4.拳と家畜と看板娘 ──Grand trouble──
東門と西門の見張りが一人なのに対し、南門だけは二人が見張りへと回される。
「──って事が有ったんですよ……」
「……うーん、何て言うか、お疲れさま」
その為に、南門だけは大概賑やかに一日が過ぎていくものなのだ。。
特に昼食を終えた昼下がりなどはその傾向が顕著で、逆にそうしなければ居眠りしてしまう事も多いのだが。
しかし、南門で進行中の会話は少し普段とは趣が違っていた。
門番を勤めているのは制服が所々汚れたアルハイトと、槍を持って漫然と直立しているロクスの二人組。
「で。話してて物凄く嫌な予感がしてきたんですけど、もしかしてこれから毎日この調子だったりします……?」
「いやぁ、流石にそんな事は無いと思うよ?」
日はまだ高く、何か問題が起きている訳でもなし。交流を深める為にも会話を重ねることはお互いに意味がある。
ロクスはそう思うもやはり嘘は言えない。自らの経験を含めた憶測を正直に伝えた。
「まぁ、長くて四日おきぐらいかなぁ」
「…………」
濃厚な落胆の気配を纏いアルハイトが肩を落とす。先程まで朗らかに続いていた会話が音も無く途切れた。
ロクスは嘘を言えない自分の性格が少し悲しくなる。
まだまだ太陽の位置は高い。
ノックの音に拒絶も歓迎も持たない平坦な返答が返る。
この部屋への来客を拒絶するのは本末転倒であり、歓迎するのは余りに無礼。
もっとも、この部屋に本来の用途で訪れる人間など滅多に居ないのだが。
「入るわよ。ガルスがここに来たって聞いたけど、本当なの?」
そっけなく医務室に足を踏み入れたのは、ヘルザ村分隊が隊長のレゼミア・コルツヘイン。
それを迎えるのは医務室の主ノックス・オーザンと、アーゼン・ヒッテンハルト。
「あ〜、医務室には来たが儂じゃなくてアーゼンに用事が有ったんじゃよ。『服が切れたから直してくれ』とな」
「常日頃から私は万能の便利箱じゃ無いと主張してるのだがね……
騎士の制服が切れたままと言うのも見苦しいので結局直してしまったが」
大事では無さそうだと判断したレザミアはふぅん、と気の無い返事を返して部屋を出る。
が、その端正な顔だけがあわてて医務室に戻ってきた。
「ねぇ、『破けた』じゃなくて『切れた』ってどういう事?」
「そのまんまじゃよ」
「アルハイト君と模擬剣で遊んでいたつもりがお互い真剣を振るってたそうだ。全くもってガルスらしい」
話を聞いたレザミアは顔を抑えながら深い溜息を一つ。丸一日の私用から、午後の内容を大幅に変更する。
「一度、訓練場の道具を整理しないと駄目ね。いつの間に真剣なんて混じってたのかしら……」
医務室を去ろうとするレザミアに、医務室の主が声をかける。
「まぁ隊長、その前に一服していかんかね。昨日来てた楽団から珍しいお茶を買ったでな。
ちょっと試してみるのも悪くないじゃろう?」
「備品の整理なら私も手伝おう。それなら一服しても十分夜までに間に合うのではないかね?」
「……そこまで言うなら、ご馳走になろうかしら」
よし来た、とオックスは席を立って茶の準備を始めた。
騎士団宿舎の医務室には、村に三本しか敷かれていない個別水道が引き込んである。
有事の際に十分な水が使えるようにとの名目だが、オックスがヘルザ村に来てからそんな大騒ぎのになったことは無い。
結局、引き込んだ水道は加熱用の刻印板を常備しておけば気軽に茶を飲める程度の役にしか立っていなかった。
だがそれで良い、と思いながらオックスは刻印板に魔力を引き込む。
……あんな光景はこの村に合わんからのう。
オックスは内心で頷く。日当たりの良い部屋に湯気が沸き立ち、芳香を感じさせる光景。
これこそがヘルザ村に有るべき光景だろう、と。
その茶を口にした途端、皆の表情に共通したものが浮かぶ。三者三様に眉根をしかめ自分が何を口にしたのかを確かめていた。
「オックス……貴方、コレに幾ら払ったの?」
「いやぁ、金額自体は大したものじゃないんじゃが……」
「なんともこれは……お茶と言うよりは薬のような味だね。実に体に染み入る」
