第一話：妖精の庭（前編）

　妖精の庭と数多の詩に歌われているケルティア王国、北の都アルスターの黒い町並みが夜霧にしっとりと濡れている。
　ろうそくの灯りの揺れる酒場は夜が更けてもまだエールの香りと陽気な音楽で満ち溢れていた。
　昼には町辻で奏でていた楽士達のリュートにハープ、イリアンパイプにバグパイプ。
　互いに合奏しあい、いつの間にかにわか楽団となっている彼らは本当に楽しそうである。
　もっとも、すべての居合わせた楽士や詩人がそこへ加わっているというわけでもなさそうだ。
　その吟遊詩人二人組はどうやら休憩を優先しているようだった。
　一人は楽隊のような真新しい赤い服を、一人はくたびれた青い旅装に身を包んでいる。
　売れない吟遊詩人、トルヴァドールのラヴェルはそのにわか楽団には加わらず、聴衆と一緒になって楽しんでいた。
　その足元には竪琴が置かれているが、今夜は出番がなさそうだ。
　それに目を留めたのだろう、誰かがラヴェルの肩にぽんと手をおいた。
「よう、姉ちゃんも何か一つ歌ってくれよ」
　ケルティア独特の軽やかで早い拍子に合わせて揺れていた長い髪と帽子の羽飾りが痙攣したようにびくりと震えた。

　ぴしぃっ！

　妙な音に数人が彼に振り返った。
　テーブルの上には握られたままヒビ割れたエールのグラス。
　引き攣った笑みを浮かべたまま、ラヴェルはかろうじて声を絞り出した。
「あのー……僕、男なんですけど……」
「何ィ！？」
　凍りついた相手を見、ラヴェルは溜息をついた。
　向かいの席でリュートの調弦をしていた相棒が顔も上げずに尋ねる。
「……今日は何回だ？」
「これで四回目だよ……」
　翡翠色の長い髪、赤い服、丸い目に小柄な体躯。女性と見間違うなというほうが無理である。
　もう一度深々と溜息をつくとラヴェルはナイフを握った。
　目の前の揚げ魚と芋にタルタルソースをつけると口に運ぶ。
「それでレヴィン、この後どうするの？　行き先って考えてある？」
　青いシルエットの動きが止まる。
　向かいの席に座っていた相棒レヴィンは調弦の手を休めた。乾いた指先がエールのグラスに触れる。
「そうだな……こんな人間の多い場所よりも田舎のほうがいい。コノートにでもいってみるか」
「そうだね」
　ラヴェルとレヴィンが旅先で出会ってからもうじき一年になる。
　田舎貴族の居候養子として育ったラヴェルはまだまだ旅人としては駆け出しだが、レヴィンのほうはその時点ですでに幾年も放浪していたらしい。そしてその旅はかなり過酷であったようだ。
　酒場の音楽は熱を帯び、皆の意識も酒とともに揺れ動き、流れる調べと一つになって暗い室内を満たしている。
「あっ、レヴィンよしなよ、こんなところで」
「誰も見ちゃいないさ」
　そういうとレヴィンは額に巻いていた包帯と当て布を解いた。顔の半面を覆い隠す長い前髪の乱れを直すと、その下に一瞬、閉じられたまぶたが見えた。
　それに布を当て、包帯を巻き直す。
　レヴィンのただそれだけの動作の間、ラヴェルは一人で緊張して体を強張らせていた。
　相棒が包帯を巻き終えるとようやく緊張を解く。
　冷めかけたスープを飲み終え、ラヴェルは暗い窓の外に視線を向けた。
「ホリンはどうしてるかな？」
「さぁな」
　ケルティア王国最南部はコノート地方といい、赤枝と呼ばれる戦士達が支配下においている。
　その戦士達の頭目が猛犬のホリンとして名を馳せている男で、ラヴェルの顔見知りの一人であった。
「そろそろ寝ようかな」
「そうだな……そうするか」
　二人は腰を上げると二階の階段へと姿を消していく。
　その二人が去ってもまだ酒場の賑わいは衰えず、酔いと音楽が絶えずあたりを満たしている。
　そんな中、酒場の隅にいた一つの影が音もなく立ち上がった。
　どこかの貴人のお忍びなのだろうか。
　クローバー飾りのついた粗末なマントを羽織っているが、立ち居振る舞いにどことなく気品を感じさせる。
　目深にかぶったフードの下の瞳はなぜか詩人達の消えた暗い階段を注視していたが、その人物もやがてどこかへ姿を消していった。

