においで


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「………………はッ……」

 目が覚める。カーテンを閉め切った薄暗い部屋、ベッドの上に一人きり。がばと起き上がりこめかみを伝う汗を拭う。いま自分のいるここが、チャペルでも、死刑台邸でもない事を確かめたあと、はーっと安堵とも疲労ともつかない長い溜息をついた。

枕もとの時計は八時を指している。
「……? 朝、か?」
 時間を正確に認識できなかったのは室内の暗さのせいだ。カーテンを開け放ってみたが外は生憎の曇天で、部屋も気分もさして明るくはならなかった。
 今日は何の予定も入れていない。晴れたら出かけよう、雨なら読みかけの本を読んでしまうかと思っていたところで中途半端なこの天気、ってあたりがいかにもって感じだ。
 特筆すべきこともない、気怠い朝の光景。
 夢の中はやけにスペクタクルだったような気もするが、現実なんてむしろこれぐらいで丁度いい。
 ひとつ大きく伸びをする。取り敢えず寝汗にまみれた不快なシャツを脱ぎ捨て、新しいシャツに首を通しながらキッチンへ向かう。


 三度目の正直、という言葉がある。
 二人用のコーヒーメーカーにマグを一個だけセットして、ぼんやりとした頭で出来上がりを待ちながら、俺はこんどこそ自分が正しく目覚めているんだろうかと、むにーっと自分で頬をひっぱってみる。
 痛みは、……あるような気もするが、正直よくわからない。
 やがて蒸気の立ち上りだしたコーヒーメーカーに、何気なく手を翳してみた。
「熱っち!!!」
 途端、末端に刺すような痛みを覚え、慌てて流水に手を浸す。
 ……どうやら痛覚はある。水の冷たさも感じられる。じゃあ今度こそ間違いなく、これは現実、なのか?
 しかしこの痛みさえもフェイクなんじゃあないのかといいかげん疑心暗鬼にもなっていて、とりあえずリビングの壁に頭でもぶつけてみようかとスタンバったところで、カチャリとアパートの鍵を開ける音とともに懐かしい声が耳に届く。

「……ただいま……、…………、何をするつもりなのか、聞いてもいいか?」
「え、あ……いや。おかえり……」

 いままさに奇行に走らんとしていた俺を、帰省から戻ったキッドが、触れてはいけないものでも見るような目で見ていた。
 その腕には、小さな命を抱いて。


 デス・シティのはずれにある、小さなアパート。
 交際を正式に死神様に認められ、しかしその性質上、そして二人の立場上公にするワケにもいかず、割とひっそりしたお付き合いをしていた俺とキッドは昨年の春、互いの家を出てここで二人で暮らすことに決めた。
 一般的な恋人同士で言えばゴールインと言っても差支えない。
 とはいえ、対外的に見ればそれは『男二人で同居始めました』という以上の何物でもない。いくら二人が好き合っていようとも、周囲が認めていようとも。
 まさか式を挙げるってワケにもいかねーしな、とふと考え、すでにぼんやりと輪郭を失いそうになっていた夢の中の夢を思い出してしまい、ぶるりと軽く背筋を震わせた。
 いくらなんでもありゃ勘弁だな、と自分のマグから淹れたてのコーヒーを啜りながら、コーヒーメーカーにキッドのマグをセットする。
 多くを望むつもりなんて、元々ない。ただ二人でいられればそれだけで、……そう願う事すら、叶わない者だっているはずだ。
 死神様。デスサイズのおっさん以下死武専の教職員、そして、未だに口喧しい俺の元相棒を始めとした、死武専生時代の仲間達。俺達は幸いにして多くの理解者に恵まれ、そして二人で過ごす時間まで手に入れて。これ以上、いったい何を望もうってんだ?