ごちそうさま、と二人分の声が重なりまだ中身を半分以上残したカップがオックスに向かって同時に差し出される。
「……えーと、儂が飲まなきゃいかんのかね?」
「淹れたお茶を無駄にするのは良くないと思うがね」
「資源は有効に活用なさい。これ、隊長命令だから違反しないように」
来客者たちはそそくさと医務室から退室していく。残されたのは三人分のカップと立ち上る湯気と芳香、そして
「……老人虐待反対じゃよ」
一杯目のお茶に手を伸ばすオックスだった。
一通り愚痴を吐き終えようとしていたアルハイトの視界に動きがあった。
中年の男性が、随分と急いだ様子で向かってきている。
「あれ……クレイドさん。あんなに無理して、どうしたんだろ?」
ちょっと行ってくるね、の一言と共にロクスは槍を置いて小走りで中年の元へ。
幾つか言葉を交わした後、ロクスがアルハイトへと大声で呼びかけた。
「ごめーん!!ちょっと牧場に行ってくるから、一人で見張りしててくれるー!?」
はーい、とアルハイトの返事を聞くや否や二人は小走りで農場の奥へ。
その二人の背中を見送り、アルハイトは暇のつぶし方をアレコレと考え出す。大した案も出てきそうになかった。
……基礎体力に差がありすぎるって!
内心で毒づきながらロクスは走り続ける。口にしないのは呼吸が乱れていて喋るよりも息がしたいからだ。
だが頭の回転なら自分の方が上と言う自負がロクスにはある。
事実、横合いから飛び出したクレイドに妨害された相手はロクスの作戦通りに誘導されていく。
その動きにロクスは自分たちの勝利を確信する。何故ならその進路の先はヘルザ村の南門。
アルハイトが暇を持て余している筈だ。
「アルハイトくーーーーーーん、ちょっとその子を――」
その呼びかけに、俯いたアルハイトは反応しなかった。
「――――のー!?」
その声に起こされた意識が跳び跳ねる。
完全に寝入っていた状態から「呼びかけられた」という事実しか認識できず、反射的に槍を抱えなおす。
が、その行動は根本的に意味が無い。
アルハイトが姿勢を正して周囲を見渡そうとした時、彼の横を力強い音が駆け抜けて行った。
縮まるロクス達との距離に反比例してアルハイトの背中に冷たい汗が大量に溢れだす。
「あ、その、えっと、お、追いかけます!?」
「いや、大丈夫……説明、するから、一息つかせて…………」
自分が重大な過失は侵してないと分かり安堵の息を吐くアルハイト。
でも失点一だな、と自らの責任感が叱咤する。
「あの、一体何がどうなってんですか?」
「トルマグが一匹逃げ出してしまってな……それも、よりによって乗用種の方だ」
うへぇ、と流石に口にすることは無いがアルハイトの表情は渋くなる。
トルマグは高野部の家畜としてよく飼われる、成人の腰に届くか否かの背丈とむくむくとした毛並みが特徴の魔獣だ。
人に飼われているのは殆どが牧畜種と乗用種だが、主に目を中心にかなり愛嬌の有る外見なので
上流階級では愛玩用に飼われる事もある。
その中で乗用種の特徴には底なしの体力と高い知性があり、特に知性は個体差によっては人語をかなり的確に解する。
逃げる乗用種のトルマグを一人で追いかけたところで捕獲など出来ようも無い。
だからと村中を好き勝手に走らせておけない事情がある。上等なトルマグは一匹で一般的な家庭を一年養えるほどの値がつくのだ。
それだけにたとえ一匹に逃げられるだけでも、経済的に相当な損失になる。
「……取りあえず追いかけます。ロクスさん、これ」
抱えていた槍をロクスに返し、ロープを受け取って門を通るアルハイト。
意外にもトルマグはすぐ近くから、そのつぶらな瞳でアルハイト達を伺っていた。
「…………と言っても、どうしたもんかな」
村を歩くアルハイト。その少し先には逃げ出したトルマグがほてほてとした歩調でのんびり歩いている。
所々泥で汚れた制服をはたきながら、アルハイトは自分で口にした言葉を反芻した。
……どうしたもんか。
先程からこうしてノンビリと歩いているのだが、その間ただ散歩に興じていたわけではない。
