Sugar sweet nightmare 



01


(――……、)


 意識は闇の中にあった。
 四方の感覚は曖昧で、奇妙な浮遊感だけがそこにある。音はなく、色もない。身体を武器化させている時に『見える』世界に近似しているが、しかしあの時ほどに五感が研ぎ澄まされている訳でもない。
 これは夢なのだろう、とソウルは自らの精神が漂う場所を認識した。覚醒する間際、いつもみる夢。だからこの後の展開は把握している。濃密な闇に塗りつぶされた意識の片隅に、やがて小さな光が生じる。周囲を満たす無量無辺の闇が、歪み、捩れ、次第に形を変えていくのがわかる。
 閉ざしていた瞼を、ゆっくりと上げたソウルは微かに目を眇める。それは窓から差し込む爽やかな朝日の眩しさに、ではなかった。
 室内にいくつもあるキャンドルの仄かな光。赤い暗幕を垂らした広さの把握できない空間。赤黒の幾何学模様を描く床を、視線で辿った先、部屋の中央にあるピアノは奏者の訪れを待ち沈黙を守っている。
 静寂に満ちた空間に、不意に何かの音が生じた。見れば、音盤がひとりでに回り始め、クラシックな蓄音器からは調子外れなジャズが流れだし、どこから現れたかダブルのスーツに身を包んだ醜悪な小鬼が、それに合わせてステップを踏む。
 此処は自らの精神の狭間。何処にも存在しない場所。
 ああ、いつもの光景だ。
 倦んだ思いでそれらを眺め、気が付けば腰掛けていた椅子に頬杖を突いて、ソウルは足を組み直した。
「いい加減、見飽きたよな。この部屋も、お前のシケたツラも」
「そうかい。じゃァ、ゲストでも呼ぶか?」
 小鬼がピアノの上をちらりと見遣る。つられてそちらへ視線を投げたソウルは、楽しげな様子の小鬼とは対照的に苦い表情を浮かべた。
 振り子の止まったメトロノームがそこにある。
 決して己の歩調を乱すことなく、正確に拍を刻む、指針となるべき何か。それはあたかも拍節器の如き、誰かを想起させる物体。
「……何のマネだ?」
 他意識の外部的干渉を受け変容した精神の軌跡でもあるそれが、何故未だにここに存在するのかということにソウルが考えを巡らせた時、「一人寝が、寂しい夜もあるよなァ」と小鬼が歌うような調子で言ってパチンと指を鳴らす。
 部屋の奥にあるキャンドルの一つに、ぼうっと蒼い灯がともる。と同時に、それまで他者の存在など感じさせなかった室内に、明らかになにかの気配が生じた。
「…………オイ、」
「なーに、驚くこたァない。物理的な距離なんかは関係ねェのさ。そら、恋人同士って奴は、心で繋がってるモンだろ!」
「だからって」
「……月光の冴え渡る夜は、狂気もよく浸透すんのかもなァ?」
「てめェ……」
「……煩い。寝ていられんではないか」
 眠たげな声が、二人の会話に割って入る。気配が生じた瞬間から、もう分かっていた。その声の主が、誰であるのかなど。
 常ならば、よく通る凛とした声が、今は明らかに不機嫌を滲ませ掠れている。
「キッ――……ド、」
 それが寝起きの所為であることを祈りながら、振り返り恋人の名を呼ぼうとしたソウルの言葉は途中で途切れた。
彼の予想通り、気配はキッドのものに相違なかった。いつかの時と同じようにソファに身を凭せ掛け、眠そうに目を擦っているキッドは白いリンネルのパジャマを着ていたから今度もやはり、睡眠中であったのだろう。
 けれどそんな事には気が回らないほどにソウルは動転していた。驚愕に見開かれたままの彼の赤い瞳を、不思議そうに見詰め返してキッドは首を傾げる。
「……なんだ? その顔は」
「な、……んだって、……お前、…………そりゃあ」
 言葉が切れ切れになったのは動揺の表れだ。何かの錯視ではないだろうか、と、まず自らを疑い目を擦り、次に、彼らしからぬ冗談であろうか、とキッドの顔を凝視する。そんな恋人の不躾な視線を、受け止めてキッドは軽く眉を寄せた。
「……俺の顔になにか、ついているのか」
「いや…………顔、っていうかその、……ちょっ、タイム!」
 言いながら小鬼の首根っこをひっつかみ、部屋の隅へと引き摺って言ったソウルを怪訝な目で見遣って、「……ふぁ」と小さく欠伸をしたキッドはソファに凭れかかる。
「――……ん……にゃ」
 まるで子猫のような呟きと共に目を閉じたキッドの頭の上で、――なぜか獣の耳のようなものがぴこぴこと動き、上衣の裾からは、耳と同じ色をした、漆黒の尻尾が覗いていた。







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