02 ドアを開けた途端、流れ込む外気の冷たさとともに、仄かに酒の匂いを感じ取る。呼気だけでなく、身体に纏う空気そのものが酒気を帯びている。ああこれは余程の量を飲んできたのだなとすぐに分かった。 いや、飲まされた、と言った方が正しいだろうか。 そんな考えが過ぎったのは一瞬で、どちらにせよ導かれるものは同じだ、と結論付けて結局キッドは渋面を作った。いま死刑台邸のエントランスに、見るからに赤い顔をしたソウルがいる。ただそれだけのことだ。 どこか呆けた表情を浮かべ、突っ立ったまま中に入ろうとしないソウルの手を、苛立ちを込めて軽く引く。 まさか、まだ起きているとは思わなかったのだろう。死神の朝は早く、夜もまた早い。自らがこれと決めた就寝時間を過ぎてなお、キッドが起きていることは滅多にない。 「……そろそろ戻る頃かと、思っていた」 待っていたのだと暗に伝えて扉を閉める。上気した頬とは裏腹に、掴んだ手は固く随分冷たかった。 「酒くさいな。何杯飲んだんだ」 「…………へへー。たーらいまー」 「っと、……こら、待…………っ」 不意打ちに等しかった。呂律の回らない口調で言い、へらりと顔を緩ませたソウルがいきなり抱きついてきて重心が崩れた。兎角酔っ払いは加減というものを知らない。圧し掛かってくるぐにゃりと力の抜けた身体を、支え損なってキッドは尻もちをついた。 尾てい骨に感じた鈍い衝撃のあと、遅れて痛みがやってくる。 「たた……」 言って、顔を顰める。床には絨毯が敷かれているから、さほどダメージがあった訳ではないが、どちらかといえば、いきなりの狼藉に対しての憤りからくる呟きだといって良かった。 「………………っの、重いだろうが!」 「んんーー?」 「『んー』じゃないっ。退けっ」 「ん〜……」 聞いているのかいないのか判別の出来ない調子で言い、首に巻きつけた腕を離そうとしない。自力で立つ意思を見せず、ソウルはまるで背骨を失ってしまったかのよう、だらりとキッドに体重を預けている。 「……起きろ。重い。こんな所で寝るな、風邪を引くだろう」 「………………ん」 聞こえてはいるのだろう。小さく呟いて、けれどやはり身を起こす気はないらしい。 やれやれ、とキッドは疲れた溜息をついて、その頭に手を置き、子供をあやすように軽く撫でる。 「先程まで、あんなに浮かれていたではないか、……、」 そう、浮かれていた。 つい1時間程前だったか。スピリットから入った鏡通信を、思い出してキッドの手が止まる。知らず髪を掴む手に力が篭もり、「あだだだだ」とソウルが苦悶の声をあげた。 「てて……いて…………なに……なんらよ……」 弱々しい声音に、ふん、とだけ返し、自業自得だと腹の中で思った。 * * * 死武専、年内最後の勤務日。パーティと言うにはささやかな食事会、所謂忘年会はそれまでの慣例に従ってキッドが主催した。二次会と称し飲み直そうと意気揚々なスピリットが、次の店へ勝手に予約を入れていたのもまた、例年のことだった。 『もの分かりのいい上司ってェのは、一次会で退散するもんだぜ?』 そんな事を言って、チチチ、と訳知り顔でキッドに人指し指を振ってみせたスピリットに、まあ一理あるな、と思ったのは本当だ。 若手は強制参加だと、ソウルの首根っこを引っ掴むスピリットを見送りながら、思う。 いくら無礼講だと言葉の上で言ったところで、場に上のものがいては口にし辛い愚痴や悩みもあるのだろう、 先達として、後輩の抱えるものを引き出してやろうという心配りでもあろうか、 ……などと、 『えー、ここチュパ・キャブラスから中継でお送りしておりまァす。現場のブレアちゃーん?』 『はァーい♪ ただいまソウルくんはぁ、新人のレイラちゃんとー、ラブラブツーショットでフレイミング・ランボルギーニを堪能中でェーっす♪』 判断したのは果たして正しかったのだろうか。数時間後、鏡の向こうから送られてくる能天気な声を、聞きながらキッドは疑問に苛まれていた。 なんの意図か、すっかり出来あがった様子のスピリットが寄越した通信は、彼の行きつけのキャバクラからだった。 決して広くはない店内を、原色で安っぽい配色の内装を、薄い味の酒をもすべて、シャンデリアのキラキラした輝きと女性たちの艶やかな笑みで覆い隠してひとときの夢を見せる場所。その一瞬の夢の鮮やかさ、泡沫の儚さにこそロマンがあるのだと、スピリットが熱弁していたのを覚えているが、実際に店内を目にするのは初めてだ。 店が持つ虚構性そのものを象徴するようだなと、思うよりも先にまず、ブレアの言葉が引っかかった。 「ソウルが、――なんだと?」 思わず鏡に顔を近付け、映る映像をまじまじと見詰める。いつもと変わらぬ、弾むような陽気のブレアが指差したテーブル。数種の酒を幾層かに重ね満たしたグラスの上に、幻想的な色をした炎が揺れているのが見える。 そしてグラスに刺さった二本のストローを、仲睦まじく咥える男女の姿。 『熱! 熱っちちち! ちょ、シャレなんねーっての!』 