意外と近くまではトルマグに近寄れる。その距離の誘惑に何度か捕獲しようと試みて悉く失敗しているのだ。
トルマグの隙――とアルハイトが思った瞬間――を突いて奇襲してみたが、
お互いの間隔が実は一歩では届かない絶妙な距離だと気付いたのは四回目に地面へ飛び込んだときだ。
そして現在、五回目の奇襲を敢行する前に何か良い案はないものかと思案しているが、
あまり動物の習性に詳しくないアルハイトには妙案が思いつかない。
「……このまんま歩かせてれば、勝手に戻りそうな気もするんだけどなぁ」
そうやって楽観している間に、不意を突いて逃げられたら元も子もないからこそアルハイトが見張っているのだ。
しかし捕まえるには手が足りない。
一人で思考の堂々巡りを繰り返していると、トルマグの進行方向にロングスカート姿が見えた。
向こうもこちらに気付いたのだろう。笑顔で手を小さく振りながらアルハイトに近づいてくる。
「こんにちはアルハイトさん。トルマグとお散歩ですか?」
いや仕事、と言いかけた所でアルハイトの口が止まる。その視線の先でティアナが可愛いー、と良いながらトルマグを撫でていた。
トルマグも特に嫌がる素振りは見せず、只々撫でられるに任せている。
……これは、使えるかな?
アルハイトが思案している間にティアナは撫でるだけでは飽き足らず、トルマグの首周りに抱きついていた。
意図せず好機を得たアルハイトは忍び足でトルマグの死角へと移動開始。完了。
トルマグもティアナに可愛がられるのが嬉しいのか、アルハイトの動きにまで気が回ってないようだった。
……問題は、ここからか。
まずはティアナの注意をこちらに向ける必要がある。
取りあえず、大きく両手を振ってティアナに自分の存在をアピール。少しの時間差をもってティアナがその動きに気付く。
アルハイトの行動の意図が理解できないのか、なにしてるんですか、と言いたげな顔で彼の顔を見ている。
彼女の注意をひきつけたと分かり、アルハイトは「トルマグを捕まえて」と体と口の動きで催促した。
「…………?」
意図が上手く伝わらないのか、ティアナはトルマグの首を抱えなおす。まだ力の入り方が甘い。
……もうちょっと、もうちょっと力いれてくれ!
かなり大きい動きで自分の心情を大胆に伝えようとするアルハイト。もはやロープを用いた無声演劇に近い。
どうにかその意図と背景が伝わったのか、ティアナは表情に閃きを見せてから真面目な表情で頷きトルマグの首を軽く抱えなおす。
後は合図一つあればきっちりとトルマグを抑えられる姿勢だ。
好機を得たアルハイトはトルマグに悟られないように姿勢を低くして接近。
ティアナと顔を突き合せるような距離まで近づき、縄を用意しつつ左手でカウントダウンを始める。
『…………、……、……えいっ!』
ティアナが首周りからトルマグををがっしりと抑え込み、その隙にアルハイトはトルマグの捕獲に挑む。
しかしここまでくれば当然トルマグも二人の意図に気付き、抵抗する。
「アルハイトさん早く!この子凄い力持ちですよっ!」
「きゅおー!きゅおー!」
「えぇいおとなしく捕まっとけっての!」
「きゃー待って待って持ち上げないでっ!!」
「きゅおー!!」
「ここまで縛られててまだ抵抗するかこのっ!」
「ちょ、ちょっと私に抱きついても逃げらんないですよ!?」
「きゅおー」
「あぁくそっ!いつの間にあそこに――」
『……え?』
激しいもつれ合いから二人が我に返る。
トルマグは既に二人から距離を置いていて、ティアナの体には縄が乱雑緩めに絡まっている。
そしてアルハイトは、後少しでティアナを捕縛完了するところだ。
沈黙と硬直は一瞬。ティアナが翻り叫びが続く。
「私を縛ってなにする気なんですかー!?」
拳が美しく円弧を描きアルハイトの顎に突き刺さる。
アルハイトの意識が空高く舞い上がり、トルマグは暇そうにあくびをしていた。
「……おーい新入り。無事かー?」
頬を軽く叩かれる刺激と呼びかけに、意識が覚醒する。目を開ければそこには浅黒い顔の青年。
「……あ、ヴェノアさん」
「一体どういう趣味か突発性奇行か知らねぇけど、そろそろ起きとかないと風邪ひくぞ?」