 しかし時として人は、自らが望む以上の幸福を得る事がある。
 それが人生を謙虚に生きてきた者に対する恩恵であるのか、それとも相応の代償を求められるものなのか、……そう考えると、過ぎた幸福は少し、怖い気がしないでもない。
 キッドの分のマグをテーブルに置き、向かい合うようにソファに腰を下ろす。
 いつものよう、隣に座らなかったのは……やはり、彼の腕の中におさまっている、小さきものの所為ではある。
「しかし……驚いたよなァ。まさかお前が、」
 ……『子供を産む』なんて言い出すとは、さ。


『子供は好きか?』

 そんな唐突な問いはこのアパートに越して来てから一年も経とうと言う頃。
『別に? ……まぁ、嫌いじゃねェけど?』
『欲しいか?』
『は??』
『子供だ』
 俺と、お前の。
 ちょいちょいと自分と俺とを指差す仕草に、さして深く考えることもせず、『出来るわけねーだろが』と返して。
 いつも理詰めで物を言うキッドでも、「もしも」の話なんかするようになったんだなァと、時の流れを思って少し温かい気持ちになり。
『……でも、まぁ。もし出来るんだったら』
 いてもいいかもな、などと、軽い気持ちで返答して。
 一週間後、キッドは『しばらく留守を頼む』と言い残して、二人のアパートから姿を消した。

『子を生むため帰省する』

 ……そんな台詞を残して恋人に出て行かれた、俺の悲哀をちょっと想像してほしい。言葉になんねーだろ?
 どう考えても体の良い別れ文句じゃねーかと、しばらくは立ち直れないでいた最初の一週間。
 その後死武専に姿も見せずかといって任務に赴いている様子でもない、キッドの行方をそれとなく探し始めた二週間目、どうやら本当に死神様の元へ帰っているらしいとマカの親父づてに聞き及び、ならば理由は分からないが待とうじゃねーか、と諦めの境地に達して。
 そして丸三週間経った今日。
 キッドが本当に、子供を抱いて帰ってきたのだ。


 ……考えてみれば現実だって十分スペクタクルだな、と気を落ちつかせるため、既に少しぬるくなってしまったコーヒーを啜る。
 意外なほどに早かった、というのがまず正直な感想だった。なにせ最後の台詞が台詞だけに、十月十日ぐらい待つ覚悟はあったんだが。
 まぁ神っていやあ埋葬されても三日後に復活するぐらいの驚異の輪廻サイクルなワケだし、誕生が三週間やそこらでも別に不思議じゃ……ない……よな。うん。
「俺とお前の子、が……できるなんて……嘘みてェだけど、……本当なんだよな」
 内心の動揺を押し隠しつつ、さすが神様ヒトの常識では図れねェ、とややぎこちない笑みを浮かべた俺に、キッドは今まで俺にさえも見せたこともないような愛おしげな眼差しで嬰児を抱きながら、予期せぬ答えを返してきた。
「当然だ。死武専の科学力を侮るんじゃない」
「か、科学のチカラっ?!」
 ……危うく飲みかけのコーヒーを水平噴射するところだった。
 キッドと付き合いだして以来、諸々の不条理に相対してずいぶん耐性がついたと思っていたが、まだまだ俺も甘い、と言うしかない。
 そういえば、心当たりはなくもない。帰省前、キッドは確かに色んなモノを蒐集していた。俺の髪の毛だとか血液だとか、それ以外の『体液』だとか。
 どこぞの神様のように卵生ではなかったことに少し安心を覚えたものの、採取されたあれらをどう練り合わせてこの炭素系生命体を生み出したのかってことについては、……あんまり深く考えたくねェな。

 なにか神聖な力がはたらいて出来た子供ってのも複雑だが、科学力で生み出された子供ってのもそれはそれで不安で、……っていうかそもそもそれは生物のカテゴリに属しているものなのか。ヒトなのか? それとも神なのか?
 ……以前に、魂の宿ったものなんだろうか、それは?

 ぐるぐると嫌な想像を巡らしている俺の耳に、ほやぁ、と赤ん坊の声が届く。
 まるで俺の不安を感じ取ったかのような、弱々しい声。
 ややばつの悪い思いでマグを置き、黒い産着にくるまれた赤子と、それをあやすキッドをじっと見つめる。
 少し、纏う空気が変わったような気がする。命を育み包み込む、母なる慈愛……だろうか。
「……抱いてみたいんだけど、……いいか?」
 言って、 両手を伸ばした俺にキッドは少しだけ驚いたように目を見開いて、やがて柔らかく微笑んだ。


