パタン、とドアが閉じられた時、彼の笑顔は、奇妙な形に強張った。
「――……! ……!」
驚きのあまり、言葉を失う。
突如、それは彼の前に姿を現した。先程、窓辺に張り付いていた、『なにか』が、ドアの脇に、ちょこんと立っていたのだ。
瞬きを繰り返しても、それは視界から消え失せることはない。やはり、見間違いではなかったのだ、とソウルは思った。あれは、なんなのだろう。なぜ、ここにいるのだろう。ドアは先程まで開いていた。ああそうか、ちょうどドアの影になっていた部分に、あれは隠れていたのだ、……けれど、一体いつ、どうやって、部屋の中へ入り込んだのだろう? さっき、窓から? 僅かばかり目を離した、あの数秒の間に? ……まさか!
瞬間的に色々な事を考えながら、身動ぎもできず緊張した面持ちで、彼はその影を見詰めた。黒い、ぼろのような装束を頭からすっぽりと被った『それ』の、唯一露出した顔らしき部分、しかしそれは人の顔をしていない。そこにあるのは肉を削ぎ取られたただの白い骨――骸骨、だった。
(――……死神、)
不意に、そんな単語がソウルの頭を過ぎる。
聞いたことがある。人の魂を狩るという、死神の話。
ごくり、とソウルは唾を飲んだ。ただの迷信だと思っていた。子供を寝かしつけるためのお伽噺のようなものだと、思っていたのに。けれど、その不気味な風体は、一種異様な威圧感をもって、彼に目の前の『それ』が確かに死を司るものであるということを信じさせる。
す、と『それ』は動いた。自分の方へ近づいて来る。体は金縛りにあったように、指先ひとつ動かせない。つう、とソウルの背中を冷たい汗が伝う。
死神の伝承には続きがある。それは死者の魂を狩るだけではなく、時に幼い子供を連れ去ってゆくのだという。世界のどこかにある、死神の国へと連れて行かれた子供は、二度と家へは戻って来られないのだと。
「……い、」
いやだ、いやだ、いやだ。
叫び出しそうになって、けれど咽喉は恐怖に引き攣れ正常に機能しなかった。パニックへと転落する心理的な断崖の縁に立たされながら、彼はどうして自分がこんな恐怖を味わわなければならないのか、その理由を必死で考えていた。
言いつけどおり、ベッドで大人しくしていなかったせいだろうか。それでも、決められた時間にはちゃんと眠りについている。朝だって、毎日きちんと歯をみがいているから虫歯もない。めんどうくさいと思っていても、食事前のお祈りだってしている。なにも、悪いことなどしていないはずだのに、どうして。
けれど、どんな異議を申し立てようと、きっと通りはしないだろうと、彼は本能で感じとっていた。それは何か重大な禁忌を侵したものに対し、下される罰ではない。あらゆるものに平等、かつ不条理に訪れるもの、それがきっと、『死』と呼ばれるものの正体なのだと。
ただ怯えながら、近付いてくるのを、見ていることしかできない。得体のしれない恐怖に直面して、ぎゅっと強く目を瞑った彼の耳に、『死』が這い寄る音が響く。
とてとてとて。
(――――ん?)
違和感に、閉じていた瞼をあげる。
とてとて。
小さな足音とともにソウルの目の前に立った『それ』は、確かに死神と言っていい風体をしていたが、しかし、彼が想像していたよりずっと――小さかった。
遠目だから小さく見えた訳ではない。『それ』は確かに、小さかったのだ。
先程まで感じていた恐ろしさもすっかり忘れてしまったように、訝しげな顔でソウルは目の前の黒いものをじろじろと眺める。背の丈は、自分と同じか、小さいぐらいだ。ちょん、と踵を揃え、黒い装束を羽織った『それ』が、着けていたのはよくよく見れば髑髏を模した面だった。
それが先程、自分を仰天させたものの正体なのだと知って、ソウルは安堵した。仮面なら、何も怖いことはない。だってその下には、人間の顔がある筈だから。
やがて彼の目の前に立つ黒いものは、自らの被った面を、ぐい、と頭の上へずらした。ソウルの予想に違わず、その下から現れたのは彼と同じ人間の顔であり、そして彼と同じ年頃の、小さな男の子、だった。
「おまえ、……なに?」
もっとも根本的な疑問をぶつけてみる。『それ』は、自分と同じ、小さな子供のかたちをしていたが、何か口では言い表せないような違和感があった。上から下まで真っ黒な、装束に身を包んだその子供の、髪は衣服と同様に黒かったが、肌は被っていた面と同じに、血の気を感じさせない程に白い。
東洋人ではないな、とソウルは自らの乏しい知識からそう結論付けたが、かといって、西洋人とも違うような顔立ちをしている。どこにでもいそうなのに、どこにもいないような、不思議な雰囲気を纏った子供の、何より印象的だったのは、その髪だ。
「……しましま」
「!」
見たままを口にすると、黒い子供が一瞬、動揺したのが分かった。
短く切り揃えられた彼の髪は、夜の闇を思わせる漆黒だったが、何故か頭の左半分にだけ、集積した光の帯のような、白いラインが三本横に走っている。
「ヘンなの」
「……!!」
もっとストレートに言ってみると、黒い子供は明らかに傷付いた顔をした。先程まで彼が保っていた、妙に超然とした雰囲気が崩れ、どこかおろおろと落ち着きなく目線をさ迷わせているその様子が、ソウルを幾許か安心させた。得体のしれない『黒いもの』であったそれに、一応の人間的感情の動きが見られる事を知り、ならば、ともっとからかってやりたくなる。
「なんか、ピアノの鍵盤、みたいだ。変わってるな!」
「………………」
さあ次は、どんな反応をするだろうか。かんしゃくを起こすだろうか、それとも。少し意地の悪い気持ちで相手の反応を待つソウルに、ふるふると肩を震わせていた子供が、キッと顔を上げた。
「っ、」
金色の双眸が、彼を真っ直ぐに捉える。射るような眼差しを向けられて、ソウルはたじろいだ。同じ年の頃とは到底思えない、その視線の鋭さに、あたりの空気がみるみる緊張してくるような気がした。
明確に、怒らせたのだ、と分かる。言い過ぎたと、謝ろうにも舌がうまく回らない。眼光に射竦められてしまい、彼は無言で場に立ち尽くすしかなかった。
どれぐらい、そうしていたのだろう。そう長い時間ではなかった気もするが、不動の視線を浴びつづけるうちに、しだいにソウルは奇妙な心もとなさに襲われた。その黒い子供の眼差しには、他者を萎縮させる厳しさと同時に、存在の奥底までを見透かされるような怖さがあった。
幼さなど微塵も感じられぬ、深淵すら見据えたような瞳に、けれど不思議と惹かれるものがある。底の見えぬ恐ろしさを覚えながら、それでも見詰めていたくなる。触れてはいけないものに、触れたくなる不思議、心まで飲みこまれるような、予感がして――
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