「いや、趣味でも突発性奇行でもないんですけど…………」
でも何でだっけ……、とまだ覚醒しきってない頭に思考を流す。
「そうだ、トルマグ。ヴェノアさん、村の中でトルマグ見かけませんでした?」
辺りを見回すがティアナもトルマグも見当たらない。日の傾き具合からするに相当長い間昏倒していたらしい。
「トルマグ? そういやさっき東門の近くでティアナが引き連れてたな……新しい飼育法か何かか?」
「脱走者ですよ。その割に呑気な奴ですけど」
ありがとうございます、の一言を残してアルハイトは夕日に背を向けて小走り。
街道で行商の一行と挨拶を交わしつつすれ違うと、程なくして東門の前で困っているティアナが見えた。
「あ、アルハイトさん。私、もうお店に戻らないと…………」
「分かってる、さっき行商の人たちに挨拶されたよ。今夜は此処に泊まるからよろしくってさ」
「あぁやっぱり……トルマグはあっちに居ますから、後をお願いしますね」
門の外で草を食べてるトルマグを見ている間にも、ティアナの足音が急ぎ気味に遠ざかっていく。
……また孤立無援か。
一抹の不安と寂しさを抱えて門を通る。
そう言えば東門は誰が見張ってるんだろう、と左右を見るとマリアが岩に鎮座してトルマグを無表情に見つめていた。
「……逃げ出したトルマグですか?」
「えぇ、もう昼過ぎからずっと追いかけてるんですけど全然捕まらなくて」
「……野生のトルマグの行動範囲はそんなに広くないです。
ましてや人に飼われてるのなら、焦って捕まえなくても自分から放牧場に戻りますよ」
「え、でも飼い主のおじさんは相当血相変えてましたよ……?」
「……一匹の単価が高いですから気持ちは分かります。でも、ほら」
マリアが指差す先、トルマグは南に向かって歩き始めている。アルハイトの記憶が正しければ牧場の方向だ。
本当だ、と呟いたアルハイトの背中にマリアは言葉を続けた。
「……きっと、少し冒険したかっただけです。ちゃんと見張っててあげれば、心配ないですよ。後をお願いします」
「あ、はい」
どうやらトルマグは森の中を一直線に突っ切って帰るつもりらしい。
木々に紛れて見失わないために小走りでトルマグに近寄っていくアルハイト。
その背中を見送るマリアからくす、と小さな笑みが零れる。
昨日ヘルザ村に来たばかりにしては、アルハイトがトルマグを追いかけている姿は妙に似合っていた。
「……風が出てきましたね」
今夜は少し涼しいかもしれません、と呟いてからマリアの思考は今宵の夕飯に移る。
若干の願望を含んでいるが、煮物か汁物だろうと結論を出して彼女は夕食の時間を待ちわびることにした。
森の中はそれほど鬱蒼としてもいなかったが、日が傾いているぶん足元が暗くて少し歩きづらい。
先を行くトルマグが少しでも急ぎ始めたら、すぐに置き去りにされそうだ。
「……それはマズイな。すっごく」
既に空は赤よりも黒に近い。この状況ではぐれれば、明朝まで村に帰れない自信がある。
アルハイトの歩く速度が少しだけ速まった時、異音が一人と一匹の耳に届いた。
音程の低い唸り、ラ行が回転するような余韻。野生の狼か。だがそれにしては何かがおかしい。
敢えて表現すれば路地裏で尻尾を踏まれた犬が飛び掛る直前の声。それを研鑚して何百倍も圧倒的にすれば近いものになるか。
周囲を警戒しつつ前方で止まってるトルマグに駆け寄る。
左から右まで見回すが、既に沈みかけた太陽の明かりではろくに視界を確保できない。
背が低い木々の擦れる音に頼ろうにも、先程から吹いている風は絶えず周囲の木々を揺らしていた。
「……くそっ」
トルマグに背を預ける形で抜刀する。戦力としてあてにしていないが、眼の代わりにはなる。
風に擦れる葉の音。
アルハイトの体内から時間の感覚が秒刻みで褪せていく。
鼓動。焦り。緊張。汗。
脳裏に恩師の言葉が反響する。
咆哮。
一瞬の硬直の中で感じ取れたのは、トルマグが自分を腰から突き飛ばしている事だった。
衝撃。
『アディカトレースの領地で狂魔獣と遭遇した奴は、ある意味大当たりだと思っとけ。死ぬなよ』
……後ろか!?
