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素晴らしき日常 ■■
03
「……さて、何から教えようか! やはり魂学か、それとも一般教養科目か?」
抱き締めようと広げた腕が虚しく空を掻く。
それこそ傍にいたことすら気付いていなかったよう、俺を見事なまでに素通りして、スタスタと本棚の方へと歩いて行ったキッドは、滑稽なポーズのまま固まっている俺にちらと怪訝な目を向けた。
「? どうした。おかしな顔をして」
そのまま視線を外し、本棚の前で教本を選定するキッドの後ろ姿をしばらく呆けた顔で眺め、そして全てを正しく理解する。
…………はいはいはい、お約束お約束、と。
「お勉強会な」
そうだった。今度な、と確かにあの時、約束はしていた。今の今まですっかり忘れていたし、できればずっと忘れていたかったが。
「やる気になったのではないのか?」
厚い辞書を机に置いたキッドが、鉄は熱いうちに打てと言うからな、人も精神が柔軟性に富む若い時代に有益な教育を施さなければ、などと爺むさいことを呟く。
けれどその表情は随分嬉しそうに綻んでいて、……そんな顔をされたらまさか、ヤる気になっていたんだとは到底言えず。
誤魔化す様に頭を掻いて、口からは自然溜息が漏れた。
「……こりゃ長期戦になりそうだ、と、思いましてね」
「そうだな。継続は力なり、と言うだろう。続けることが大事だ」
噛みあっているのだかいないのだか、分からない会話に苦笑した俺に気付いた様子も無く、キッドはやがて一冊の教本を手に取った。
「だから、その。……時々はこういう機会を、持ったほうが、いいと」
「?」
それまでの流暢な物言いが、一変して歯切れが悪くなる。急にトーンを落とした語尾を聞き取れず首を傾げた俺に、キッドはゴホン、と一つ咳払いをする。
「俺は別に、今更学ぶ事もないが。他者に指南する事で自らの水準を維持する、という点では必要なこととも言えるし」
「はァ」
「死刑台邸でもいいが……、リズとパティがいると何かと騒がしいからな。図書館の方が適しているだろう。気を散らすようなものが無い分、集中して取り組めるし、何より蔵書も豊富だ」
独りごとのよう、一方的に言いきって、キッドはふぅっと軽く息をついた。
「つまり、……定期的にお勉強会をしよう、って?」
たったそれだけの、随分と健全なお誘いだ。だのにキッドは先程から俺と目を合わせようともせず、背けたままの横顔は精神の高揚を表わすように薄赤く色づいている。……うん、そんな思わせぶりな顔されるとまた、何か勘違いしそうになって困るんだわ。止めて欲しい。切実に。
随分と持って回った言葉を要約したつもりだったが、「先程からそう言ってるだろう」と憮然とした眼差しが返ってきた。……そうでしたっけかね。
釈然としない気分は顔にも表れていたに違いない。俺と目を合わせたキッドの表情が、僅かに曇る。
「……いや。お前の都合もあるだろう、から、……月に一度か、二度程度でも」
少しだけばつの悪そうな様子で言ったのは、先走って話を進めてしまったことに対しての後悔、だろうか。
「いいぜ、そんぐらいなら」
「そうか」
間を空けず即答した俺に、キッドの表情からは僅かに見えた翳りが消え、どこかほっとしたような様子を見せた。
ただそれだけの事を告げるのに、幾許かの勇気を必要としたのだろうか。拒絶に対する怯臆と、受容への安堵。そんなものを垣間見た気がして、だから俺は、その言葉の真の意図に気付かざるを得ない。
「……? どうかしたか?」
「いいや」
緩く首を振って応え、差し出された教科書を受け取る。それは単純に出来の悪い級友に対する配慮であるのと同時に、体の良い言い訳でもあるのだ。
思わずこそりと苦笑する。毎日教室で顔を合わせ時に帰り路を共にして、……けれど死武専という枠を離れても、特別な何かが無くともなんとなく二人で過ごす時間、というものを持つにはまだ俺達の間の空気は緩んでおらず、特別なナニかをする程に甘くもなかった、それだけの話。
本来なら理由付けなんざ必要ない、ただ逢いたい、一緒にいたいというだけの至極素直な感情を、こんな形でしか表すことができない俺達は、全く以って不器用極まりない。
「……休みの日まであの長ェ階段昇んのは、ちっとダルいなと思っただけ」
けれど、こうして過ぎゆく瞬間と何気ない毎日が、重ねる時間がいつか二人の歩幅を、見えない溝を、数え上げるのも面倒な全てを埋めるだろう。楽観とも諦観ともつかないそんな考えに身を委ね、気は進まないながらもぺらりとノートを捲る。
少なくとも、互いの目は互いを捉えている。それだけは間違いないのだから。
「死刑台邸でも、俺は構わないが?」
伸ばした手が触れ合い繋がるまで、この白紙のノートをどれだけ埋めればいいのだかは未だ見えないが。
ひとまずはこの持久戦をくぐり抜けるため、時々は俺のアパートにしてくれるとありがたい、と根拠地確保のための案を提示してみるのだった。
[end.]
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