頭痛が過ぎ去ってくれるのを待つしかなかった。
(優しく看病とか……ないわな……うん)
 自業自得、という言葉が頭を過ぎった。そんなことは十分身に沁みて分かっている。
 とはいえ、弱った身体と精神は、何より情愛に飢えているものだ。勝手だとは思いつつも、優しさを期待してしまう。相手が愛しい恋人であるのなら、尚更。
(……飲ませてくれるとか……)
 そう例えば、口移しで。
 一度ぐらいは夢に見るシチュエーションだよなァ、まあでもキッドに限ってありえねーか。
 都合のいい妄想を、打ち切ったソウルは「おい」と掛けられた声にのろのろと顔を上げた。
と、思ったより近い位置に、キッドの顔がある。その意味を、考える暇もなくすっと頭の下に手を差し込まれ、固定されたかと思うと、零れるからじっとしていろ、と端正な唇がごく間近で囁いた。

「! ……」

 そのまま、くっとタンブラーを呷った、キッドの唇が自分のそれに押し付けられる。冷水を含んで少し冷えた唇の、柔らかさに動転する。不測の事態に思考がついてゆかず、硬直したソウルの口内に冷水が流れ込んでくる。成り行きのままごく自然に、ごくんと飲み下すと錠剤とともに快い冷たさが咽喉を流れて胃に落ちた。
(え? あれ?? ……夢、…………じゃないよな?)
 一度では飲み下せず、それから二度、咽喉は鳴った。嚥下する音が鼓膜に大きく響く。キッドの唇は、人工呼吸をする時のようにぴったりと隙間なく自分のそれを塞いでいる。夢の続きではない、多分。
ぷは、と唇を離したキッドは、ソウルの口元に僅かに零れた水を指先で拭い取って、「まだ飲むか?」と顔を覗き込むように問う。
 今までに、数えるほどしか触れたことのない唇は、しっとりと濡れて艶めいていた。
 いまのはキスではなかったのか。コイツはそんなことをする奴だったろうか。ただの看病だと、割り切っての何気ない行為だろうか。そんなことを考えながら、ぼうっとした頭で頷いたソウルに、キッドは一瞬だけ躊躇うような表情を見せた。

「…………、分かった」

  再び水を口に含む。頬に手を添える。それこそキスをする時のように、柔らかな唇はふわりと、先程より多少の情感をもって重ねられた。そうして何度か繰り返し、キッドの唇を介して水を受け取る。動揺に揺れた意識が段々とあるべき場所に戻り、落ちつきを持って客観的に見られるようになると、今度は繰り返されるその行為の甘やかさにくらりと脳が揺れた。決して機械的作業でなく、触れ合うたび、唇は徐々に熱を帯び、伏せた瞼を飾る長い睫毛が密やかに震えていた。
 次第に水分よりも触れ合う行為の甘さの方を、求めて手を伸ばしかけたソウルの、頭を支えていた手がするりと抜かれる。「もういいだろ」と無慈悲な宣告を下したキッドに、「お、おう」と伸ばした手のやりどころに迷いながらソウルは答えた。

「少しはマシになったか」
「……ん……サンキュ」
「吐き気は?」
「だいじょぶ……今んトコは……」
「ならいいんだが」
「……あの」
「なんだ」
「…………えっと、さ。その」

 言い淀んだ、ソウルに「……なんだ」ともう一度、キッドは苛々した調子で問い返した。

「顔赤いんだけど、ものすごく」
「!」

 びくん、と肩が跳ねあがったのが見て取れた。
 なんと切りだしたものか、迷って結局見たままの事象を告げたのだが。
 その白い肌は、彼のあからさまな動揺を、困惑を、羞恥を隠しきることは決してできない。頬だけでなく下手をすれば耳まで赤くして、キッドはただ無言で俯いている。妙な沈黙が、今更の面映ゆさを煽って、互いになんとなく目を合わせ辛かった。

「……自分からやっといて、なんで照れてんだ」
「て、」

 照れてなどいない、と反論しようとしたのかもしれない。弾かれたように顔を上げたキッドは、ぱくぱくと酸欠の金魚みたいに数度口を開閉させた後、やがて意義を申し立てるのを諦めたか、はーっと長い息を吐いた。