姿勢を崩して振り向けないアルハイトの耳元を、冷酷な響きがすり抜ける。
相手の姿が見えた。狼ではない。それを一回り半ほど大きくしたような生物。振り向いた顔に大きな牙が映えている。
アルハイトの知識には載っていないが一見しただけで充分に分かる。
狂魔獣だ。
だが、狂魔獣を前にして
……熱、い?
こめかみに浸透する熱への疑問が先に来た。
トルマグが自分の腰を咥えて引きずろうとしているのにも構わず、アルハイトは半ば呆然とした態で自らのこめかみに触れる。
感じたのは痛みと液体。見えたのはうっすらと赤い己の指。認識が遅れ、トルマグの鳴き声でやっと思考は事実の速度に追いつく。
助けられたのだ。
「…………くそっ!!」
弛緩していた全身を奮い起こして立ち上がる。
魔獣は既に飛び掛る構えを見せており、その体躯からして短距離走では分が悪い。
アルハイトの中の合理性が、トルマグを見捨てて逃走するべきだと判断。
「オマエは先に行ってろ!」
きゅおきゅおと抗議らしき鳴き声に振り向く事無く叫び、やがて聞こえた遠ざかる足音に一抹の安堵を得る。
その安堵を引き絞る形で緊張へと切り替え、手中の剣を構えなおす。
「……牧場を荒らされる訳にも行かないよな?」
命の恩獣を見捨てて逃げられるならば、もとより騎士など志願していない。
暴風が体躯を持ったような魔獣だった。
動いたと認識すれば眼前に肉薄しており、構えた剣に流される形で後方へと流れている。
それでも、アルハイトが追いつけない速度では無い。
事実アルハイトは先程から幾度と突撃を仕掛けられているが、負った傷はかすり傷が五箇所程度。
問題はそれよりもっと別の場所に在った。
……剣が通らない。
騎士団から支給された剣は取り回しの良さに重点が置かれている分、幾ばくか重さに欠けている。
硬いのは皮膚か体毛か。ともかく突撃を受け流しているだけでは擦過傷の一つも与えられないようだった。
状況は進展する気配を見せず、
……怪我と体力の分、俺が不利だな。
アルハイトは八度目の突撃を受け流す。
なかなか獲物を狩れぬ苛立ちを魔獣は剥き出しのまま唸りに乗せる。
……一撃で良い。全力で叩き込めればそれで!
怪我を覚悟で、構えを変える。相手のタイミングに合わせて受け流すのではなく、切り返す用意だ。
だが進展しない戦況に戦法を変えたのはアルハイトだけではない。
狂魔獣の突撃が飛び掛り食いちぎるためのそれから、低く姿勢を崩すものに変化した。
加速回数が増えた分、アルハイトの想定よりもその動きは速く、剣を振るうのがあまりに遅い。
衝突。
一面の赤色に土気色の牙がアクセントを付ける、余りにも生々しい光景を剣で押し返す。
背中から伝わる地面の冷気と魔獣の臭気、肩に食い込む爪がアルハイトの感覚を満たしていくがそれを不快と感じている余裕は無い。
剣の柄と腹を介して全身の力で魔獣と拮抗する。剣を咥えてでも魔獣はアルハイトを噛み千切らなければ気が晴れぬようだ。
憤怒にも似た感情の中で打開策を案ずるが、現実的で確実な打開策は用意できない。
……魔術を使うか?
