03 「ね、バカでしょ」 「……む」 いま二人が座るこのカウンターで、マカがソウルと交わした言葉を。 一部ではあれど、共有したキッドは、同意も反論もせずただ、斜めに目を伏せた。 「クロナを助けるまでは、って。自分のことより、私に幸せな顔してて欲しい、だって。……恥ずかしい事、言ったって自覚してるのよ! だってそのあとシラフで会った時、そんな話忘れたーってしらばっくれたんだから!」 ほんとバカ、と言う横顔が、無理に笑おうとしているようで。 相槌をうつでもなく、キッドはただ黙って彼女の言葉を受け止める。 「バカで、気障で、お人好しで、……」 そこまで言って、マカは両の手で顔を覆う。まるで、泣きたいのを堪えるように。 「捻くれてるくせに最後はいつでも、私のワガママ聞いてくれる、超いい奴。……ぜんぜん、変わらないの、あの頃から。ちっとも」 声音が、少し震えていた。その手の下で、彼女が、どんな表情をしているのか、見えなくても分かる気がした。 まったく、あいつらしいな、と。 職人のために死ぬ覚悟があると、迷いなく言い切ったソウルの在り方は、いまなお変わってはいないのだなと、キッドは改めて思う。 捻くれ者だけど、超いい奴。 最も古く武器としての彼を知る、マカの評は実に的確に思えて。他人事ながらどこか擽ったく、しかし誇らしく感じるのは、彼がいまは己の武器でもあるから、……それだけ、だろうか。 「ほんとはね」 言いながら、マカが伏せていた顔を上げる。泣き笑いのような表情を、浮かべキッドに向き直る。 「……ちょっと、悔しかった。先に言われちゃったなあって。私だって、ソウルに、幸せでいてほしい。……諦めたみたいな目で、笑ってほしくない。…………でも、」 言葉に詰まる。「でも?」と先を促した、キッドを見返す翠の瞳が、揺れる。 「……私、きっと怖かったの」 「怖い?」 オウム返しに言ったキッドに、頷く。 「クロナを助けたい」 「……ああ」 「約束した。必ず、戻るって。待ってて、って」 「ああ」 「……でも、もし……、もしも、」 もしも。 約束を記憶の底に沈め、時が悲しみを癒すままに生きる、そんな未来をわずかでも描いたとて、誰も彼女を責められまい。 けれど、例え酔ったていでも、彼女の潔癖が、決して折れぬ心が、それを口にすることを拒んだ。一瞬硬く強張った表情は、すぐに緩められた。 「ううん。例え何年、……何十年かかったって。必ず、助ける」 「ああ」 「……でも。それは私のワガママなんじゃないかって。ソウルを付き合わせていいのかって」 「そう、思ってしまうことが、怖いと?」 「…………うん。自分で決めたことなのに、ね」 強くいなきゃ、いけないのに。 そう言って、冷水を満たしたグラスを両手で包み、祈るようにぎゅっと握る。その華奢な肩が、かかる重さに耐えかねるよう微かに震える。 かつて鬼神の闇を打ち破り、ラストデスサイズを育てた職人は、けれどただのか弱い一人の乙女でしかないのだと。 思いを巡らせた末に、キッドは沈黙を選んだ。告解は、神としての赦しを、欲してのものではないだろう。友として、重ねてきた時間がキッドにそう思わせた。 やがて、ほう、と溜息のように大きく息を吐いて、マカはテーブルについた拳をぐっと握った。視線を上げ、キッドを真っ直ぐに見据える。 「ゴメン。弱音吐いた」 「いや」 「あいつには、黙っといてよね?」 迷いを振り切るよう、にこりと笑う。この僅かな間で、胸を覆う靄をほんの少し吐き出しただけで。背にかかる重圧を、這い寄る恐怖を自ら払い、笑ってみせるのだ。 彼に勇気を与えた彼女は、か弱い乙女であり、けれど誰より強く勇敢な魂を持っている。曇りなく澄んだ翠の瞳を、見つめてキッドは思った。 「……ワガママじゃないさ。マカの願いは、お前達二人の願いであり、そして俺の、俺達の望みでもある」 「…………うん」 「俺が信じた魔女との約束を、お前達は信じてくれた。俺もまた、ソウルの信じるマカを、君の魂の強さを信じよう。死神として、なにより一人の友として」 「うん。……ありがと、キッド」 死神様のお墨付きだね、と照れたように笑う。花がほころぶような笑顔が、いつかのツーテールの少女のものと重なってみえて。 「変わらぬのだな」 キッドもまた、穏やかに微笑みを返した。 「パートナーであり恩人でもあるマカの、幸せを願うその姿勢。ソウルらしい気障で、不器用で、しかし情の深い在り方だと思う」 「うん」 「自らの手で必ず、クロナを救ってみせるというマカの決して折れない意志。……お前達二人の、変わらぬ強く高潔な魂を、改めて感じさせられたよ」 「ん……うん」 「? どうした。妙な顔をして」 話すうち、マカの表情の微妙な変化に気付く。何かおかしなことを言っただろうか、と疑問に首を傾げたキッドに、 「ううん、そうじゃないの、……ありがと、キッド」 礼を言いながらも、マカはどこか、もどかしげな顔で言う。 「えっと、そうじゃなくってね、……何て言ったらいいのかなぁ」 「ん?」 「もうちょっと具体的な話、……どうなの?」 「どう、とは?」 「ソウルのこと、っていうか、その、好きな人の話とか」 少し声を潜めるようにして言うマカに、なんだ要領を得ないなと、キッドは怪訝な顔をした。 「マカの悲願が成就されるまでは、己の想い人のことは考えられない、という話か」 「そうそう。その、……キッド的にはどうなの、かなーって。……あっ、いや、ただの興味本位! ほら、女子って恋バナ大好きな生き物だし! ……大丈夫! 私酔ってるし、明日には忘れちゃうから!」 慌てたように両手を広げてぶんぶんと振る。 何をそんなに慌てているのだろうかと、不思議そうな顔をしたキッドは、 「そうだな」 くっとグラスの冷水を飲み干してしまうと、顎に手をあて、しばし黙考する。 カラン、グラスの中の氷が溶けて、澄んだ高い音をたてる。沈黙の数秒、痛いほどのマカの視線を受けて、なぜか空気はやけに張り詰めて感じられた。 「……あいつの決意は、つまり。どれだけの時を経たとて、自らの思いは揺らがぬ、という確信の現れでもあるんだろう。…………そんなにまで深く、思われている相手は、幸せだろうなと思うよ」 「…………。それだけ?」 「ん?」 黙って聞いていた、マカの顔が微妙に曇った。キッドの言葉の真意を探るよう、顔を覗き込む。まるで他人事のような感想、いや、まさか本当に他人事だと思っているのだろうか、と。 「なんだ、じっと見て」 「……んーん」 死神の魂は微細な揺らぎさえ見せない。その黄金色の瞳にも嘘がなく、言葉に何も含むところが無いことを確認して、マカは安堵したような、落胆したような複雑な表情で肩を落とした。 「なんでも。……マスター、お代わり」 「あ、こら」 「いーじゃない。もう一杯だけ」 景気付け、とマカはシャンパングラスを掲げる。 「早く迎えに行かなきゃ、ね。……私とソウルと、…………その、幸せな誰かさんのためにも!」 「ああ。そうだな……、」 気持ちを切り替えるように朗らかに笑う、マカに応えてキッドもくすりと笑みを零す。 流れるスローバラードに紛れて、囁くような独り言は、彼女の耳には届かず、静かにデス・シティーの夜に溶けた。 「……俺は、幸せものだ」 |