においで


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「…………はッ?!」

 世界が鮮明な像を結ぶ。視界に真っ先に飛び込んできた金色が、見慣れたキッドの瞳であると認識できる頃には、脳内からあの喧しい鐘の音は掻き消えていた。
「っ? ……起きたか、ソウル……どうした?」
 どうやら俺は揺り起こされたらしく、「うなされていたようだが」と肩から手を離したキッドの声音が若干気遣わしげだ。

 夢…………か? そうだよな?

 身体中がべたべたとして気持ちが悪いのは寝汗のためであってシャンパンシャワーを浴びた所為ではなく、そしてキッドが身に付けているものはラフな普段着であり純白のタキシードではない。
「………………いや……なんでも」
 身を起こし、汗を吸って湿った髪を掻きあげる。指を通る感触は馴染みの癖毛。『女子の憧れサラサラのロングヘア』はそこにはなく、……いやしかしまさかな、と恐る恐る自分の体を探る。
『ない』し、『ある』、ということだけを確認して取り敢えず安堵のため息をついた俺を怪訝な目で見て、
「朝食ができている。早く支度して降りてこい」
 言い残し、キッドは部屋を出て行った。

「いつも通り、……だな」
 声に出して、実感を得ようと努める。まだうまく働かない頭を首ごとぐるりと回し、高い天井を見上げる。うん、間違いない。俺の部屋だ。
 縦に長い窓からは明るい陽光が差し込み、ふわりと漂ってくる、小麦の焼ける芳ばしい香り。
 常にどこか薄暗い雰囲気を纏う邸内も、この時ばかりは朝の爽やかな空気で満たされる。
 俺とキッドが結ばれてから、死刑台邸で迎える何度目かの朝。
 全ては見慣れたいつも通りの朝、……だった。


「うすっう〜〜〜っす。お〜〜はようさ〜〜〜ん」

 間延びした声が空気を震わせる。
 その声のトーンとは対照的に俺は一本芯が通ったかのような厳粛な気持ちで背筋をしゃきりと伸ばした。
 超特急で身支度を整えダイニングへと降りた俺を迎えたのは、死神様の朝の挨拶。
 ……これもまた、日常風景だ。
 食事を摂る必要もない(はずだ)のに必ず食卓を共にする、死神様の毎日の日課は主に生活態度チェック。
 勿論、俺限定で。
 何を考えているのか全く読めない死神様の顔が、すいっと壁の時計の方を向いたから、俺は次に来るであろう展開を予測することで、できるだけ心理的ダメージを軽減しようと試みる。
 今日の朝食はどう少なく見積もっても、いつもより一時間は遅い。
「どうやら婿殿は、宵っ張りの朝寝坊のようだねェ?」
 ……ほーら来た。
 ちくり、と目に見えない刺が刺さる感触に、気付かない振りをすることだけはなんとかマスターした。俺のできることといったらそれぐらいだ、というのもやや悲しい話ではある。


 親子の熾烈な争いがあった。
 らしい。
 それが一体いつからなのか、一体いつまで続くのか。未だ終わりの見えない冷戦が、明確に表面化したのは俺が死神様に直談判に赴いたあの日から、ではなかったろうか。
 息子さんをください、というお決まりの文句を『いいよー』とあっさり快諾した死神様は、しかし形式上入婿という形になるが構わないかいと言葉を続け、『息子が二人になるんだねぇ……』なんてお面の目元を拭う仕草をしてみせるものだから。
 真摯な思いは神をも動かすのだと、感極まっていたのは俺一人。
 必ず幸せにします! なんて鼻息荒く誓いを立てる俺とは対照的に、やや冷やかな眼差しでやり取りを眺めていたキッドは、あの時既にこうなることを予測していたんだろう。死刑台邸での同居を承諾した事に対して呆れたように溜息をつき、『……若いうちの苦労は買ってでもしろ、ということだな』と呟いたのを今でも覚えている。


 スイマセンと軽く頭を下げ、態度だけは殊勝に朝食の席についた俺にさらに追撃。
「そんな緩んだ頭でいられちゃー困るよ? デスサイズともあろうモノが」
 いつものように至極のんびりとした口調で、しかし圧倒的な威圧感を持って死神様の言葉が振りかかる。
 昨日までの任務は久方ぶりにマカとだったが、今、メインで俺を振るっているのは殆どキッドだ。
 つまり俺の気の緩みがキッドを危険に曝すことになる。死神様の言葉は正論ではある。
 ……ちょーっとばかし息子への愛情過多なだけなのだ、理不尽に人をいたぶるのが趣味なワケじゃあ……ないんだと、思いたい。

 しかし理解ある義父であった筈の死神様からは、かつてのように『ソウル君』と親しげに呼ばれることはなくなり、いつしか『婿殿』なんて呼称で殊更俺のアウェー感をちくちくと刺激することが日課となり。
 そんな昼ドラめいた嫁姑ならぬ婿舅バトルに立ち向かうにもそれなりの心構えが必要ではあって、しかし残念ながら今日は心身ともにコンディションはあまり良くない。正直あと一時間は余分に寝ていたいところだが、『昨日戻りが遅かったから朝寝させてください』なんて、俺の立場で言えよう筈がないだろ?