この極限状況で魔術を使えば非制御反動を起こしかねない。
だがこのまま魔獣に食われるより、まだ少しはアルハイトの矜持に叶う選択肢ではある。
アルハイトが覚悟を決めて構造描画を始めようとした時、その風は北西から吹きつけた。
左手から刻列に魔力を通じ、右手で抜刀。
何度練習した動作か。今更思い出せる程少なくは無い。
分かるのは唯一つ。
部下の命にかけて失敗は無い。斬る。
斬撃と言うよりは炸裂。
逃れ損ねた魔獣の足、その一本が千切れ飛び地に落ちて焦げた匂いを放つ。
突っ込んできたトルマグに弾かれて、一回転したアルハイトの視界に立つは凛々しくも美しい背中。
「……隊長?」
「ずいぶん大きい狂魔獣……私が来るまでよく持ちこたえたわね。さ、早く片付けましょ」
見れば魔獣は足の一本を失っても、その戦意までは失っていないようだ。
先程より凶悪なうなり声を上げて二人を睨みつけている。
普通の獣ならば既に戦意を喪失しているところだが、それ故の『狂魔獣』と言うことか。
「アルハイト君は、魔術使えるのよね?」
「落ち着いて集中できるなら、それなりには」
「そう。じゃあ私が前に出るから、アルハイト君は魔術でアレの足を止めて」
アルハイトが了解の返事を返す前にレザミアは剣を翻して突進。
対する魔獣は先刻の一撃を警戒してか、横へ後ろへとにかく距離を開ける。
その動きに、アルハイトに注意を向けているそぶりは見られない。
二人の動きを目で追いつつ、アルハイトは『学校』で習った事の冷静かつ丁寧な反芻を始めた。
……厄介と言うか、面倒ね。
追えば引くが、引いても追わない。
不意打ちに決めた一撃を相当警戒しているのか、魔獣はレザミアの失策を待つ気でいるようだ。
だがその一撃もそれなりの予備動作を必要とする以上、素早い相手に警戒されていては使えない。
自然、その足が止まり両者が睨み合う。
15秒間の膠着を崩したのは世界に浸透していく違和感だった。
自己境界を拡大し、同時に自らの深奥の更に向こうへと意識を伸ばす。
範囲は拡大された自己内部限定。その領域に願望を極限まで鮮明に想像し総増し創造す。
全てはイメージに過ぎないが、しかし臨界点を超えるときに想念は実感を与える。世界を変革出来る、と。
……繋がった。
その感触を得たなら、後は願いを込めて叫ぶだけ。
『意思の鉄鎚をその身に打撃(きざ)みこめ!』
右から聞こえた叫びが魔獣を地へと叩きつける。正しく二因子過程を踏まえた魔術が、不可視の運動量を魔獣に与えたのだ。
魔獣が地に伏せて生まれた時間的空白を、レザミアが行動で埋めていく。
左手で軽く剣を撫でる動作。常存在構成として意味を持つ刀身の刻列が、充足された魔力を魔術に変換する。
手馴れた動きが要する時間は一瞬。魔獣が態勢を立て直すよりもずっと早く、彼女の動きは全てを終える。
魔獣が反射的に見上げた顔へと、夕闇の森に映える青白い光が振り抜かれた。
命の弾ける音が盛大に鳴り響く。
ヘルザ村への帰り道は意外と長かった。
「肩は大丈夫? 余程の深手じゃ無ければオックスが治せるけれど……」
「ええ、ちょっと刺さった程度です。もう出血も納まってますよ」
「良かった。なら村に戻りましょう。それと、お礼を忘れずにね?」
お礼とは言うが、足に擦り寄ってくる恩獣の生態に詳しくないアルハイトは何が礼として適切か分からない。
取り合えず擦り寄ってくる頭を撫でる。嬉しそうに声を上げるので是で良いのだろう。
「……隊長、さっきの一撃は──」
「この剣、特注品なのよ。権力やら人望やらを駆使して手に入れた反則品」
アルハイトの言葉に割り込み、一度も振り向くことなくレザミアは淡々と告げる。
「けど、私も一人じゃ勝てなかったわ。アルハイト君が恥じることは無いの。勘違いしちゃ駄目」
「……はい」
人前で涙する程、アルハイトも子供ではない。だが握り締めた拳の力はいつまでも抜けなかった。
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