「て、……手違い、だ」
「…………手違い?」
「思っていたよりも、……」

 気恥かしかった、と。熱の上る頬を隠すように口元に手を当て顔を背ける。呟く様な言葉の語尾は実に心許なかった。
 嘘の付けない性分だ。それが本心からの言葉なのだろうと言う事を、実感すると共に、新たに浮かんだ疑問にソウルは首を傾げた。

「そもそも、なんでンなことを?」




 基本的に、キッドはあまりキスだのなんだのといった類の、所謂恋人らしい肉体的接触を好まない。好まない、というよりは、そういった欲求を積極的に抱くことがない、ようにソウルには思えた。彼の特殊な素姓がそうさせるのか、純粋に個人的資質の問題なのかは、分からなかったしあまり深く考えたくない事柄の一つでもあった。
 
 なんだよお前一緒に住んでてまだ手ェ出してねーとか馬鹿なの? などと。酔いの勢いであろうデスサイズの言葉が記憶の淵から浮かび上がってくる。
 そのまま思い出したくもない、醜態の数々が数珠繋ぎになってソウルの脳裡を過ぎる。忘年会。二次会。チュパ・キャブラス。恋バナと称した尋問。下世話な話からいつものように口論になって、いつのまにか飲み比べになって、ブレアが面白がって度数の高いシューターカクテルばかり持ってきやがって。そこからの記憶は曖昧だ。グダグダと、くだらない愚痴を並べて管を巻いたような気がするが、デスサイズが忘れていてくれるのを祈るばかりだ、…………ええと、なんの話をしてたんだったっけ?
 ぼんやりと、霞みがかった記憶を手繰り寄せていたソウルに、キッドは逆に不思議そうに首を傾げてみせた。

「これが、お前の望みではないのか?」
「え、……は?」

 確かに、口移しで飲ませてくれないだろうか、なんて軽い気持ちで考えはしたが、あくまで様式美というか、それは一種の憧れめいたものであって、本心からの願いというわけでは。

「いやそりゃ、嬉しいっちゃ嬉しいんだけど」

 そもそも、何故考えが読まれているんだろうか。死神の魂感知力半端ねェなと退き気味に思うソウルに、キッドは少し怒ったような口調で続けた。

「……昨日、自分でそう言ったではないか」
「俺?!」

重ねて落とされた爆弾に言葉を失う。

「え、…………俺? 俺、なんか言った??」
「言った、というか、……実践した、というか、」
「じ、実践!?!」

 先程ほどまでのふわふわとした甘やかさも忘れ、さあっとソウルの顔から血の気が引いた。一体自分は何を言い、何を実践したというのだろう。昨日の記憶は相変わらず曖昧だが、どうやらこの奥手で初心な恋人に、何かとんでもない事をしでかしたようだ、ということだけは分かった。
 狼狽した顔でキッドを見上げれば、やっぱりな、と言わんばかりの顔でこれみよがしに溜息をつかれた。

「覚えてないんだな」
「ええと……その」
「昨日はあんなに、無遠慮に圧し掛かってきたくせに」
「へあっ!?」
「もういい。気にするな、酔っ払いの戯言を真に受けた俺が馬鹿だっただけだ」
「あ! ちょ、待、キッ」

 椅子を立ち、部屋を出ていこうとするキッドを、引きとめようとして伸ばした手はするりとかわされた。まだくらくらとする頭を押さえながら、ベッドを抜け出した時にはもう、キッドは部屋を出ていく間際だった。

「熱いシャワーを浴びるといい。血行が良くなれば、体内のアルコール分解も活発になる。頭も少しはスッキリするはずだ」

 感情を極限まで抑えた声で、極めて冷静な助言だけを残し扉の向こうに消えた恋人の背に、手を伸ばしてももう届かない。
 一人残されたソウルの、掠れた悲痛な叫びだけが、場に虚しく木霊する。



「な……何やらかした、昨日の俺っ……!!」