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素晴らしき日常 ■■
時を経て黒く煤けた鉄門扉をくぐり、聳え立つ死刑台邸を見上げる。昼日中の明るい空をバックにしてなお、時代遅れのホラー・ムービーに出てくる古城のような雰囲気のあるそれに、軽く威圧感を覚えながらもエントランスへの階段を上る。
開かれた扉と、キッドの嬉しそうな顔にふっと緊張が緩むのを感じながら、「おじゃましまーす……」とややトーンを落とした声で挨拶をしつつ、外の気温関係なしにいつでもひんやりとした空気の流れる邸内に、俺は足を踏み入れた。
「何もないが、寛いでくれ」
と告げたキッドの言葉通り、キッドの私室はほんとになんというか、娯楽らしきものが見当たらなかった。普段の彼がここで一体どんな風に過ごしているのだか、想像の足がかりとなるものを求めて何気なく本棚に目をやる。並んでいるのは大方の予想通り、お堅い書籍が大半だ。魂学の教本に文献、見知らぬ言語の辞書だのに目を滑らせつつ、見つけた娯楽小説のようなものが何か意外で手に取ってみる。
「……なんだ、気になるのか?」
「ん? いや、」
アイスティを二つ、トレイに乗せて運んできたキッドが俺の手にした本に視線をやって、興味があるなら持って帰っても構わない、とグラスをテーブルに置きながら言った。「サンキュ」と取り敢えずは礼を言い、日に焼けて軽く変色しているその本を棚に仕舞おうとして、なんとなく気になりパラパラと捲ってみる。
「お前もファンタジーものなんか読むんだなーって……なんだこりゃ。ジョーク集か?」
「分類上は、哲学書になるのだろうな」
ファンタジーと名のついたその書籍は所謂幻想文学的なものかと思いきや、よくよく見れば確かにタイトルにphilosophicalと入っている。中身はといえば結末を明示しない逸話やジョーク、パラドクスの類で構成される短編集のようでもあった。
「軽妙な語り口の逸話の中にも、認識論や存在論といった哲学の基礎的命題が盛り込まれている」
「はァ」
「ソウル。娯楽的な読み物もいいが、偶には学術的な色合いの書物に目を通すことも有益なことだと俺は」
「はいはいはい、ご高説どうも」
「……。哲学に興味がなくとも、比較的読みやすい方だと思うぞ、それは」
確かにキッドの言う通り、テーマ自体は重そうだが、内容はショート・ショート的で一般的な学術書に比べればかなり取っつき易そうではある。
僅かに迷って結局、じゃァ借りて帰っかな、などと言ってしまった。実際、多少興味を引かれたからでもあるが、話を打ち切った時のキッドの表情が実に分かりやすく不満気であり、かつ少し寂しげにも見えたせいでもある。……ま、知識共有は円滑なコミュニケーションの基本だよな。
「お前のオススメにしちゃ、まだマトモだし」
「心外だな。俺がまともでないものを勧めたことがあったか?」
誰の常識で照らし合わせれば、『数式世界にみる左右対象』だの『世界の代表的シンメトリー建築物』だのがマトモの部類の入るんだかは知らないが、そんな不毛な議論をする気は勿論ない。
無言で肩を竦めた俺に、キッドは少しだけ唇を尖らせる。とはいえ本気で気を悪くした訳でもないのだろう、やがて不服そうな表情はふっとほどけた。代わりに浮かべたやわらかな笑みに、軽く胸の高鳴りを覚える。ただただそれだけのことで、もう平常心を保てなくなる自分に、少しばかり呆れはした。
……落ちつけよ。こんぐらいでドキドキして、どーするってんだ。
「……で、今日は何の用だ?」
キッドの言葉で、はたと我に帰る。そうだ、俺は別に本を借りに来た訳じゃない。
意識した途端、口内が妙に渇くのを覚え、曖昧に言葉を濁すと、出されたアイスティに手を伸ばした。
カラン、と涼しげな音がしてグラスの中の氷が揺れる。恐らくキッドが丹念に茶葉を計って抽出したものなんだろう、風味がいつも飲んでいるものとは段違いだ。繊細で軽やかな口当たりに軽く驚いて「美味いな」と何気なく呟いた俺に、キッドはわが意を得たりと言った顔で頷いた。
「春摘みのものは何より香りが良いからな。パティが、紅茶は渋いのが嫌だと言うから、水出しで苦みが出ないように淹れたんだが……」
そのままファーストフラッシュとセカンドフラッシュの、味と香りの違いについて話し始めるキッドに、ふんふんと相槌を打ちながらアイスティを啜ったストローを噛む。暑い訳でもないのに咽喉はやけに渇いている。キッドの言葉を右から左に聞き流しながら、滑らかに動くその唇に視線を留めて、別のことばかりを考えている。咽喉を潤した紅茶の味は、もうよく分からなくなっていた。
(落ちつけって、)
胸の内で繰り返して、ストローから口を離す。
小さく深呼吸して息を整え、真っ直ぐにキッドを見据える。一頻り話し終えたキッドが、視線を受け止めて穏やかな表情のまま軽く首を傾げ、俺の言葉を促した。
「あのさ」
「うん?」
「今日は、その」
「うん」
「……続きを、だな」
掠れた語尾を聞きとれなかったか、キッドが軽く眉を顰めた。それだけで、何かを咎められているような後ろめたさを覚えるのは俺自身の、抱えたやましい気持ちのせい、なんだろう。
ああもうなんだって今更、こんなに緊張してんだよ俺は!
自分を叱咤しながら、いつのまにか乾いてしまった唇を舌で湿す。
邸内はしんと静まり返っていて、いつもなら聞こえるはずの姉妹の声も足音も、気配すらも感じない。そりゃそうだ、誰かさんと違って俺は、あいつらが今日、家を空けていることを知っている。恐らく夕刻までは戻らないであろうことを把握したうえで、キッドに会うためあの重厚な門をくぐったのだ。
恋人と良い雰囲気になったところで部外者に面白半分に乱入される、なんてぬるいラブコメみたいなマネをやるのはもう、今回ばかりは御免だからな。
そうだ。俺は今日、ある種の決意を固めてここへ来た。それはつまり、あの日未遂に終わったコトの続きを、――有体に言ってしまえば、恋人とセックスをするというこれ以上にない下心を持って訪れた、のだった。
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