　湖水地方と呼ばれるアルスターの原野が冷たい朝霧に濡れている。
　水気をたっぷり含んだ空気の中、足元には縁が茶色くなりかけたシロツメクサが可憐に揺れている。
「クローバーはケルティアではシャムロックと呼ばれてな、神聖な草とされているらしい」
「そうなの？　僕の故郷じゃただの牧草だけど」
　濡れている小さな白い花をラヴェルは摘んでみた。隣にかがみこんだレヴィンも濡れた大地に手を伸ばすが、その指は花ではなく小さな葉に触れた。
「葉の形が何か特別な意味があるらしい。他には平和の象徴ともされているそうだ」
「ああ、それはわかる気がする」
　花を地面に返すと二人は原野を南に向かって歩き出した。
　目指すナヴァン･フォートは、コノートの赤枝戦士団の居城である無骨な砦だ。
　数日をかけてケルティアの大地を南下する。
　緑の中にうっすら白く浮かぶ道を進み、ラヴェルが腰を下ろしたのは丁度昼になるころだった。
「ふうぅ」
　相棒がすぐ先の小川のほとりへ立つのを視界の隅に見ながら、ラヴェルは弁当を広げた。
　宿で作ってもらったのは、マスのフライを挟んだサンドイッチだ。
　こんがりと揚げられたそれが、千切り野菜や秘伝のソースと絡み合い、何ともいえない風味が口の中に広がる。
「うーん、おいしい……あれ？」
　口を動かしながらもラヴェルは異変に気付いた。
　背後の草むらがさわりと揺れる。
　その揺れ方は風によるものではない。
　相変わらず口の中にものを詰め込んだままラヴェルはそれを注視した。
　ゴブリンか、あるいはバーゲストか。
　ケルティアの野ではそういった妖精鬼や獣の類によく出会うものだ。
「うん、食べてから考えよう」
　いくらラヴェルの見た目が軟弱とはいえ、さすがにその程度の怪物には勝てる。
　腹が減っては戦は出来ぬというし、ラヴェルが最後のサンドイッチを口にくわえた、まさにその瞬間……。

「ふきゃー!?」

　人間の都合などお構い無しにそれは草むらから襲い掛かった。
　鋭い爪が日光に怪しく輝く。
「ぎゃー！」
　引き裂くような音がラヴェルの顔面から飛び散った。
　目の前を針のような体毛に覆われた獣の前脚が往復し、やがて血走った目が殺気立った光を放ちながら迫ってくる。
「きゃー！　レヴィン、助けてぇぇぇっ！」
　相棒がいたはずの小川へ視線をむけてもそこには誰もいない。
　必死に身を地面に転がし、ラヴェルは何とか起き上がったが、そこへ体当たりを食らう。
「ふむげっ!?」
　体全体で覆いかぶさると、その獣は爪の光る前脚でラヴェルのもち肌をぎっちりと押さえ込み、牙を剥いて顔を近づける。
「ひゃああああっ！」
　ごわごわの体毛とヒゲに容赦なく突き刺された挙句、ラヴェルは牙を剥いたままの怪物に強烈な接吻を食らった。
　獣の顔が近づいたかと思うとそれはラヴェルの顔からサンドイッチをむしり取った。
　日の光を浴びながら千切りキャベツが宙を舞い、秘伝のソースがべちゃりと飛び散る。
　どうやら食事が目当てだったらしい。
　獣はラヴェルから跳び退るとガツガツを牙を鳴らしながら奪った弁当を貪り食った。
　その姿は巨大な猫の形だ。
「ケットシーかな？」
　妖精猫かと思ってよく見るが、どうも違うようだ。
　この姿はただの巨大な山猫のようである。
　顔の引っかき傷からは血をだらだらと流し、故郷を出る際に新調したばかりの衣服はソースでベトベトにしながら、ラヴェルはようやく立ち上がった。
　腰からレイピアを抜く。
「とりあえずお仕置きを……」
「フランメ！」
　宣告と共に突然沸き起こった炎が獣を包んで吹き飛ばした。
　火だるまになった獣はこともあろうにラヴェルに激突する。
「うぎゃあああああ!?」
　ラヴェルを巻き添えにすると獣は不運な詩人と共に激しい水飛沫を上げながら小川に落下する。
「……レヴィン」
　やっとの思いで岸に這い上がると、ラヴェルはいつの間にか戻ってきた相棒を恨めしそうに見上げた。
「魔法を使うならあらかじめ言ってくれないと危ないんだけど」
「ああ、すまんな、咄嗟の判断だった」
　言葉とは裏腹に全く悪びれる様子は相棒には見て取れない。
　魔法の腕が良いのはいいのだが、詠唱無しで魔法を放ってくるので味方といえどもいつ魔法が発動するかわからない。
　まったく、敵にすれば限りなく危険だが味方にしたからといって安全とも限らないとは、厄介な相棒だ。
　新しいはずの服を傷だらけにした挙句にずぶぬれになったラヴェルは、どこか諦めたかのような溜息をついた。