 ……首も座ってない赤ん坊を抱くのなんざ初めてで、頼りないその小さな身体を取り落としたらどうしようかという緊張で顔が強張る俺に、キッドは軽く苦笑する。
「そう固くならなくて良い。首と肩あたりに手を入れて、そうだ、反対の手で腰を……」
 レクチャーされながらおっかなびっくり抱き上げた小さな命はあまりにか弱く、柔らかく、そして驚くほど温かい。
 産着が大きすぎるのか、すっぽりと包まれていて顔が良く見えない。捲ろうとして触れた指先を、きゅっと握られたのは把握反射というやつだろうか。その小さな掌の、精緻なつくりに目が奪われる。
 魂の視えない俺にだってわかる。この腕に伝わる温もりと、煌めくような命の輝き。
「俺達の子、か」
 守るべきものが、ひとつ増えた。
 ただそれだけのことが、胸を締め付けるほどに嬉しくて。
 人であろうと神であろうと。炭素系だろうが珪素系だろうが……たとえ魂が宿らぬものだとしても、構わないと思う。胸に満ちるこの愛しさは、本物だ。
 柄にもなく、目の奥がじんと熱くなって、誤魔化すように視線を上げ、軽く鼻をすする。

 この子を幸せにしてやる、そのための代償ならいくらでも払ってやろう。先程までの戸惑いは消え、ただ素直にそう思えるようになっていた。
 遂に俺も人の親になっちまったのか、と喜びと同時に哀愁のようなものを感じつつ、ただ抱き上げるのにすら必死で、まだ顔さえまともに見ていないことに気が付く。
 ……なにやってんだ、俺。舞い上がっちゃってんだろうか。
 さて俺とキッドどっちに似てるんだろうか、と少しばかりどきどきしながら覗きこんだ我が子の肌は体温を感じさせないほどに白く、陶器を思わせるその顔立ちは冷たく滑らかな楕円形。しかし顎のラインはやや鋭角で、ツノのようなものが三本生えた他に類を見ないなかなか斬新なフォルム。目鼻立ちは深く、というよりは暗く落ち窪んでいて、まるで奈落の底まで続く穴のような……、
「………………つか、お面だろ、これ!!!」
 お祖父ちゃん似なんだなー、とか一瞬思っちまったじゃねェか。
 死神様と全く同じ面をつけ、漆黒の産着にくるまれたその様子はまるで……、「小さな死神様」と表現するのが最も相応しい。というか、それ以外の表現方法が見つからない。
 それが死神家の慣習であるのか、それともキッドの、父に対する行き過ぎた敬愛からきたものなのかは定かでないが、ともかく、だ。
「こんな小さい子に面なんかつけて、窒息したらどうすんだ……ったく」
 驚かせようってつもりならキッドも人が悪ぃよな、と面に手を掛ける。

 …………取れない。

 顎のあたりに指を引っ掛け、ぐいーっとかなりの力を込めて引っ張ってみるも、それは一向に剥がれる様子を見せない。
 というか「剥がれる」とかそんな感覚じゃない、まるで体の一部であるかのような……
「な、何をしているソウル! お前、我が子を手に掛ける気か!?」
 え!?
 いや、なにその新情報! 取ったら死ぬのかよコレ!? どんな生物なんだそれは……!
 驚愕の表情で立ちつくす、俺の手から我が子を引っ手繰ったキッドにきつく睨まれる。
 その腕の中で、赤ん坊が小さくむずがる。死神様と同じ面、底の見えない窪んだ目の奥に、キッドの瞳と同じ金色が鈍く光ったような気がして。
 すぅ、と小さな呼吸音。
 あ、泣くな、と瞬間的に分かっていても、次の展開は到底予想できる範囲のものではなかったのだ。

「おぎゃああああああああ」
「おおおわああああああああああああっ!!!」

 耳を劈く大音量は、紛れもなく、…………死神様の声、だった。

「…………! ………………!?! ………………!!!」

 赤ん坊を抱えたキッドが何か口喧しく叫んでいて、しかし全ては我が子の、地の底から響くかのような泣き声(死神様ボイス)に掻き消されてしまう。
 両耳を塞いでいてなお鼓膜を突き破りそうなその声が脳を揺らし、段々と思考がぼんやり霞んできた。
 ……ここまできてようやくすべてを理解して、俺は今日何度目かの諦観に身を委ねる。



 『天丼は三回まで』
 そんな言葉もそういやああったなぁと薄れゆく意識の中思いながら、俺は次の目覚めが平穏なものであるよう、心の底から願わずにはおれなかった……。




 [ END? ]