きゃらきゃらと楽しげな笑い声、口々に囃したてる女性の黄色い声に囲まれているのは、デスサイズスの末席であり“ラストデスサイズ”の名を冠するものであり、 ――尚且つ、キッドの恋人でもある、ソウル=イーター=エヴァンスに間違いない。 「……何をやっとるんだ、お前らは」 浮かれきった調子の鏡通信を、今すぐ切ってしまいたい衝動を必死で抑える。 落ち着け。相手は酔っ払いだ。 眉間に深々と皺を刻み、出来るだけ平常心を保とうと努力しながら、鏡の向こうへ問いかける。 レポーター気取りか、手にしたスプーンをマイク風に持ったスピリットの他に見知った職員の姿は見えなかったから、恐らく既に退散したのだろう、ということを推察する。 すごーい髪真っ白なんだァ、おにーさん幾つゥ、若いのに苦労してんのね〜。 しなだれ掛かるようにして、ソウルを取り囲んでいる複数の女性に、どうしても目が行く。ある者はヨシヨシと彼の頭を撫で、ある者はフォークにささったフルーツを口元へ運ぶ。年齢のせいもあるのだろう、それは客と言うより完全に『可愛いボウヤ』としての扱いにしか見えなかったが。 『苦労ォー? そりゃナイことナイっすよー。肩書ばっか仰々しくっても結局、ずーっと下っ端扱いでー?』 『あっテメェ! 俺が新人イジメしてるみてーな言い方すんなよなァ?!』 言って鏡に背を向けた、スピリットの声が遠くなる。マイク代わりに握っていたスプーンを、放り出した際にぶつかったのだろう。ガチンと金属質な音がして、鏡通信の画面が一瞬不安定に揺れた。 「おい……、」 躊躇いがちに掛けた声に、応えるものはない。やがて鏡の向こうで、デスサイズ二人の騒ぐ声が小さく聞こえてくる。 『なんだかんだでお前がいっちばん死神様に目ェかけて貰ってるくせに増長すんじゃねーぞこのっ』 『っせえ! アンタがなんでもかんでもコッチに丸投げしてくっからだろ! もっと真面目に仕事しろこのエロオヤジ!』 無論本気での言い争いではない。いつもデスルームで交わされるものとなんら変わりなく見えた遣り取りは、しかし酒の力が働いてか、徐々に要領を得ない独り言のようになってゆく。 いやーべつにねーダメっていうわけじゃないんすよー、そりゃ頼られりゃー嬉しかあるけどでもなんかこーマジに頼られてんのかイマイチわかんねーっつうかそもそも死神の物差しってェやつが理解不能っつうかー、でもそーやって頼るっつーか甘えてくんのも俺にだけかなーと思ったらそれはそれで悪い気しねェ気もするしー、けどこー時々、それでいいのかー? みたいなー、…… 「…………おい……ソ、」 呼びかけてみるも届く筈もなく。 『未だにぜんっぜんわかんねーってのが……なんか……』 力なく言って、ソウルが肩を落とす。管を巻く、という表現がまさしく当てはまるような、ぐだぐだとした物言いを、ウンウンと頷きながら受け流す女性陣。全く聞いていないスピリット。 『以上、現場よりお伝えしましたにゃ〜♪ スタジオにマイク返しまァ〜っす♪』 ブレアの意味のわからない台詞を最後に、ぶつん、と一方的に鏡通信は切られた。 掛けなおそうとして、上げかけた人差し指は溜息と共に下ろされた。 「………………」 への字に曲げられた口元の、口角がさらに下がる。掛けていた椅子の肘掛を数度、苛立たしげに指先で叩いたあとキッドは、やや乱暴な仕草で組んだ足を解き、勢いをつけて立ちあがった。 「……ふん」 不機嫌に呟くと、シャワールームに足を向ける。 胸がむかつく。ふつふつと頭に血が上っている。感情が苛立ちで塗りつぶされていくのがありありと分かるから、少し冷静になりたかった。 飲み慣れぬ酒に、すっかり飲まれおって。 綺麗どころに囲まれて、照れるでなく嫌がるでもなくとろんとした目で鼻の下を伸ばしていた――少なくともキッドの目にはそう見えた――ソウルの様子を思い出し、眉間の皺がいっそう深くなる。 店の場所は分かる。迎えに、連れ戻しに行こうと思えば行ける。 ……けれど。 物に八つ当たりをする性分ではないが、どうにも治まらず、脱いだ部屋着をランドリーバスケットに放り投げるように入れる。 明らかに気乗りしない様子のソウルに、付き合いも仕事のうちだと慰めの言葉を掛けたのは、紛れもなく自分だ。 アルコールが、人の和を醸すこともある。それはあくまで場の空気を和やかにするためのツールに過ぎないとはいえ、不満を溜めこみやすい性分な恋人の、抱えたものを多少なりと、軽くするならそれもいいだろうと思ったから。 (…………思った、……のだが、) いざああして、自分以外のものに胸の裡を吐露する姿を、見せられると正直面白くはない。 苛立ちの原因を考えながら、ますます傾いていく機嫌に気付き、キッドは思考を打ち切った。 「……何が、分からないというんだ」 呟きは、シャワーから流れ出る水音に掻き消された。 けして短くはない時間を重ねてきて、それでも。 未だに全く理解ができないのだ、というソウルの言葉こそが、何よりキッドの心に嫌なしこりを生じさせていた。 |