 カチャン。
 カップをソーサーに戻す音がやけに高く響き、死神様のお説教が途切れる。亀の如く首を引っ込めひたすら嵐が通り過ぎるのを待っていた俺と、死神様と二人分の視線を悠然と受け止め、キッドが徐に口を開く。
「父上。ソウルも任務から戻ったばかりで疲れているし、そもそも今日は休息日だ。少しぐらいは構わないだろう」
「……ほんと、キッドくんは婿殿に甘いよねぇ〜。こういう時だけキッチリカッチリはお休みなのかなァ」
 どうやら今日は特別に虫の居所が良くないらしく、口撃の矛先はキッドにまで及んでしまう。……ひょっとしたら、俺が妙な夢と格闘している間に二人の1ラウンド目は終了していて、今は2ラウンド目真っ最中なのかもしれない。
 ああまずいな、と焦りを覚えつつどう口を挟むべきか、未だに正解を見つけることはできないでいる。
 俺がターゲットである分には一向に構わないのだ。むしろそうであってくれなくては困る。
 なぜって、一番面倒なのはここから親子喧嘩へと発展してしまうことなのだからして。

「いくら新婚だからって、いつまでもそんな調子じゃ周りに示しがつかないデショ?」
「父上はソウルに厳しすぎるよ。それこそが逆に特別扱いなんじゃないか」
「え〜え〜もう特別扱い上等。大切な一人息子を預けるんだもの、それぐらいは言わせて頂きますとも」
 ダン! と死神様の大きな掌が握り拳を作ってテーブルを叩いた拍子に、卓上の食器がガチャガチャと騒がしい音を立て、キッドの眉がぴくりと上がる。
 咄嗟にコーヒーカップだけを押さえ、なんとか惨事を免れたことに安堵のため息をついた俺に、
「だいたい、朝食だって手を抜きすぎなんじゃないの」
 とすかさず突っ込みが入る。
 卓上に並ぶのはバターを塗っただけのトーストと、インスタントのコーヒー。やや寂しいモーニングは確かに栄養バランスも何もあったものではないが、まさかそんな細かい所まで突っ込まれるとは思わなかった、……失敗したな。
 責任の所在は半分は俺にある。昨日のうちに「焼けばいいだけ、湯を注げばいいだけ」にしておいたんだが、……仕方ねェだろ、キッドにイチから任せてたら朝飯が晩になっても食えねェんだから。
 
 ぶつぶつ文句を言いながらも毎日の食事を用意してやっていたリズはもうここにはいない。
 『新婚家庭にお邪魔するほどヤボじゃねーよ』と自ら屋敷の退去を決めた姉妹に、やや憐みを含んだ目でぽんと肩を叩かれたあの日はもう遠い昔のことのようだ。あの頃は、まさかこんな事になるなんて思いもしなかったもんだが。
 ……せめて卵ぐらいは茹でておくべきだったな。「卵は完全栄養食ですよ」などというフォローがどこまで有効かはわからないが。
「言わせて貰うけど父上こそ最近公私混同が……!」
「だからわたしは普段の心構えが大切だと言って……!」
 疲労にかまけて頭の回らなかった昨日の自分を悔やんでいるうち、いつしか二人の間にバチバチと目に見えない火花が散る。いつも通り、実に些細なことから始まった舌戦はヒートアップしていくばかりで、そして白熱するほどに辺りの空気は温度を下げ、死の影さえ纏う冷ややかな冷気がだだっ広い部屋中に充満していく。
 …………おおおおおい。
 勘弁してくれ、死神二人の魂のぶつかりあいなんざ、屋敷どころか街が吹っ飛ぶぞ……!
「おい……、二人とも、もうそのへんで……」
 キッ、と二人同時に睨みつけられ、寿命が軽く五年は縮んだ気がした。てか相手は死神×2だ、リアルに縮んでいるんじゃァないだろうか。五年どころでなく。
 四つ分の目ヂカラで射抜かれて、そりゃあもう顔に穴があくんじゃねーかって思うのは一瞬。
 この後の展開はもう大体分かっている。
 先程までくだらない口論を展開していた二人が、この時だけは図ったかのように口を揃え、

「「種なしカボチャは引っ込んでいろ!!!」」

 そう、毎回このパターンなん……



「…………ってか、男同士で子供ができるかっての………………!!!」